|
◇宣長の神様
10月は「神無月」(かみなづき)、全国の神々が出雲に参集して不在となるので、諸国は「神無し月」というのだと言う説があります。
>>
「毎月の宣長さん」10月
宣長にとっての「神様」を知る最重要資料の一つに『毎朝拝神式』があります。
>>
『毎朝拝神式』
「宣長の神様」と言う重要な問題だけに講演内容を一口で言うことは出来ませんが、この拝神式は、宣長個人の意志で神様の世界を再構築する作業です。選ばれた神々の重要性ももちろんですが、その背後に透けて見えるのは、拝む者により神威でさえ変わるという、ちょっと不思議な神々の世界です。
この問題について岩田隆氏も、宣長の「吉野水分神社」信仰と言う面から次のように指摘しています。
「厳密にいえば、「水分の神」は本来決して「御子守の神」などではなかったのである。
このような神の変異を十分に知悉し、認識していたにもかかわらず、宣長はこの「水分の神の申し子」であるとの信仰を生涯持ち続けたのである」
(『本居宣長の生涯』、18頁。以文社刊)
>>
『本居宣長の生涯』

◇語られなかったこと
宣長自ら書き残した記録類はほぼ全生涯を覆っています。つまり宣長自身の記録でその生涯を語ることも可能です。
>>
「記録の人」
つまり、今出ている多くの伝記はほとんど同じ種本を使っているので内容も余り変わらないのですが、それはともかく、宣長さんは自分を語ることに雄弁だった、これは紛れもない事実です。もう少し踏み込んで言うならば、見られる自分を常に意識していた。見られるというのは、同じ時代だけでなく、後生からの目もどうやら意識していたようです。
ここで注意しなければならないことは、見られる自分を意識すると言うことは、裏返すと、見せない部分もあるということです。宣長の場合隠すというのではなく、必要ないという判断に基づくのだと思います。
10月の記事で言えば、19歳の『日記』に、「十月上旬ヨリ、足三里三陰交に日灸をすへ始る、同じうひとり按摩をし始」と書き、それを抹消しています。三里の灸と言えば、芭蕉『奥の細道』の
「もも引きの破れをつづり、笠の緒付けかえて三里に灸すゆるより松嶋の月先心にかかり」
が思い浮かびます。
三里は膝頭の下。足を丈夫にする効果があり、三陰はやはり足にある経絡で内蔵を強くする効果があったようです。
今井田家に養子に行く前に体調を整えようとしたのでしょうか。
これは十月ではありませんが、やはり今井田家時代の「誹名号華風」(俳名を華風とした)という記事も抹消されています。
>>
「華風」
知られたくないと消したものまで詮索する権限は後生の者にはありませんが、語られなかったこともあることだけは記憶しておく必要があると思います。

◇十月の別れ
十月、宣長にとって重要な人が3人亡くなっています。師・賀茂真淵と、門人・須賀直見、友人・谷川士清です。真淵の死は明和6年10月晦日。連絡は12月4日に届きました。「不堪哀惜」(哀惜に堪えず)と『日記』に記しています。僅か4文字ですが宣長の悲しみがひしひしと伝わってきます。師を喪ったことは宣長の学問にも大きな影響を及ぼします。やがてそれは、真淵の遺志を継ぐという決意となって
安永5年10月には、「八日、須賀正蔵直見死、三十五歳、号本量恵観信士、十日、今日津谷川淡斎死之由聞之、六十八歳」と門人と友人の死が並んで記されます。直見の死も宣長には深い悲しみでした。直見が去り、その教え子「稲懸茂穂」が代わりを務め始めます。後の大平です。
>>
「賀茂真淵」
>>
「須賀直見」
>>
「稲懸茂穂」

>>
「毎月の宣長さん」9月
>>
「毎月の宣長さん」10月
|