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JD2353005.5 享保15年1月 (1730/3/18)
享保15年(1730)庚戌 宣長1歳。小津三四右衛門定利(道樹)36歳、勝26歳、宗五郎19歳。
[Y000015-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

この年を遡ること2年、享保13年(1728)、村田かつは本町の木綿商小津定利の後妻となった。二人には既に宗五郎という子がいた。定利の先妻の連れ子、即ち前夫(実は定利の実兄)との間の子である。定利の後嗣は宗五郎と決めていたが、それでも夫婦は実の子を願い、吉野水分神社に祈願をする。 [001-001]
やがて、かつに妊娠の兆候が見られ、享保15年(1730)5月7日を迎える。  [001-002]
宣長誕生。『日記』もこの日の記事から始まる。 [001-003]

JD2353100.5 享保15年5月7日 (1730/6/21)
5月7日(陽暦6月21日)深夜 宣長は、伊勢国飯高郡松坂(三重県松阪市)に生まれる。父は同町本町の木綿商小津三四右衛門定利(道樹)、母は村田孫兵衛豊商の娘勝。夫婦の実子としては最初の子であるが、既に養子の宗五郎定治(道喜)がいたので二男となる。幼名は富之助。一族の長老小津八郎治(道林)の命名による。
[Y000016-000-000]

宣長は、父定利が大和国吉野水分神社に祈誓して生まれた子であると言うことを終生信じた。自らの出生は宣長の重大な関心事であった。宣長自身の筆で書かれた出生の記事を年次順に掲出する。 [001-000]

『日記』「生国者。伊勢州。飯高郡。松坂。本町矣。姓者小津氏矣。小津三四右衛門定利【法名道樹】二男。【実者長男也。長男者養子矣】母者。村田孫兵衛豊商【法名堅誉元固大徳】之娘【法名清誉光雲。俗名於勝】也。享保十五年【庚戌】五月七日夜子之刻【夜之九矣】誕矣。名号冨之助。【同姓八郎治(心誉道林)某所名也】」(宣長全集:16-5)。 [002-000]

『日記』表紙裏「嘗父定利嘆無子而祈嗣於和州吉野山子守明神誓曰若生男子其子至十三歳即自供使其子参詣願望不虚室家有妊産男児然所誓不遂父早逝矣児至十三歳随亡父宿誓参詣彼神祠賽謝焉」(宣長全集:16-5)。 [003-000]

『本居氏系図』「本家譜」「道樹大徳嘗憂無子、祈之於和州吉野山水分神【世俗称子守明神、所以祈】誓曰、若得生男子、至十三歳則親携参詣、所祈有感応、慧勝大姉有身、遂享保十五年庚戌五月七日夜子刻、産男児、称富之助、【唱阿大徳之弟八郎次法名道林大徳名之】」(宣長全集:20-85)。 [004-000]

『菅笠日記』「此御やしろは、よろづのところよりも、心いれてしづかに拝み奉る、さるはむかし我父なりける人、子もたらぬ事を、深く嘆き給ひて、はる/\とこの神にしも、ねぎことし給ひける、しるし有て、程もなく、母なりし人、たゞならずなり給ひしかば、かつ/\願ひかなひぬと、いみじう悦びて、同じくはをのこゞえさせ給へとなん、いよ/\深くねんじ奉り給ひける、われはさてうまれつる身ぞかし、十三になりなば、かならずみづからゐてまうでて、かへりまうしはせさせんと、のたまひわたりつる物を、今すこしえたへ給はで、わが十一といふになん、父はうせ給ひぬると、母なんもののついでごとにはのたまひいでて、涙おとし給ひし、かくて其としにも成しかば、父のぐわんはたせんとて、かひ/\しう出たゝせて、まうでさせ給ひしを、今はその人さへなくなり給ひにしかば、さながら夢のやうに、思ひ出るそのかみ垣にたむけして麻よりしげくちるなみだかな、袖もしぼりあへずなん、かの度は、むげにわかくて、まだ何事も覚えぬほどなりしを、やう/\ひととなりて、物の心もわきまへしるにつけては、むかしの物語をきゝて、神の御めぐみの、おろかならざりし事をし思へば、心にかけて、朝ごとには、こなたにむきてをがみつゝ、又ふりはへてもまうでまほしく、思ひわたりしことなれど、何くれとまぎれつゝ過ぎこしに、三十年をへて、今年又四十三にて、かくまうでつるも、契りあさからず、年ごろのほいかなひつるこゝちして、いとうれしきにも、おちそふなみだは一つ也」(宣長全集:18-347)。 [005-000]

