十五夜 本居宣長記念館
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今月の宣長さん
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八月の宣長


◇8月

 8月は涼しさを覚える季節。稲穂も青々として刈り入れももうすぐだ。「八月(ハヅキ)は穂発月(ホハリヅキ)」だと宣長は説明しています(『古事記伝』巻30)。
 旧暦8月15日は中秋の名月。
 宣長も『玉勝間』に引くように、『中右記』保延元年(1135)9月13日に

「今宵雲浄く月明かなり、これ寛平法皇、明月無双の由、仰せ出さる。仍って我が朝、九月十三夜を以て明月の夜と為す」(原漢文)
とあり、我が朝つまり日本では九月十三夜が特に好まれたようです。

>> 9月の宣長・「九月十三夜」


 宣長も明月に誘われて松坂郊外の山寺を訪ねたことがあります。
 「八月十六日の夜月のおもしろきに思ひかけず鹿嶋元長にあざかの山寺に行合て物語などしける」(『石上稿』天明元年・宣長52歳)
そこでばったり医者仲間の鹿嶋元長に出会い、恐らく夜の更けるまで語り明かしたのでしょう。
鹿島元長寿碑 この山寺は、今ものこる黄檗宗・景徳寺(松阪市小阿坂町)でしょう。これに先立つ、 安永3年(45歳)には、
 「三月の十日頃阿坂の景徳寺にまうてけるにさくらのこゝかしこ散のこりたるを見て寺の名を句のかしらにおきてよめる」 と題して
「けふまても いろかかはらて とまれるは
      くる人有と しりてまちけん」
と言う歌を残しています。各句の頭をつなぐと「けいとくし(景徳寺)」となります。
鹿嶋元長は漢学に詳しく、宣長も伊藤東涯著『制度通』を借りたことがあります。

 写真は景徳寺にほど近い横瀧寺の念仏堂跡にある「鹿島元長寿碑」題字です。松阪から伊勢湾へと眺望のよい念仏堂も宣長たちにはおなじみの月見の場所だったようです。





◇海と宣長

 夏は海に出かける人も多いと思います。宣長も生涯の内には何度か海との接点はありましたが、海水浴などほとんどの人とは縁のない時代、また水族館があるわけでもなく、海の知識は今の人とは比較にならないほど貧弱でした。

 ところで、『古事記伝』を読んでいると、海の生き物の記事が目を引きます。
 たとえばクラゲのように漂っていたと書いてあるが、クラゲってなに?
 イルカの鼻が欠けるのはどうして?
 ミチは、アシカか、それともラッコかな?
など色々疑問を持ち、見聞情報を集め考えています。今はもちろんですが、『古事記』の時代に比べても、海と町の生活が隔絶していただけに苦労も多かったようです。

>> イルカのレポート

 また、江戸時代と海で忘れてならないのが、大黒屋光太夫などの漂流です。
 記念館には『南部人漂流唐国記』(現在展示中)や、「唐国南京商船漂著安房国千倉浦記」を収蔵しています。何れも宣長の旧蔵書です。後者は、千倉浦漂着事件として数々関連記録が流布しているようです。
 『日記』安永4年7月26日条には、去5月鳥羽に漂着した琉球船の乗員が迎えに来た薩摩藩の役人と大坂経由で帰る途中、松坂に泊まったと言う記事。
 『寛政十二年紀州行日記』享和元年1月27日条には、和歌山滞在中の宣長と養子大平・門人植松有信の話ですが、紀州国有田郡塩津浦に漂着した唐船を大平と有信が見物に行ったが宣長は行かなかったと書かれています。
 大黒屋光太夫事件と宣長の接点は不明ですが、色々耳にすることも多かったと思います。二人の接点をいくつか揚げてみましょう。まず大黒屋光太夫は白子の人で、宣長と同じ紀州藩に属します。次に、積荷は松坂長谷川家のものです。また、長谷川家は宣長の家の筋向かいです。

 『大黒屋光太夫史料集』第4巻(山下恒夫編、日本評論社刊)には、服部中庸が光太夫に面接した時の聞書が載っています。中庸は松坂殿町に住む紀州藩の役人で、宣長門人です。また同書には、光太夫の書簡が掲載されていますが、宛人である一(市)見諌右衛門は、光太夫の船・神昌丸の船主で、宣長の門人・一見直樹の叔父です。
 世の中の動きには敏感だった宣長ですから、きっと光太夫についての情報に接していたことは充分に推測できます。




◇月食と『天文図説』

 天明2年(1782・53歳)8月15日の夜、ちょっと珍しいことが起こりました。月食です。宣長の日記には「十五夜、月食四分」と言う記事があります。
 その3日後、宣長は『天文図説』を執筆します。この本は長男の春庭が浄書しています。内容は、西洋の天文学などを援用し、日月の運行を図解した本です。「朔月之図」、「上弦月之図」など8種10図をコンパスを使い描き解説を加えています。巻末には「天学大意」と題して天行、日行、月行、五星について概説します。
 橋本雅之氏は、十五夜の月食と本書の執筆は関係があるのかもしれないと推測しておられます(『本居宣長事典』・『天文図説』項)。




◇53歳の宣長

 『天文図説』と同じ頃、宣長は『真暦考』を執筆しています。この年の秋(7〜9月)宣長は体調を崩し、講釈や質疑応答などを全部休止していたので、気分転換にこのような天文や暦学と言った本を書いたのでしょうか。『古事記伝』執筆や質疑応答のような一々原典を確認しなければならない集中を要する仕事に比べれば、天井を見ながらでも構想は練れる筈です。何より空を見ることが好きな宣長さんにとっては楽しかったはずです。
 この年10月8日、2階の増築に着手し12月上旬竣工。これが「書斎・鈴屋」です。やはり体調優れず、講釈休止で来客が少なくなった事が直接の要因でしょう。でももう一つ下世話な推測をすると、この前年、前々年と年間医療収入が90両と、記録に残る限り最高額を記録したのも、増築に踏み切った一要因かもしれません。




◇帆足京の松坂訪問

 享和元年(1801)年の秋の深まりは早かったようです。
 はるばる熊本の山鹿から父に連れられ松坂を訪れた京(みさと)。『古事記伝』を写す内に季節は移ろい、8月も下旬となると、寒さも覚えるようになってきました。
 『刀環集』と言う京の日記には、
「八月末つかたいと寒かりければ人の許より単物を貸けるを返し遣すとて、
雁によそへてよろこびの心を、
 かぜ寒み雲ぢをわたる雁金のかりてぞ人のころもをぞきる
都の袷(あわせ)を恋ひて
 近江ぢやいつ逢さかの関こえてわがこふる逢はんとすらん」
荷物になるからと旅の途中、京都においてきた袷が懐かしく思えてきた。
長秋、京たちにも松坂を離れるときが来たようです。
 別れに際し宣長は、
「みさとのおもと年はまだ十五ときくを、手かき歌よみ文つくらるゝこと、
世の中のおうなはつかしきさまになん物せられける、
此ころ父ぬしにともなひて此里にしばしものせられけるを
九月のついたち国にかへらるゝに
 花咲ん末長月のゆかしきはいまよりにほふ菊のわかなへ
 若葉よりにほひことなる白菊の末長月の花ぞゆかしき」
の歌を贈りました。宣長から将来を嘱望された京であったが、
その生涯は余りにも短かく、三一歳の時に長門国(山口県)で客死しました。

>> 帆足長秋と京親子の『古事記伝』書写の旅 其の弐




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