「映画監督 小津安二郎の源流−小津家の文化・家族との絆−」展(2015年6月23日〜7月5日:松阪市文化財センター第3ギャラリー)のオープニングで講演しました。
話の前段は、次の二つのことばをと二つの用語で構成しました。
まず、
「社会性がないといけないと言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテー マは"ものの哀れ"というきわめて日本的なもので、日本人を描いているからには、これでいいと思う」(松竹『小津安二郎 新発見』)
それと、
「品性の悪い人だけはごめんだは。品行はなおせても品性はなおらないもの」
という『小早川家の秋』(1961)の中の台詞。
いずれも有名な言葉です。
それを考えるために二つの用語を使いました。
「テイスト」と「イマジュリ」です。
「明治四〇年頃に新たに「趣味」に加えられた「taste」という概念は、「おもむき」とも「hobby」とも異なる意味であった」 (神野由紀『趣味の誕生−百貨店が作ったテイスト』)
「イマジュリ(大衆的複製図像)」(山田俊幸『大正イマジュリの世界』)
このテイストとイマジュリという用語を使って、先の二つの言葉の底流、つまり小津安二郎が松阪で過ごした10年の持つ意義を考えてみたのです。
子供の教育は田舎でという父寅二郎の判断で安二郎が母や兄たちと松阪に移り住んだのは大正2年(1913)。安二郎9歳の時です。
大正2年といえば、三越の浜田四郎が「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチコピーを作った年です。
翌年の3月には、芸術座、帝劇で『復活』初演。劇中の松井須磨子「カチューシャの唄」大流行。4月、宝塚少女歌劇団初演。歌劇「ドンブラコ」上演。10月、竹久夢二、日本橋に「港屋」開店。
そして、松阪と関わりの深いところでは、10月1日には三越呉服店(三越)日本橋本店新館落成し、倫敦トラファルガー広場ネルソン記念塔に倣うライオン像設置されたのです。
つまり少年一家は、父親から離れ、大正イマジュリということば、あるいは三越好みというテイストに象徴される東京から逃れるように父祖の地であるこの地方の小都市にやってきたのです。
当時の松阪町は、江戸時代の経済的な成功を背景に醸し出された文化が終焉を迎える、最後の光彩を放つ季節だったのです。
少年は小学校を卒業し、第四中学校に入学。問題を起こしながらも、神楽座で映画の面白さを知るなど夢のような時を過ごし、卒業。受験に失敗し浪人。飯高の山里の小学校で代用教員を一年して、大正12年、東京に帰ります。
帰った年の夏に松竹蒲田に入社。直後に関東大震災で繁栄の大都市は灰燼に帰するのです。つまり安二郎は、大正期の東京を知らずに過ごすのです。
一方の松阪もまた大きな転換点を迎えていました。
豪商長井家の所蔵品売り立ては、叔母の家のこととはいえ、少年の与り知らぬ事ですが、頻発する小作争議など不穏な空気は伝わってきます。
そして安二郎が去った直後の6月16・17日、養泉寺で開かれた「松阪資料展覧会」(319種出品)を最後に、良き時代は終わるのです。
大正14(1925)年1月3日、餅のプライベート博物館「餅舎」主人・長谷川可同(58歳)の死はそれを象徴する出来事でした。
安二郎とは入れ違いに松阪にやってきたのが梶井基次郎。
大正13年8月、基次郎(23歳)は松阪でひと夏過ごします。その体験が、「城のある町にて」という一篇の作品に結実します。
これが、三井高利や本居宣長を生み、滝沢馬琴や裏千家の茶道の庇護者となった「松坂」、その紙碑となったのです。
>>「「松坂」から「松阪」へ」
つまり小津は爛熟の東京ではなく、終焉とはいえ、まだ豊かで静かな空気が漂う町で多感な少年期を過ごすことが出来た。
本家の土手新には西荘文庫として珍籍稀書や300点余りの円山応挙作品があり、
叔母の嫁ぎ先の長井家の主人は謡曲に入れあげていて、最も親しかった友人、乾の家には凹邨文庫という図書の山があったのです。
もちろんいくら本好きとはいえ、少年には関心外だったはずですが、しかしそんな雰囲気が町にはあったのです。
そんな中で、時には松坂城址の鈴屋に遊びながら、安二郎は成長していったのです。
そのあとは、暗い東京での生活が続くことを思うと、何と豊かな十年ではなかったかと思います。
これがその世界観、価値観にも作用していることは、まず間違いがないでしょう。
後段では、その土手新の小津久足を取り上げ、松阪人と宣長の関わりを考えました。
最初に引いたことばにもあるように、小津は「もののあはれ」という言葉を使いましたが、そんなに深く考えていない、つまり宣長との直接の関わりは無かったと私は見ます。
宣長の学問を見出し育てたのは、松阪の町人たちでした。
暇とお金を持つ豊かな商人たちが寺の塔頭などで開くサロン、「円居」が宣長学の揺籃となったのです。
しかし宣長が古学に進むと、町の人々の興味との乖離が始まる。
ちょっと違うと思い去っていく人もいる。和歌だけと上手く距離を取りながら交わりを続ける人もいる。その中で、はっきりと言ったのが、小津久足だったのです。
>>「小津久足」
天保11(1840)年、久足(37歳)は松島見物に赴き、紀行『陸奥日記』を書きます。
その中で、宣長学批判を展開。
「われをさなきよりして歌道に志し深く、むげに心なき言葉どもいひちらしたるが、つひに種(くさはひ)となりて、ただ腰折にのみ月日をいたづらに 暮らししも、廿余りの程は、傍ら古学にも志ふかかりしかど、ふt疑ひおこりて、古学といふことは、昔より聞こえぬことなるを、近来つくりまうけたる道な り、と思ひあきらめしより、大和魂、真心、漢意などいふ、おほやけならぬ名目の傍ら痛くなりて、私のみ多きその古学の道はふつに思ひを絶ちて、その後は、 とし久しく、ただ歌詠むことゝ、風流をのみ旨と楽しめり」
「雪月花、山水の境に暮らせば、心不平ならず、楽いと多くて、俗臭深き本居門には稀人なりと、我から誇らしきまでにて、もし今までも古学まもりなば、年々山水の勝をさぐらず、ただ机の上にのみ苦しみて、井蛙のたぐひとなりぬべきを」
宣長の学問を明快に拒絶するのです。これについては何れ、久足という人のパーソナリティーをも含めて検証するつもりです。
「物のあはれを知る」という用語の厳密な定義はともかくも、歌や「源氏」に象徴される世界こそが、実は松阪の商人たちが安息することの出来た空気だったのではないでしょうか。
安二郎はそんな空気の中で自分を見つけていったのです。 |