『家のむかし物語』「道樹君、嫡嗣は道喜君おはしけれども、なほみづからの子をも得まほしくおぼして、大和国吉野の水分神は、世俗に、子守明神と申シて、子をあたへて守り給ふ神也と申すによりて、此神に祈り給ひて、もし男子を得しめ給はゞ、其児十三になりなば、みづから率イて詣て、かへり申シし奉らんといふ願をたて給へりしが、ほどなく恵勝大姉はらみ給ひて、享保十五年庚戌の五月七日夜子の時に、宣長を生給ひぬ、童名を冨之助といふ【此名は、紺屋町の八郎次君のつけ給へる也、八郎次君は、唱阿君の舎弟にて、そのころ一族の重くせし、古老の人なればなり】」(宣長全集:20-26)。 [006-000]

『寛政十一年若山行日記』「よし野の歌」(推敲後『鈴屋集』巻4に「吉野百首」として載せる)に、「父母のむかし思へば袖ぬれぬ水分山に雨はふらねと」「みくまりの神のちはひのなかりせはうまれこめやもこれのあかみは」等の詠を収める(宣長全集:16-547)。 [007-000]

父定利は、実は隠居家小津孫右衛門(道智)の次男。{元禄8年}11月1日生まれる。童名大助、後、弥四郎と改める。子供の時に江戸に下り本家大伝馬町店に滞在した。小津三四右衛門定治(唱阿)は最初実の長男道意を後継者としたが正徳5年(1715)20歳で亡くなったので、定利を迎え栄珠を妻とした。栄珠は唱阿の実の娘である。彼女には前夫である隠居家孫右衛門(元閑)(享保3年7月10日没)との間に一子、道喜がいた。宣長の義兄宗五郎である。しかし、栄珠もまた享保13年(1728)5月28日没したので後妻として迎えたのが村田勝である。 [008-000]

『恩頼』(草稿本)で本居大平は、宣長の父を「父主ノ念仏家」「父主念仏ノマメ心」、母を「母刀自ノケイザイ家政教育」「母刀自遠キ慮リ家政」(宣長全集:別3-302)と書く。 [009-000]

「夜子之刻」は、翌8日にかかる午前零時頃と推定される。例えば、『在京日記』宝暦7年(1757)7月25日条に、「廿四日の夜の丑の刻過に、はや門をたゝき」とあり、夜明け前はまだ前日であった。従って、今の陽暦では6月21日から22日の交わりに誕生したことになる。 [010-000]

享保15年(1730)5月7日は甲戌。 [011-000]

当時、松坂町は紀州徳川家の所領で勢州三領の一つ。支配は松坂城代が行った。町の規模は『松坂権輿雑集』(宝暦2年11月序)に「惣町縦十九丁余、横九丁余、此家数千三百軒程、但隠居家は除之、此人数八千三百人程、但召仕は除之、内八百人程他国ニ稼居る」(『松阪市史』・9-156)。明和6年(1769)『松坂町役所支配分限帳』に、町名数は46、人数は9078人(『松阪市史』・11-303)と記される。町の雰囲気は、後年のものだが宣長自身による「伊勢国」(『玉勝間』・『本居宣長全集』14-444)や、西町の森壺仙が著した『宝暦咄し』(『松阪市史』収載)がよく伝えていよう。 [012-000]

当時、小津家は江戸大伝馬町で木綿を商っていた。 [013-000]

当時の慣例から、宣長の生まれたのは母の実家松坂新町の村田家ではなかろうか。村田の屋敷が現存の鵜川家であるとされる。「松阪雑記」鵜川義之助(『帝塚山大学論集』55号)参照。 [014-000]

本町の家は、承応3年(1654)に道休が小津太兵衛より、魚町の宅地と共に買い取ったもので、寛保1年(-4712)5月14日魚町への転居まで、88年間小津家の住居となった。同年9月、義兄道喜が家を本町津嶋屋彦市に売却、残った宅地に借家3軒を建てたが、その後、明和8年(1771)春、中嶋屋治右衛門、桶屋八右衛門に土地建物を売却した。寛保1年(-4712)9月条参照。 [015-000]

