1、日 程 |
平成27年 |
5月16日
第1講 |
(土) |
小林秀雄と宣長の謎 |
元 新潮社 池田 雅延 |
小林秀雄氏畢生の大業「本居宣長」は、「古事記」の味読という前人未踏の学問を生み出し、見事に成就した本居宣長その人を謎と見て、宣長という巨大な謎が演じた意味深長の思想劇を生き生きと描いています。その「本居宣長」最後の山場、上田秋成との大論争に焦点を絞り、宣長の「古学の眼」という謎中の謎をクローズアップします。
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6月20日
第2講 |
(土) |
『たまがつま』の謎解き 元 椙山女学園大学 杉戸 清彬 |
なぜここで書名を『たまがつま』と私はひらがなで記したか。自筆稿本『玉勝間』(巻一しか残っていないが)と、十四巻有る版本とはどう違うのか。自筆稿本の形態を見なければ分からないことがあるのではないか。漢文も和文も収められた『たまがつま』に、何か通底するものを認めてもよいのか。そんなことを考えてみたい。 |
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7月18日
第3講 |
(土) |
「敷島の歌」受容史 |
神戸大学 田中 康二 |
「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」は本居宣長の代表歌とされているが、不明な点が多い。まず、代表歌なのに『鈴屋集』に入集していない。次に、歌の意味が誤読され、曲解されて今日まで至っている。第三として、常に戦争の影がつきまとう。このような点を中心に「敷島の歌」の謎に迫りたい。 |
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9月19日
第4講 |
(土) |
宣長は和歌山で何をしていたのか |
元 和歌山市立博物館
寺西 貞弘 |
寛政4年(1792)に紀州藩に召し抱えられた宣長は、寛政6年以後3回和歌山城下を訪れます。紀州藩主徳川治宝への御前講釈が目的でした。しかし、寛政6年の場合約70日間滞在しましたが、御前講釈に要したのはたったの3日でした。それ以外の日、宣長は和歌山で何をしていたのでしょうか。日記などから、和歌山での宣長の動向を明らかにします。 |
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10月17日
第5講 |
(土) |
本居宣長「手沢本『万葉集』」から
見る注釈と環境 |
國學院大學兼任講師
城普@陽子 |
本居宣長は生涯にわたって『万葉集』の講義をおこなっている。その成果は、例えば『万葉集玉の小琴』や『万葉集東歌僻説評』といった注釈のかたちで残されているが、『万葉集』全般に渡る宣長の注解を見通すには「手沢本『万葉集』」を丁寧に見ていくことが大切である。宣長がどのようなテキストによって本文を校訂し、どのような注釈書によって自説を立てていったのか。当時、宣長の周囲に存在したであろう様々なコンテクストを「環境」として宣長の万葉集註釈についての謎解きをはじめたい。 |
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11月21日
第6講 |
(土) |
宣長の地図の謎 |
京都府立大学
上杉 和央 |
本居宣長記念館の今夏の特別展で紹介されたとおり、宣長は地図にも強い関心を示し、多様な地図を作製・所持しました。でも、そもそも当時、地図はどれくらい流布していたのでしょうか。宣長の地図は普通の地図? それとも特別な地図? 江戸時代中期の地図事情を紹介しながら、宣長と地図の関係に迫ってみたいと思います。
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12月19日
第7講 |
(土) |
『古事記伝』の「未だ思ひ得ず」考 |
岐阜大学
早川 万年 |
「名義(なのこころ)は未だ思ひ得ず」とは、記伝における宣長の態度を象徴的に示した文言である。「分からない」ということを率直に表明しつつ、宣長は言葉と事実の相関に真摯であって、分かることには絶大な信頼を寄せる。一方、『古事記』の本質は歴史を語った書物に外ならない。古代の出来事を語った「言葉」にわれわれはどのように向き合うのか、記伝の手法に学びつつ考察を深めたい。
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平成28年 |
1月16日
第8講 |
(土) |
なぞ尽くし 宣長 |
本居宣長記念館
吉田 悦之 |
宣長72年の生涯は、ほぼ完璧に残された史料によってかなり細かい所まで分かります。年によっては、その日の患者さんの名前や、訪ねてきた人のこと、また原稿執筆の進捗状況、冠婚葬祭のことまでわかります。家計についてももちろんです。世界的に見てもこれほど信頼性の高い、豊富な情報が残された人は珍しいでしょう。ところが、そんな宣長にも謎がある。しかもその謎には、どうやら共通する何かがありそうなのです。その秘密に迫ってみましょう。
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2月20日
第9講 |
(土) |
謎の本『古今題彙』と『古書類聚抄』
―何のために作り、どう使ったのか― |
相愛大学
千葉 真也 |
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本居宣長の作った本の中で、最も無名の二点をご紹介します。『古今題彙』は、和歌の題目を集めて分類した書、『古書類聚抄』は、古語を分類して用例の場所を卷數と丁数で記した、古語索引と言うべきものとされています。どちらも宣長の仕事のための道具と言えます。宣長の家集、歌会の記録、さらに『古事記伝』などの著作と見比べ、舞台裏を推測してみようと思います。
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3月19日
第10講 |
(土) |
山室山奥墓の謎 ―宣長の死生観― |
桑名市博物館
秦 昌弘 |
宣長は『鈴屋答問録』、『玉くしげ』などで、人は死によって「黄泉国」へ行くと述べています。しかし、宣長は亡くなる前年の寛政12年に自らの死を察していたかのように「遺言書」を認め、山室山に墓地定め、そこを「千世のすみか」としました。これらのことは、宣長にとって矛盾のないことであったのかを考えていきます。
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