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JD2357376.5 寛保2年1月 (1742/3/6) □寛保2年(1742)壬戌 宣長13歳。勝38歳、はん11歳、親次8歳、俊3歳。(宗五郎31歳) [Y000064-000-000] 【この年の概要】
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JD2357376.5 寛保2年1月 (1742/3/6) ○1月より8月まで 岸江之仲のところで謡を習う。曲目は「江口」「芭蕉」「采女」「弓八幡」「竹生島」「羽衣」「龍田」等。 [Y000065-000-000] 寛保1年(1741)7月参照。
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JD2357376.5 寛保2年1月 (1742/3/6) ○春 斎藤松菊のところで『千字文』の「曠遠綿◎(貌にしんにょう)」を習う。 [Y000066-000-000] 『日記(万覚)』「曠遠綿◎(貌にしんにょう)【十三ノ春】」(宣長全集:16-8)。
[001-000] 「曠遠綿◎(貌にしんにょう)」は『千字文』第161句。
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JD2357527.5 寛保2年7月4日 (1742/8/4) ◆7月4日 須賀直見出生。 [Y000067-000-000] 須賀直見(1742〜76)は、宣長の初期門人。大平の縁戚で、師でもあった。略歴は『田丸屋系譜』(大平著)に載る。また、「須賀直見の人と歌風〈附録〉『落葉集』の翻刻」鈴木淳(『國學院大學日本文化研究所紀要』45輯)参照。
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JD2357537.5 寛保2年7月14日 (1742/8/14) ○7月14日 吉野水分神社、大峰山参拝のため松坂出立。随伴者、古手代茂八、従僕宗兵衛。吉野水分神社、大峰山、高野山、長谷寺を経て22日帰宅。 [Y000068-000-000] 『日記』「同二季【壬戌】七月参詣大峰山上也」(宣長全集:16-6)。
[001-000] 『日記(万覚)』「○寛保二年七月十四日ヨリ廿二日マデ、吉野ヘ参【十六日夜ヨリ十七日参 ○十九日高野ヘ参 ○廿日長谷寺ヘマヒル】(宣長全集:16-8)。
[002-000] 『日記』表紙裏「嘗父定利嘆無子而祈嗣於和州吉野山子守明神誓曰若生男子其子至十三歳即自供使其子参詣願望不虚室家有妊産男児然所誓不遂父早逝矣児至十三歳随亡父宿誓参詣彼神祠賽謝焉」(宣長全集:16-5)。
[003-000] 『本居氏系図』「本家譜」「同二年壬戌七月詣吉野水分神社、報賽先人祈請、時十三歳也」(宣長全集:20-85)。
[004-000] 享保15年(1730)5月『菅笠日記』(宣長全集:18-347)参照。
[005-000] 『家のむかし物語』「恵勝大姉、道樹君(父定利)の、かの願たておき給ひしことをおぼして、七月に吉野の水分の神社にまうでしめ給ふ、此里に御嶽まうでする人々あるに、たぐひてなりけり、われいまだいときなかりければ、うひ旅をうしろめたくおぼして、ふる手代なる茂八といふ者と、宗兵衛とて年久しくつかふ従者と、二人をそへて、出たゝせ給ふ、かの社にまうでて、かへり申シして、たぐへる人々とともに、御たけにもまうでて、事なくかへりぬれば、恵勝大姉涙おとしてぞよろこび給ひける、道樹君の御事、いかがおぼし出けむ」(宣長全集:20-27)。
[006-000] 後年の旅の記録を併せ行程を推測する。和歌山街道を西行し、14日は七日市(三重県飯高郡)泊、15日に国境の高見峠を越えて大和国に入り鷲家の辺で泊る。16日吉野着。同日か、翌17日早朝吉野水分神社に参拝。同社前から大峰山に向かう。18日高野山に向かい、19日高野山参詣後、山を下り、20日長谷寺を参詣。帰りは初瀬街道を通り21日阿保か伊勢路辺りで泊り、22日松坂着。『菅笠日記』に比べても、かなり厳しい日程であったことが推察される。
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JD2357552.5 寛保2年7月 (1742/8/29) ○秋 斎藤松菊のところで『千字文』の「絃歌酒讌」を習う。 [Y000069-000-000] 『日記(万覚)』「絃歌酒讌【十三ノ秋】」(宣長全集:16-8)。
[001-000] 「絃歌酒讌」は『千字文』第213句。
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JD2357556.5 寛保2年8月4日 (1742/9/2) ◆8月4日 荷田在満、主君田安宗武の命により『国歌八論』を執筆し奉る。 [Y000070-000-000] 本書に対して、宗武はみずから『国歌八論余言』を執筆、反駁。また、意見を徴された賀茂真淵は、『国歌八論余言拾遺』を著す。『国歌八論』論争の始まりである。このことを契機に、真淵は在満に代わって田安家に出仕する。
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JD2357611.5 寛保2年9月 (1742/10/27) ○9月より12月まで 岸江之仲に謡を習う。曲目は「源氏供養」「野宮」「井筒」「蟻通」「国栖」「田村」等。 [Y000071-000-000] 寛保1年(1741)7月条参照。
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JD2357687.5 寛保2年12月16日 (1743/1/11) ○12月16日 半元服する。『日記』はこの頃の起筆か。 [Y000072-000-000] 『日記』「同終月、半元服【十六日】」(宣長全集:16-6)。
[001-000] 寛保2年(1742)12月1日は、辛丑。
[002-000] 起稿時期は、全集解題(宣長全集:16-解題11)。「本居宣長先生伝」多田道夫(『和歌山大学教育学部紀要-人文科学-』26集)参照。
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JD2357701.5 寛保2年 (1743/1/25) ◆この年 堀景山『不尽言』執筆するか。 [Y000073-000-000] 「恐らくは寛保二年(一七四二)景山五十五歳の時、広島藩重役岡本貞喬から君主の学問のあり方その他について質問する書状を貰い、その返事としてしたためた文章である。」「『不尽言』『筆のすさび』解説」日野龍夫『仁斎日札・たはれ草・不尽言・無可有郷』(新日本古典文学大系・P509)
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