吉野水分神社。奈良県吉野郡吉野町吉野山に鎮座する同社は、別名を子守明神とも言う。『玉勝間』巻12「吉野の水分神社」(宣長全集:1-372)によれば、社名の「水分(ミクマリ)」のクマリは分配(クバル)で、田のために水を分(クバ)り施したことに因るのであろう。やがて水分が訛ってミコマリ、ミコモリとなり子守大明神として信仰を集めるに至った。延喜式内大社。『続日本紀』には雨を祈って馬を奉った記事が見える。慶長9年(-4712)豊臣秀頼が改築した水分造の社殿には、正殿に天水分(アメノミクマリ)神、右殿に天万栲幡千々姫(アメノヨロヅタクハタチヂヒメ)命、玉依姫、天津彦火火瓊瓊杵(アマツヒコホホノニニギ)命、左殿に高皇産神、少名彦神、御子神を祀る。 [016-000]

この社に宣長が参詣したのは生涯に3度。13歳と、43歳、70歳の時である。 [016-001]

「嘗父定利嘆無子」(『日記』表紙裏)とあるが、定利は、享保13年(1728)5月28日に前妻栄珠大姉を喪い、同年恵勝大姉と再婚した。 [017-000]

小津八郎治(1670〜1744)については、『本居氏系図』「職人町小津喜兵衛家系」に「心誉道林大徳 小津八郎次某 勤仕本家大伝馬売場、後帰郷住居紺屋町、建一家、為本家別門、為唱阿大徳代、数往辺江戸店計諸事、延享元年甲子八月十五日卒、七十五歳、妻者荒木三右衛門某之女、名佐与、号光誉清寿、生八子」(宣長全集:20-101)、『家のむかし物語』に「唱阿君の異腹の弟に、小津八郎次某君と申すおはしき、法号心誉道林大徳と申す、若かりしほどは、当家の江戸大伝馬町の売場といひし店につかへ給ひしが、後に唱阿君、当家の別家として、紺屋町に宅をかまへしめ、荒木三右衛門某の女を娶らしめて、一家を建給ふ、かくて唱阿君は、一度も江戸に下り給ふ事なく、たゞ此八郎次君を代りとして、しばしば下らしめ、かの地の店の事をば、ことごとく此ぬしにゆだねて、とりはからしめ給ひき、延享元年甲子八月十五日に、七十五歳にてうせ給ふ、室荒木氏は、名はおさよ、法号は光誉清寿大姉といふ、此腹に子息八人有りき」(宣長全集:20-21)とある。この八郎治の息子八郎兵衛が小津家倒産の一因を作った。元文5年(1740)3月条参照。 [018-000]

義兄宗五郎については元文2、3年(1737、38)頃条参照。 [019-000]

『三世相解嘉永大雑書』は、臼杵梅彦纂輯、歌川貞秀画図、鶴峯彦一郎校。嘉永4年(1851)5月刻が成った通俗書である。もちろん宣長とはほとんど関係がない。「ほとんど」なら多少は関係有りや。糸筋位ならある。鶴峯は宣長の弟子村上円方にも学んだことのある雑学者であり、50丁表の挿絵の書斎には『大日本史』『湖月抄』『延喜式』『万葉略解』『和漢三才図会』と共に『古事記伝』がある。 [020-000]

同書で宣長の運勢を見てみよう。「ねの時に生るゝ人はいのちながし然れども父にはやく別るゝことあり、また兄弟の中むつましからずしてちからにならず、自身かせぎはげみて身上(しんしょう)をもつべし、諸げいならふこと多しといへども末とげずさびしき所を好むうまれつきなり」。これを5月7日夜の子の刻に生まれた宣長の生涯に照らしてみると、72歳を一期とする宣長の人生は成る程「命長し」、11歳に父と別れてこれも照応する。では兄弟との仲はいかが。義兄とはうまくいかなかったかもしれない。弟も別の人生を歩む。もちろん長男春庭の嫁を弟の所から迎えているので「ちからにならず」とは言えまい。宣長は宣長の方法で身上を持った。これもよい。諸芸はお茶や謡曲、弓道と色々習っているがものにする気もなかったようで、半分当たり。「さびしき所を好む」は全くはずれ。「当たるも八卦当たらぬも八卦」とはよく言ったものである。 [020-001]


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