1、日 程 |
2019年
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5月18日
第1講 |
(土) |
王朝貴族たちのくらしの様子 〜類聚雑要抄図巻から〜 |
斎宮歴史博物館 岸田早苗 先生 |
平安時代の貴族たちは、どんな家具のある家で暮らしていたのでしょうか?
また、どんなものを食べていたのでしょうか?
1000年もたった現代で、
なぜそれらを知ることができるのでしょうか?
残された記録についてご紹介します。 |
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6月15日
第2講 |
(土) |
和歌に学び、和歌に遊ぶ ―宣長の歌道精進― |
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国文学研究資料館 神作研一 先生 |
知識人に限らず、江戸時代の人びとにとって和歌は、学ぶべき対象であった。こと宣長にとってのソレはもはや日々の営みであり、19歳の時の初詠から72歳で生涯を終えるまでの間に遺した和歌は、累計で1万首にも及んだ。『草庵集』などの注釈書を織り交ぜながら、宣長の詠歌のさまざまな表情を皆さんとともに辿ってみたい。 |
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7月20日
第3講 |
(土) |
古典を口語訳することの大切さ
−鈴木朖『論語参解』を例として− |
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同朋大学 石川洋子 先生 |
宣長も読んだ『論語』ですが、本講ではそれを鈴木朖著『論語参解』で読んでみたいと思います。鈴木朖は「恩頼図」(みたまのふゆのず)の中に名前の挙げられている宣長の高弟の一人です。『論語参解』は、訓読は雅語で、解釈は俗語で行われています。江戸時代の文政三(1820)年に刊行されたもの(来年東京オリンピックの2020年で出版200年!)ですが、現代の我々にも分かり易く説明されています。宣長の『古今集遠鏡』のように、『論語』を鈴木朖の『論語参解』の俗語訳で読み、「古典を口語訳することの大切さ」について考えたいと思います。 |
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9月21日
第4講 |
(土) |
『菅笠日記』にみる宣長の「古典」 |
天理大学 西野由紀 先生 |
本居宣長の『菅笠日記』は、桜の名所・吉野への旅にもとづく紀行文である。観桜のみならず自身の出生にかかわる宿願を果たすなかで、宣長は随所に自詠の和歌を残してもいる。本講では『菅笠日記』の旅程とともに、本文からみえてくる宣長の「古典」にかんする知識の痕跡をたどってみたい。 |
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10月19日
第5講 |
(土) |
宣長の祝詞注釈 ―大祓詞を中心に― |
皇學館大学 秦昌弘 先生 |
神社で神職が神に祈る言葉である「祝詞」のなかで、人々が犯す罪が消滅していく様を雄渾な物語のように描く「大祓詞」は、祝詞のなかでも白眉と評されています。宣長はその「大祓詞」に、国語学的な方法による詳細な注釈を付け、祝詞研究を大いに進めました。
宣長の学問の特色を、『大祓詞後釈』を通して考えていきます。 |
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11月16日
第6講 |
(土)
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天皇の仏教信仰と宣長 ―『続紀歴朝詔詞解』を手がかりに― |
中村元東方研究所 森和也 先生 |
本居宣長の『続紀歴朝詔詞解』は『続日本紀』中の宣命62編を註釈したものです。『続日本紀』が対象とする奈良時代は仏教興隆の時代であり、宣命にもそれが反映していて、なかでも大仏造立と道鏡に関する宣命は双璧です。宣長の註釈は語注が中心ですが、宣長の思想に基づく記述もときおり見られます。そこから仏教興隆という歴史的事実を宣長がどのように捉えたのかを明らかにしてゆきたいと思います。 |
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12月21日
第7講 |
(土) |
宣長と風土記 |
千葉大学 兼岡理恵 先生 |
奈良時代に編纂された日本最古の地誌、風土記。残念ながら宣長は、風土記そのものを研究するような著作は執筆していません。しかし『古事記伝』をはじめとする古典研究において、宣長は風土記を大いに利用するとともに、『出雲国風土記』の国引き詞章については、注釈を行っています。なぜ宣長は、国引き詞章にこだわったのでしょうか。本講義では、宣長が風土記をどう読み、どう活用したのか、様々な視点から考えていきます。 |
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2020年 |
1月18日
第8講 |
(土) |
古典をよむ、今を見る |
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本居宣長記念館 吉田悦之 代理:西山杏奈 |
東寺や安井金比羅宮へ行き、葵祭に涙を流し、桜の時期には各所へ花見。涼しい夏の夜には六道巡り、友人と連れだって清水寺参詣。信仰する浄土宗の総本山知恩院への参詣も忘れてはいけないし、外出帰りのシメはいつもの二軒茶屋。宣長は京都が大好きですが、23歳から5年半を京都で過ごした『在京日記』を見ると、羨ましいほど四季折々の遊歩三昧の日々。昔の人々は、他者の紀行文を読み旅を楽しみましたが、私たちも講座室で宣長の『在京日記』を読みながら、実際に現代の京都の旅を楽しみましょう。 |
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2月15日
第9講 |
(土)
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『古事記』を読み、今を知る ―『古事記伝』の「直毘霊」― |
國學院大學 森瑞枝 先生 |
「直毘霊」は『古事記伝』一之巻に収録されたテキストですが、独立したテキストとしても、本居宣長の国学思想を端的に示す文献として流布し論じられてきました。しかし本来は、『古事記伝』一之巻の一部、『古事記伝』の序論です。
『古事記伝』という書物の構造に即して「直毘霊」を見直してみましょう。明和8年という「今」を生きる宣長はどのように『古事記』を受け止めたのか?『古事記』に何を発見したのか?探ってみましょう。 |
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3月21日
第10講 |
(土) |
光格天皇と宣長 |
大手前大学 盛田帝子 先生 |
平安時代の荘厳な紫宸殿・清涼殿が復古造営された新造内裏に、光格天皇は仮御所であった聖護院から寛政2年11月22日に遷幸します。華やかな行列を一目見ようと多くの見物人が道筋につめかけますが、その中のひとりに宣長もいました。このひと月前に、宣長は光格天皇の兄妙法院宮真仁法親王に『古事記伝』初帙と『詞の玉緒』を献上しています。遷幸される天皇の行列を宣長はどのような思いで見つめたのでしょうか。宣長の『仰瞻鹵簿長歌』と行列を再現した絵巻から探ります。 |
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