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JD2357021.5 元文6年1月 (1741/3/16)
元文6年・寛保1年(1741)辛酉 宣長12歳(2月27日改元)。勝37歳、はん10歳、親次7歳、俊2歳。(宗五郎30歳)
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【この年の概要】 [001-000]

修学の続行。実名を栄貞と改める。魚町宅への転居。謡を習う。 [001-001]

JD2357018.5 元文6年1月26日 (1741/3/13)
1月26日より寛保2年(1742)6月まで 斎藤松菊のところで手習。習物は、「今川状」「国名」「人名」「手習訓書」「状」「江戸往来」等。
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『日記』「自寛保元季【辛酉】正月二十六日。又手学於斉藤松菊老所。【同二年六月至行習】」(宣長全集:16-5)。 [001-000]

『日記(万覚)』「斉藤ニテ習物 今川 国名 人名 手習訓書 状 江戸往来【少シ習ウ】」(宣長全集:16-8)。 [002-000]

JD2357021.5 元文6年1月 (1741/3/16)
春 斎藤松菊のところで『千字文』の「篤初誠美」を習う。
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『日記(万覚)』「○同所ニテ習シ千字文、篤初誠美【十二歳春】、散慮逍遥【十二歳秋】、曠遠綿◎(貌にしんにょう)【十三ノ春】、絃歌酒讌【十三ノ秋】」(宣長全集:16-8)。 [001-000]

「篤初誠美」は『千字文』第73句。 [002-000]

「千字文」は西村三郎兵衛のところでも習っている。 [003-000]

JD2357080.5 寛保1年3月 (1741/5/14)
3月 実名を栄貞(ヨシサダ)と称す。
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『日記』「同三月。実名(シツミヨウ・ナノリ)。称栄貞矣。」(宣長全集:16-5)。 [001-000]

『本居氏系図』「本家譜」「寛保元年辛酉三月名栄貞」(宣長全集:20-85)。 [002-000]

『家のむかし物語』「寛保元年、実名栄貞(ナガサダ)とつく」(宣長全集:20-27)。振り仮名はヨシサダとあるべきところである。ナガサダに改めたのは寛延2年(1749)9月16日。 [003-000]

栄貞の字義や訓は『万覚』の裏表紙に記載がある。 [004-000]

「栄貞」の印の最後の使用例は享和1年(1801)の受取米の証文である。 [005-000]

JD2357080.5 寛保1年3月 (1741/5/14)
3月頃 『万覚』起筆か。
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本書は、『万宝鄙事記』(貝原益軒著)の抜き書き。書誌は寛延1年(1748)10月2日条参照。 [001-000]

「伊勢ビト-宣長さんの記名-」「弥四郎の事始め」中根道幸(「三重文学漫歩」『教育文化会館のたより』103、104号)による。論拠は、「栄貞」の記名並びにその注釈と、筆跡による物と思われる。また内容面から、寛保3年(1743)9月『新板天気見集』の頃と推定する説もある(「本居宣長と『貝原先生』-松坂修学期における一側面-」小山内めぐみ『鈴屋学会報』3号)。全集解題では、寛延1年(19歳)10月頃と推定。 [002-000]

貝原益軒の著作は宣長の修学時代の枢要を締めることになる。 [003-000]

JD2357123.5 寛保1年5月14日 (1741/6/26)
5月14日 母子、本町より魚町の隠居家に移居。この住まいが現在「本居宣長旧宅」と称している建物である。用地を取得したのは承応3年(1654)、元禄4年(1691)3月棟上げした職人町の隠居家を移築したのが享保11年(1726)である。
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『日記』「同五月十四日。家内皆。越移魚町隠居也。」(宣長全集:16-5)。 [001-000]

『本居氏系図』「本家譜」「同年五月十四日挙家自本町宅移居魚町隠居今宅」(宣長全集:20-85)。 [002-000]

『家のむかし物語』「同年五月十四日、本町の宅より、魚町一町目の今の宅に、恵勝大姉、こども四人をぐして、移り給う、〔此魚町の宅は、道休君の世、承応三年に、本町の宅地と合せて、買得給へる地にして、【妙延法尼晩年、此地に居住】其後享保十一年、唱阿君、職人町の隠居を、此地に移し建て、栄保大姉とともに住給ひし家也、職人町は、はなれて便りあしかりし故に、此地にはうつされし也、さて栄保大姉かくれ給ひて後は、人にかしおきたりしを、此度当家の住宅とはなせる也、此地は、本町の宅地と、うら合せにつづきて、即ち今用ふるぬりごめも、本町ノ宅の蔵にて、かの町の地に属る也」(宣長全集:20-27)。「さて魚町の今の宅地、承応三年に、本町の地と共に、道休大徳の買得給へるところにして、後に妙延法尼、老後此地に住れたり、其後元禄の末より、手代十右衛門といひし者の後家、おつまといひし人すめり、此人は道休大徳の姪なり、其時の家、二軒にしきりて、一軒は此おつま住、一軒は人に借し有し也、其後享保十一年、唱阿大徳、職人町の隠居を引て、此地に建て、御老後、栄保大姉と共に住給ひし也、今の家すなはちこれなり、享保十一年丙午より、ことし、天明四年甲辰まて、五十九年になるなり、さて、唱阿大徳かくれ給て後は、栄保大姉のこりて住給ひ、栄保大姉もかくれ給ひて後は、人に借し有しを、寛保元年辛酉五月十四日より、当家の住居となれり」(宣長全集:20-48)。 [003-000]

