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◆公開講演会 ※聴講無料、事前予約不要 本居宣長の可能性―「日の神」論争から「近世神話」へ―講師 山下久夫 先生 〔金沢学院大学名誉教授〕 日時 2023年4月15日(土)14:00~15:40 会場 松阪市産業振興センター3階研修ホール (三重県松阪市本町2176 TEL:0598-26-5557) ≪内容≫ 本居宣長に見出せる現在的な可能性について、一つの問題提起を試みたい。上田秋成との論争を宣長がまとめた『呵刈葭』下第二条の話から始めるが、「日の神」論争として有名なこのやり取りについては、従来秋成の相対主義に対して宣長の「皇国絶対主義」が云々されてきた。「天照大御神は現に仰ぎみる太陽であり、四海万国を照らす神である」と主張する宣長に対し、秋成は主張する。天照大御神の威光が働くのはわが国に限ってのことであり、決して全世界に及ぶわけではない、天竺は天竺の、唐土は唐土の、朝鮮は朝鮮の至上神が存在するのだから、天照大御神を他国にまで押しつけるのはよくない・・・と。一見すると、秋成の主張の方が至極まっとうに思える。宣長の主張には、偏狭なナショナリストのイメージがつきまとう。演者(山下)も、長い間そうしたイメージから自由ではなかった。しかし、秋成の無理のない合理的な見解に軍配を挙げたところで、少しも収まりがつかない。宣長自身が、秋成的な反論など当初から織り込み済みだったからだ。思い切って、宣長の側にシフトすることで新たにみえてくる相があるのではないか。 そう考えて、以後も18世紀日本における出版文化や世界地図のあり方等を介したりして、宣長の自国中心主義言説を理解しようとした。ただ最近、強く惹かれ始めたことがある。宣長が、古事記に載る伊邪那岐神の日向の橘小門の阿波岐原における「御禊」によって天照大御神(日の神)が誕生するまでは天地には日月はナシ、としている点である。古事記の記事にすべての起源を求めるのである。記紀神話の記述に関係なく日月ははじめから自然に存在していた、とする合理的な反論を十分承知してのことである。これは、記紀神話の記事にのみこだわる宣長の偏狭さを表すのではなく、18世紀後半という時代状況と切り結びながら、あえて新たな神話を創り上げようとしている証ではないか。ここから、「近世神話」という方法概念が導き出せる。この場合の「神話」とは、太古の時代にとどまらず、各時代のアイデンティティを積極的に創造していく際の根拠となるものである。神話にすぎないとか、神話的思考の残存とかいったネガティブな意味づけとは異なり、創造的に捉える視座の有効性を見出すのである。『古事記伝』の注釈も、近代文献学の祖としてではなく、注釈という営為を介して18世紀後期にふさわしい神話=「近世神話」を創造する営為と解する道が開ける。そしてその先に、近代国家やファシズムに対しても、先験的なイデオロギーにとらわれず、多元的に捉える可能性がみえてこないだろうか。 ≪講師≫ 山下久夫(やました・ひさお)先生 1948年生まれ。立命館大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程単位取得の後、相愛大学、立命館大学非常勤講師、金沢女子大学助教授、金沢学院大学教授を経て2014年3月に定年退職。金沢学院大学名誉教授となる。『本居宣長と「自然」』(沖積社、1988)刊行の後、「近世(江戸時代)人にとって〈古代〉とは何か」という問題をテーマに据え、近世と古代、思想と文学の間を往還する。上田秋成の古代論を扱った「『秋成の「古代」』(森話社、2004)で立命館大学より博士号を授与される。以後、「近世神話」という方法的視座を唱えるようになり、共編『越境する古事記伝』(森話社、2012)、共編『日本書紀1300年史を問う』(思文閣出版、2020)共編『平田篤胤 狂信から共振へ』(法蔵館,2023)を刊行。単著『近世神話からみた宣長・篤胤』(青土社)を刊行予定。 |
◆研究発表会 ※学会員のみの開催 |
2023.4.8
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