1、日 程 |
平成28年
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5月21日
第1講 |
(土) |
宣長学裏表 |
文化史家 山田 俊幸 |
偉人にさまざまな顔があるように、本居宣長という人にも、また、さまざまな顔があるように思います。それを受け取る(受信する)のは、後の人たち。この「裏表」では、そんな移り変わる宣長像を紹介します。 |
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6月18日
第2講 |
(土) |
鈴屋集の不思議 ―家集出版をめぐる謎― |
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国立高専機構豊田高専 加藤 弓枝 |
本居宣長の『鈴屋集』(寛政十年〜同十二年刊)は、歌人が存命中に刊行された家集の嚆矢とされる。本講義では、江戸時代後期において『鈴屋集』の出版が与えた影響、ならびにそれを契機に生み出されたと考えられる、家集を出版することの新たな意義について、その謎も含めて言及する。 |
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7月16日
第3講 |
(土) |
宣長画賛の謎
静岡県世界遺産センター整備課 田代 一葉 |
画賛とは、絵に詩歌を書き添えて、両者の融合を楽しむ文芸であり、江戸時代に大変流行しました。同じ画賛がいくつも存在するのはどうしてか?宣長の没後も宣長画賛が作られているのはなぜか?どのくらいの量の画賛が作られたのか?宣長にとって画賛とは何か?など、画賛を取り巻く宣長の謎について考えていきます。 |
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9月17日
第4講 |
(土) |
『菅笠日記』の成立とその反響 安田女子大学 吉良 史明 |
国学者が著した紀行いわゆる雅文紀行の多くは、近世以前に執筆された『土佐日記』等の古典紀行の模倣に過ぎず、文芸性が高くないものとして看過されてきた。しかしながら、現存する雅文紀行の圧倒的な量が物語る通り、国学者が紀行の執筆に傾けた情熱は並々ならぬものがあったといえる。何故、それほどまでに数多くの国学者が心血を注いだか。
国学者紀行の代表作の一つである本居宣長『菅笠日記』(寛政7年刊 2巻2冊)を取り上げ、その表現意識を精緻に汲み取り、また後代の国学者紀行に与えた影響を考察することにより、上述の疑問に対する答えを導き出していきたい。 |
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10月15日
第5講 |
(土) |
現地調査の勧め ―歩く宣長― |
本居宣長記念館 井田 もも |
宣長の現地調査と言えば、明和9年の吉野・飛鳥の旅で行った史蹟探索が有名です。しかし、宣長が行った現地調査はその時ばかりではありません。名古屋や和歌山へ講釈に出かける道中など、数少ない旅は貴重な現地調査の機会となりました。日記や紀行に残る記録を中心に、宣長の調査方法や、その調査が宣長の研究にどのように関わっていったのかについて考えてみたいと思います。 |
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11月19日
第6講 |
(土)
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なぜ『三大考』を付録にしたか |
國學院大學 森 瑞枝 |
服部中庸の「三大考」は、宣長によって『古事記伝』十七之巻の附録として世に問われたテクストである。十七之巻は『古事記』上巻(神代)注釈の完結編であるとともに、『古事記伝』第一期刊行の完結編であり、宣長はその最後に「三大考」すえたのである。この事実は重い。宣長の意図を探ってみたい。「三大考」を附すことで、宣長は『古事記』をいかに開こうとしたのだろうか。 |
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12月17日
第7講 |
(土) |
宣長と士清と ―神道をめぐる溝と架け橋― 皇學館大学 松本 丘 |
宣長三十六歳の明和二年に始まった谷川士清との交流。その後、約十年にわたり、二人は学問的立場を越えて刺激を与え合います。しかし、それぞれが語った「神道」、また和歌に詠われた「やまとごゝろ」と「日本魂」、そうした根本的な部分において、両者の距離はどこまで縮まったのか、あるいは埋めがたい溝が残ったのか。このあたりについて考えてみたいと思います。
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平成29年 |
1月21日
第8講 |
(土) |
宣長の学問は門人によって磨かれた? ―宣長新出書簡を手がかりに― |
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同志社大学 神谷 勝広 |
宣長は多くの門人を持っていた。今回、門人荒木田末偶が宣長に宛てた新出書簡を取り上げる。天明六年頃、末偶は宣長に次々と議論を持ちかけ、宣長を論争へ駆り立てている。その結果、宣長の学問は一層磨きがかかる。宣長は自分の学問が門人たちとの議論によって進歩することをはっきり認識していたのではないか。
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2月18日
第9講 |
(土)
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宣長は小児科医ですか |
伊勢赤十字病院 井上 正和 |
28歳の初冬、京都から松阪に帰った宣長は、さっそく医者としての活動を開始し、72歳で亡くなるまで、この町で医者を続けた。では、いったい何科の医者だったのか、よく言われているように小児科か、それとも内科か。また、どのような医療活動を行っていたのか、これまでほとんど知られることのなかった町医者としての宣長に専門的な見地から迫ってみたい。
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3月18日
第10講 |
(土) |
公家歌人の宣長評価 |
大手前大学 盛田 帝子 |
宣長は生前に家集『鈴屋集』を自選・刊行したが、公家歌人にとって生前に家集を出版することはタブーとされていた。『鈴屋集』を京の公家歌人、そして堂上派地下歌人は、どのように評価したのか。公家の富小路貞直と堂上派地下歌人の賀茂季鷹の言説などを中心に、寛政期後半の歌人・国学者としての宣長の評価を考えてみたい。
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