建物創建は棟札に依る。(『松阪市史』・6-187)。 [004-000]

JD2357198.5 寛保1年7月 (1741/9/9)
7月より 岸江之沖のところで書および謡を習う。習物は、『小学』序、『大学』『中庸』『小学』『論語』『孟子』等。謡は7月より11月までに、「猩猩」「三輪」「楊貴妃」「東北」等を習う。
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『日記』「同七月自、習書及謡干岸江之仲老所矣」(宣長全集:16-6)。 [001-000]

『日記(万覚)』「習書物【寛保元年七月ヨリ】小学序、大学、中ヤウ、小学【一冊習フ】、論語、孟子、小学【又ハジメヨリ】○同習謡【七月ヨリ】シヤウ/\、三輪、陽貴妃、東北【以上十一月至】【正月ヨリ】江口、バセウ、ウネ女、弓八幡、竹生嶋、羽衣、立田【九月ヨリ】源氏洪養、野宮、井筒、アリドヲシ、国ヅ、田村【以上十二月至】【亥ノ春自】兼平、頼政、高砂、養老、柏ザキ、桜川、三井寺、百万、ハン女、東北【又習】、八嶋、小シホ、海士、忠則、白楽天、松風、千手【以上十二月至】【正月ヨリ】カキツバタ、誓願寺、カヅラキ、西行桜、羽衣【又習】、朝長、二人静、白髭、老松、加茂、呉服、小カ治、通盛、清経、アツモリ、実盛、融」(宣長全集:16-8)。 [002-000]

『松阪文芸史』(桜井祐吉著)に「岸江元中、本居宣長に読書習字を教へたる人として著名なるが松阪の人にて当時の松阪に於ける中心人物を訓育せる資料は随所に散見され、その筆跡の和臭を帯ばずして極めて豪放的なるに見て人物識見の凡庸ならざるべきを想察さるゝも惜しい哉資料乏しく詳しくは今知るを得ず。【鈴屋年譜等之仲と記せども正しくは元仲なり】」(55丁ウ)とあるがここでは宣長の記録に従う。 [003-000]

JD2357198.5 寛保1年7月 (1741/9/9)
秋 斎藤松菊のところで『千字文』の「散慮逍遥」を習う。
[Y000062-000-000]

『日記(万覚)』「散慮逍遥【十二歳秋】」(宣長全集:16-9)。 [001-000]

「散慮逍遥」は『千字文』第186句。 [002-000]

JD2357257.5 寛保1年9月 (1741/11/7)
9月 宗五郎(道喜)江戸より帰り、本町の家を同町津嶋屋彦市に売却、敷地に借家3軒を建て人に貸す。
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『家のむかし物語』「然れども道樹君、なほ本家をば、必此ぬしにゆづらんとおぼす心にておはしければ、同五年にかくれ給ふ時の遺言にも、かならず宗五郎立ちかへりて、本家をつぐべきよし、のたまひしかば、やむ事をえず、寛保元年の秋、江戸より来りて、本家をうけとり、三四右衛門と称し給ひき、然れども松坂にはとゞまらず、江戸にかへり給ひ、其後もかしこにては、なほ小津宗五郎と称して、神田の紺屋町の宅に住み給へり」(宣長全集:20-26) [001-000]

「同年九月に、道喜居士江戸よりのぼりて、建家を同町津嶋屋彦市へ売給へり、津嶋屋、これを引移して建たりしを、その家は焼て、今の津嶋屋の家は、その後に新しく建たる也、さてかの家うり給ひし跡は、借家三軒をたてて、人に借しおけるを、かゝり田など多くて、とし/\わづらはしく、無用の物なりし故に、明和八年春、中嶋屋治右衛門と桶屋八右衛門と二人へ、借家地と共に売たりき、かくて中嶋屋は新に家を建、桶屋はもとの借家に今も住ひをる也」(宣長全集:20-48)。明和8年(1771)3月条参照。 [002-000]


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