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薫風香る5月は今の暦での話。
旧暦では、梅雨の始まる季節です。 
これは、宣長46歳(安永6年)の5月11日、嶺松院歌会での作です。
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「嶺松院歌会」
5月は、宣長の生まれた月。
また、賀茂真淵との対面「松坂の一夜」のあった月でもあります。
>>「医者の不養生」
>>「鯉のぼり?」
>>「誕生」
>>「松坂の一夜」

◇五月雨の四条河原
雨の合間を縫って、宣長さんは各所に遊びに行っています。
『在京日記』をちょっと覗いてみましょう。
京都遊学時代、宝暦7年(1757・宣長28歳)5月13日の夕方、水かさの増した四条河原に涼みに行った宣長は、四方の景色を眺めていると、やがて両方の川岸に並ぶ青楼に明かりがともり、物の音もほのかに聞こえてくる。いい雰囲気だ。夏の河原の茶屋は涼しくまた情緒がある。だが、石垣あたりの零落ぶりは目を覆うものがある。年々寂しくなり、娼家は商家となっていく。こういうところにも盛衰はあるのだ・・以下切断
石垣は京都の花街です。宣長の頃には既に見る影もなかったようです。
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「お酒」

◇「物のあはれ」との再会
宝暦8年(1758・29歳)5月3日、宣長は「安波礼弁」という小論文を書きます。
「紫文訳解」と併せても僅か6枚という短いものですが、「物のあわれを知る」という宣長の有名な学説は、ここからスタートしたのです。
論文は次のように始まります。
「 或人が私に質問した。藤原俊成卿の歌に、
恋せずは 人は心も無らまし 物のあはれも 是よりぞしる
とあるが、この「あはれ」にはどのような意味があるのだ。
人の心が「あはれ」と対等に扱われているが、俊成の歌の「あはれ」と、普通に使う「あはれ」は違うのか。
この問いかけに、自分では分かっているつもりだったが、いざ説明しようとすると、どうもうまくいかない。考えてみると、これは大変な問題だ。
即答できかねる問題だから、また改めて返事をしますと答えておいた。」
宣長が「自分では分かっているつもりだった」と書くのは、この歌は熟知していたからだ。歌そのものは『長秋詠藻』に出ているが、宣長とこの歌の親密な出会いは、京都時代に、堀景山先生の随筆『不尽言』を抜き書きしたときに遡る。しかし、この時はまだ特別な関心を抱かなかった。
京都から帰郷したのが前年の10月。さっそく医業を開く。
だが、医者の多い松坂だけに、新参者が参入するのは難しく、患者は少なかっただろう。
年改まって1月には、『古今選』編集に着手。
この本は、『万葉集』と『二十一代集』のアンソロジーだが、ここで宣長はすばらしい集中力を見せる。
2月11日、嶺松院歌会に参加。
4月28日、『論語』を再読する。和歌との関わりは不明。
そして、5月3日『安波礼弁』を起稿。
またこの時期、賀茂真淵『冠辞考』をいぶかしげに読んでいた筈だ。
松坂での生活も落ち着き始め、和歌へ没頭していく様子がうかがえる。
新しい和歌仲間を得て、既に和歌には一過言持つ宣長は、 改めて自分の和歌観の整理を考えたのだろう。
そんな中での「物のあはれ」との再会だった。
もう一つ注目されるのは、質疑応答形式という点だ。
宣長の学問は、注釈と、質疑応答という形が多い。
歌論関係では、恐らくこの頃の執筆であろう『排蘆小船』や、宝暦13年頃、和歌と古道を論じた『石上私淑言』が、この質疑応答形式である。
個人指導でも、真淵先生からの指導や、また宣長と全国の知人や門人とのやりとりも質疑応答だ。立場を異にする者とでは、これが論争と言う形をとる。
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「質疑応答」
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「質問」
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「質疑応答の勧め」
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『安波礼弁』

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「毎月の宣長さん」4月
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