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JD2353359.5 享保16年1月 (1731/3/7)
享保16年(1731)辛亥 宣長2歳。小津三四右衛門定利(道樹)37歳、勝27歳、宗五郎20歳。
[Y000017-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

嶺松院歌会再開。 [001-001]

JD2353380.5 享保16年2月21日 (1731/3/28)
2月21日 外祖父、村田孫兵衛豊商(元固)没。享年73歳。法名剛蓮社堅誉誠阿元固大徳。
[Y000018-000-000]

元固とその子女については『家のむかし物語』(宣長全集:20-24)、『本居氏系図』「歴代諸妣伝」(宣長全集:20-122)等に詳しい。 [001-000]

JD2353448.5 享保16年4月 (1731/6/4)
4月 新町樹敬寺塔頭嶺松院で歌会が再開される。
[Y000019-000-000]

やがて宣長の松坂での活動母体となるこの「嶺松院歌会」については、既に諸書で述べられているが、改めて宣長が加入した頃までの略史を記しておく。 [001-000]

この歌会の初会は享保8年(1723)「先年の火事で焼失した松坂新町樹敬寺(同寺の塔頭の一が嶺松院である)の再建された年」と伝える。歌人清水谷実業の門人小津長正によって始められた歌会は、同14年(1729)長正の死去で中断した。この間の記録はなく、以上のことは寺伝に依るが、歌会のあったことは『享保十六年四月月次和歌会よろづのひかへ』に載る享保16年(1731)12月8日の歌で明らかである。 [001-001]
「此道のましはり久しうたへ侍りけるをおこしたてられける、年の暮人々祝の心をよみ侍り、浄阿、言のはの道したえずば白雪のふりにし世をもわすれはてまし」(『松阪市史』・7-157)。 [001-002]
以上が第一期である。 [001-003]

第二期は、宣長誕生の翌享保16年(1731)4月からである。会の記録『享保十六年四月月次和歌会よろづのひかへ』冒頭に会員10名の名と会則、当番が記される。会員村田孫助、村田孫兵衛、小津清兵衛、小津六平、荒木松亭の5名は宣長の縁戚である。宣長の周辺には和歌を楽しむ環境があったことは、村田元寿尼八十賀の時に祝いの歌を贈ることと合わせ注目すべきであろう。宝暦5年(1755)11月19日条参照。 [002-000]

会則によると、式日は25日で、朝食後集まり、弁当持参、当番が茶や炭、塩うち大豆の用意をすること。また所蔵の歌書を持参することなどが書かれている。最後の一条は、遥かに後年の事ながら宣長と『冠辞考』との出会いを思い起こさせ興味深い。 [002-001]
この会には、『享保十六年四月月次和歌会よろづのひかへ』の他に『月次歌会集』(題箋の下「風吟高松集」と書く)という会集が1冊があり、享保16年(1731)から延享2年(1745)までの歌等が収録されている。享保19年(1734)までは一応定期的に開催され、以後は断続的である。また冒頭には「牛頭天王奉納和歌十二首 清水谷前大納言雅季卿御点」が収められる。清水谷雅季は、元禄期の堂上歌人を代表する清水谷実業の子である。会員の一人嶺松院茂鮮は先の小津長正の門人であったことと併せて、この会が清水谷流の会であった事がわかる。以上を第二期とする。まだ「嶺松院歌会」とは名乗っていないが、会場として使用する事が多かった。次の第三期でもしばらくの間は会の名称の定まらない時代が続く。 [002-002]

第三期は宝暦2年(1752)4月から始まる。会の記録『詠草会集 其一』には「宝暦二申四月初」「於嶺松院初興行」とある。初会の出席者は、小津道円、青木貞雄、嶺松院茂鮮、小津正啓、中津光多の5名で正啓、光多以外は『月次歌会集』の巻末の「連中之留帳」に名前の出る人、第二期の会員たちである。道円は宣長の実祖父(つまり隠居家)孫右衛門道智の兄清兵衛長正の二男。宝暦10年(1760)2月晦日没。享年71歳。貞雄は油屋町の青木左中、茂鮮は嶺松院の僧である。この会はその後長く続き、宝暦8年(1758)2月11日、29歳の宣長が初めて登場する。 [003-000]

「風光日々新、舜庵、きのふまで桧原にくれし鐘の音も花に明けゆくをはつせの山」 [003-001]
以後宣長の活躍が始まる。この会は、宣長没後の文化5年(1808)7月5日まで、再開後だけでも78年という長きに渡って続いた。 [003-002]

だが、先程述べたように、会の名称が定まった時期は遅れる。確認できる「嶺松院会」という名称の初出は、先の宣長の歌を載せる『石上稿』{宝暦8年}の詞書である。また「詠草会集」とあった表紙(例えば宣長加入直後のものには『宝暦九卯閏七月 詠草会集 其九』と書かれていた)に、嶺松院が冠せられるのは『宝暦十一年辛巳 嶺松和歌集 其十』からである。その新しい表紙の筆跡が宣長であるのは、宣長の嶺松院会での指導者的な行為の一つの表れと見ることも出来よう。「【資料紹介】八雲神社所蔵牛頭天王宝前和歌百首・奉納和歌百首」鈴木香織・吉田悦之(『鈴屋学会報』11号)参照。 [004-000]


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