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JD2356637.5 元文5年1月 (1740/2/26) □元文5年(1740)庚申 宣長11歳。小津三四右衛門定利(道樹)46歳、勝36歳、はん9歳、親次6歳、俊1歳。(宗五郎29歳) [Y000044-000-000] 【この年の概要】
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JD2356644.5 元文5年2月7日 (1740/3/4) □2月7日 妹、俊出生。 [Y000045-000-000] 俊(1740〜1801)は大口村宮崎に嫁ぐ。
[001-000] 『本居氏系図』「名俊【音】号恵雲院俊誉寿方法尼。大口村宮崎伊兵衛知久妻。元文五年庚申二月七日生、名耶都、宝暦六年丙子十二月十二日嫁宮崎氏、改名俊、後剃髪、名寿法、(以下別筆)享和元年辛酉五月廿四日死、六十二歳、同廿六日葬大口西正寺」(宣長全集:20-87)。西正寺は最勝寺の誤記か。
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JD2356637.5 元文5年1月 (1740/2/26) ○春 西村三郎兵衛のところで『千字文』の「外受」を習う。 [Y000046-000-000] 『日記(万覚)』「外受【十一歳春】」(宣長全集:16-8)。「外受」は『千字文』第85句「外受傅訓」。
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JD2356696.5 元文5年3月 (1740/4/25) □3月 父定利、江戸店に行く。 [Y000047-000-000] 『家のむかし物語』「元文五年庚申の三月に、江戸に下り給ひ」(宣長全集:20-23)とある。宣長とは最後の別れとなった。
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JD2356696.5 元文5年3月 (1740/4/25) □3月 父定利、遺言を執筆する。 [Y000048-000-000] 『五代道樹遺言状』小津源四郎、同宗五郎、両家手代中宛・「元文五年三月日」。主たる内容は次の通り。
[001-000] 2、嘉兵衛、八郎兵衛に渡す金額。
[002-000] 3、宗五郎に相続の意志がないときは、富之助に相続させること。
[003-000] 4、八郎兵衛が店をつぶしたやり口は何とも理解が出来ないので以上のように記す。
[004-000] 定利は、経営破綻の遠因は八郎治の失敗と、その息子の八郎兵衛の悪行にあると考えていたようである。因みに八郎治は「富之助」命名者である。享保15年(1730)5月7日条参照。
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JD2356755.5 元文5年5月 (1740/6/23) □5月 父定利、再度、遺言を執筆する。 [Y000049-000-000] 『五代道樹遺言状』は、5通ある。1枚は付紙。
[001-000] 付紙、おかつ宛
[002-000] 2、小津忠兵衛、同武兵衛、左七宛
[003-000] 3、小津忠兵衛、同武兵衛、左七宛
[004-000] 4、小津忠兵衛、同武兵衛、左七、八郎兵衛宛
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JD2356837.5 元文5年閏7月23日 (1740/9/13) □閏7月23日 父定利、江戸店にて病死、法号場誉直観道樹大徳。遺骨は江戸本誓寺と樹敬寺に分骨した。 [Y000050-000-000] 『本居氏系図』「本家譜」「元文五年庚申閏七月喪考」(宣長全集:20-85)。『家のむかし物語』「元文五年庚申の三月に、江戸に下り給ひ、其年の閏七月病して、廿三日の夜の戌ノ時ばかりに、かしこの大伝馬町一町目の店にして、四十六歳にてかくれ給ひぬ、忌日をば廿四日とす、火葬して、遺骨をかの地の本誓寺と、こゝの樹敬寺とに分ちをさめぬ」(宣長全集:20-23)。
[001-000] 同書にその時の様子を次のように回想する。「元文五年、十一歳の時、道樹君におくれまゐらせぬ、そも/\そのをりの事よ、かくれ給ひぬるよし江戸より、早便して告おこせたる、それよりさきに、おもく病み給ふよし告たる状と、事きれ給へるよし告たると、同じ夜に、ふけて来つきて、門たゝきてもて来たるに、恵勝大姉のいみしく驚きて、かなしみ泣給ひしこと、われもわらは心に、いとかなしかりし事など、今もほのかにおぼえたるを、思ひ出るも、夢のやうにかなし、かの御面影は、たしかにおぼえてある也」(宣長全集:20-27)。
[002-000] 本誓寺は、深川にある浄土宗の寺院。村田春海一族の墓もある。
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JD2356814.5 元文5年7月 (1740/8/21) ○秋 西村三郎兵衛のところで『千字文』の「謂語」を習う。 [Y000051-000-000] 『日記(万覚)』。「謂語【十一歳秋】」(宣長全集:16-8)。「謂語」は『千字文』第249句「謂語助者」。
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JD2356874.5 元文5年8月 (1740/10/20) ○8月 「富之助」を、父の幼名を貰い「弥四郎」と改める。富宮様と同じ文字を憚ったのが改名の理由。 [Y000052-000-000] 『日記』「同五年【庚申】八月、俗名。改弥四郎矣。【冨之字有憚因也、紀州富宮御方】」(宣長全集:16-5)。また、『本居氏系図』「本家譜」に「同八月改称弥四郎【富字触国嗣君御簾中富宮御名、因改之、弥四郎者先人童名也】(宣長全集:20-85)。また『家のむかし物語』「そのとし弥四郎と改名す、【富の字はゞかるよし有て也、弥四郎は、道樹君の童名也、】」(宣長全集:20-27)。
[001-000] 富宮とは、後に第7代紀州藩主となる宗将(ムネノブ)侯の正妻で伏見貞建親王姫宮である順宮が改名後の名前である。元文4年(1739)6月23日縁組、元文5年(1740)8月富宮と改名。寛保1年(1741)4月22日結納、23日婚礼(『南紀徳川史』・2-109)。
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JD2356874.5 元文5年8月 (1740/10/20) □8月 三四右衛門名で、大伝馬町木綿問屋仲間に合力を願い出る。 [Y000053-000-000] 『江戸商業と伊勢店』北島正元編著(P135)参照。
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JD2356992.5 元文5年 (1741/2/15) □この年 大伝馬町一丁目の木綿店2軒の内1軒を封鎖する。経営悪化に伴い事業規模の縮小である。 [Y000054-000-000] 『家のむかし物語』「(道休は)かの地大伝馬町一丁目に、木綿店三所を創置給ふ、【件の三ツの店のうち、二ツは木綿問屋、一ツは売場といふものなりき、そは、まづかの一町、多くは木綿店にて、みな木綿問屋と称するを、別に又売場と称するもの二三家有、それは諸国よりおくれる木綿を、口銭蔵敷などいふを取て、町内の店々へ売て、外へはうらざるもの也、かくて此道休君の開き給へる売場、唱阿君に至りて、停て今一所の木綿店に併せられ、本店とてありしが、元文五年に亡びたり、又今一所の店は、隠居の跡小津孫右衛門家に属給ひてありしが、明和元年にいたりてほろびにき】」(宣長全集:20-17)。
[001-000] 文の頃まで御師古川善太夫への初穂年金1000疋。江戸店本店不仕合後、金100疋となる。『別本家の昔物語』(宣長全集:20-44)
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