本居宣長の学問は、出会い系かも?
宣長は本をいっぱい読み、また注意深く周囲を観察もしますが、それは種を蒔いているようなもの。それを大きく育ててくれたのが「人との出会い」でした。
医者をやりながら、夜は学問。家計簿も付ける。一日が大忙し。でもその中で、歌会や講釈、また円居といった人と集う時間、対話を大切にし、いっぱいの果実を得るのです。
契沖の本を教えてくれたのも、儒学の堀景山先生でしょう。堅い儒学の話は横に置いて、おまえさんの好きな日本の古典の話じゃが……なんて会話があったのかもしれません。
仲間の質問は、アイデアの宝庫。宣長学の一大成果「物のあはれ」の着想も、実は質問から。『古事記』について興味を持っているのだと言えば、江戸から帰ってきた人が賀茂真淵の本を貸してくれる。
出会いは、発見と歓びに満ちています。真珠は一粒でもきれいですが、それが連なると一層美しくなります。宣長の人生も、また同じ。出会いによって輝きを増すのです。
御世代わりの慶びの春、記念館でも、宣長のよろこび尽くしです。
慶びのお裾分け!《出会い》という視点から、ちょっと大変なこともあったけれどいつもプラス思考な宣長の、歓びに満ちた72年の生涯をたどります。
幸せな年の生涯から、慶びの歌、詞を集めます。
【会 期】 2019年3月5日(火)〜6月9日(日)
【展示総数】 84種96点(内、国重文45点)
※予告なく変更の可能性があります
【展示説明会】3月16日(土)、5月18日(土)
いずれも午前11時から(無料)
【休館日】 月曜日(祝日の場合は翌日)
※G.W.期間中は、休まず開館いたします。
【主な展示品】 ◎……国重要文化財
「荒木田久老宛宣長書簡」寛政10年(1798)6月17日付
◎『百人一首改観抄』契沖著宣長手沢本※契沖ノ説ハ証拠ナキコトヲイハズ
「万葉代匠記断簡」
「加藤千蔭宛宣長書簡」寛政10年(1798)4月9日付
※真淵門人・千蔭の万葉研究を宣長が手助け。
「荒木田久老の名前も書いてやってくれよ」
◎「田中道麿像」宣長賛
「横井千秋宛宣長書簡」寛政2年(1790)9月12日付
「妙法院宮真任法親王御懐紙」
◎「芝山殿賀家翁七十齢所賜之歌」
「催馬楽・鈴鹿川」
※享和元年京都で講釈の際、綾小路殿からの拝領品。
念願の京都公家からの高評
☆「山桜画賛」渡辺清画大平賛【小津明義氏寄贈】
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宣長とつながる、パールネットワーク |

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医者となって松阪へ帰郷した宣長は、その後、松阪の樹敬寺塔頭嶺松院で開催されていた嶺松院歌会に参加します。学問好きな松阪の人々が集まる歌会は、やがて宣長の講釈の場となりました。宣長へ最初に入門した、そのほとんどの人が、この嶺松院歌会のメンバーです。
「鈴屋円居の図」には、そんな宣長と松阪の人々が描かれます。狩衣に烏帽子という格好で、歌を詠んだり、先日読んだ本について議論したり。そんな楽しいサロンで、宣長の世界は磨かれていきました。
≫「嶺松院歌会」
≫「樹敬寺」
≫「講釈」 |
宣長のいる松阪へは、全国各地から宣長の噂を聞きつけた、たくさんの人々がやって来ます。
愛知県で活躍した田中道麿(1724−1784)は、読書が大好きな『万葉集』研究の大先生。安永6年(1777)に宣長のもとを訪れました。そのときに宣長から係り結びの法則について聞かされ、
「今まではよく分からなかったけれど、これで本当に"てにをは"について理解出来ました。道麿は生まれ変わりました!」と喜んで松阪から帰り、二度目の訪問時に、宣長よりも年長だったにも関わらず、入門しました。
きっと、そんな道麿先生から話を聞いたのでしょう。道麿が亡くなった翌年、尾張藩の重臣・横井千秋が鈴屋門へ入りました。
道麿先生がそんなに褒めた宣長先生なら、その本を出版しようと決心したのです。
宣長が半生をかけて研究した成果の『古事記伝』が刊行出来たのは、千秋のおかげ。
≫「田中道麿」
≫「横井千秋」 |
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念願の『古事記伝』初帙(巻1〜5)が刊行されたのは、寛政2年(1790、宣長61歳)9月。
この刊行された『古事記伝』を、妙法院宮が手に取られました。妙法院宮は光格天皇(1771−1840)の実兄で、京都芸術文化の中心におられた方。そんな妙法院宮に、千秋が『古事記伝』をご覧に入れたのです。
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≫「『古事記伝』版本第1帙刊行」
≫「宣長を援助してくれた人たち」
≫「光格天皇」 |
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内容に感心された宮が、実弟である光格天皇へ『古事記伝』をご紹介下さることとなりました。「妙法院宮真仁法親王御懐紙」は、宣長の著作を君(天皇)のご覧に入れたい、というお気持ちを詠まれたものです。新天皇陛下ご即位のよろこばしい春に、大変名誉なこの一連の内容を、妙法院宮の流れるような筆跡とともにご紹介いたします。
宣長は晩年になると、国学普及のため方々へ出歩くことになります。享和元年(1801)72歳の宣長は、3月1日に和歌山から帰ると、同月28日に講釈のため上京します。自ら門人宛の書簡で「とかく開けがたきは京都に而御座候」と記す通り、宣長68歳のときで京都鈴門は12名と少なかったようです。 |
京都での宣長講釈の評判も上々。「とても面白かった」と手紙が表具裏に貼られる「催馬楽・鈴鹿川」の歌は、京都で宣長の講釈を聞いた綾小路家の方から拝領もの。宣長の学問が時代に評価されたことへの祝いの歌であり、松阪の円居の場で掛けるのにぴったりだ!と、宣長亡き後に表具されました。宣長学が京都で高評を得たことの証である、よろこびに溢れた一幅なのです。 |
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★初出品史料を展示いたします
記念館で一足先にお花見をしませんか。展示室の桜は、雨でも大丈夫。
宣長が大好きだった山桜。画賛は門人・本居大平です。
2017年にリニューアルを記念し、小津明義氏に寄贈いただいたものの内の一つです。
描いたのは、名古屋の大和絵画家・渡辺清(1778−1861)。宣長と平田篤胤の「夢中対面図」や、奥墓のある山室山を描いた秀作「山室の図」などを描いた絵師です。清らしい繊細なタッチで描かれた桜を、ぜひご覧下さい。
≫「渡辺清」 |
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