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JD2358468.5 延享2年1月 (1745/3/2) □延享2年(1745)乙丑 宣長16歳。勝41歳、はん14歳、親次11歳、俊6歳。(宗五郎34歳) [Y000090-000-000] 【この年の概要】
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JD2358479.5 延享2年2月11日 (1745/3/13) ○2月11日 『経籍』起筆する。 [Y000091-000-000] 表紙「延享二歳乙丑二月中十壱旦」(宣長全集:20-603)。『事彙覚書』に「経籍(ケイセキ)・・・ノ下ニハ、一切ノ書物ノ事ヲ記ス」とあるが、正に本冊は知り得た書名を記載した物で、『大和本草』『山城名勝志』等からも集中的に抜き出している。
[001-000] 従来、その大部分は寛延3年(1750)頃まで書き継がれた(宣長全集:20-解題40)とされてきたが、記載内容から宝暦7年(1757)までという説がある。こちらに従うべきか。
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JD2358489.5 延享2年2月21日 (1745/3/23) ○2月21日 京都行のため松坂出立。 [Y000092-000-000] 『日記』「同二【乙丑】二月、北野天神参【二月廿一日立、廿三日京著、廿五日天神参、三月一日京立、同三日帰】」(宣長全集:16-6)。
[001-000] 江戸下向が決まってから、京見物が決まったのであろうか。宣長が松坂を離れる前には京都見物に行くことが多い。この後も今井田家入籍、京都遊学の直前に、また享和1年(1801)にも上京している。
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JD2358491.5 延享2年2月23日 (1745/3/25) ○2月23日 京着。 [Y000093-000-000] |
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JD2358493.5 延享2年2月25日 (1745/3/27) ○2月25日 北野天神参詣。 [Y000094-000-000] 宣長の天神信仰について、本居清造はこの時の参詣や寛政6年(1794)閏1月26日の参詣、天満宮縁日の数で楽字25を使用した書簡(宣長全集:17-27書簡番号12)、大坂天満宮への参詣を願った享和1年(1801)2月の帰国願書(宣長全集:16-640)を引き、壮年時代から学神として尊崇していたのではないかと言う(『本居宣長稿本全集』・2-235)。また「日々動作勒記」にも「洛陽北野大自在天神宮」が礼拝の対象として挙げられている。寛延1年(1748)10月2日条参照。
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JD2358499.5 延享2年3月1日 (1745/4/2) ○3月1日 京出立。 [Y000095-000-000] |
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JD2358501.5 延享2年3月3日 (1745/4/4) ○3月3日 松坂帰着。 [Y000096-000-000] |
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JD2358511.5 延享2年3月13日 (1745/4/14) ○3月13日 『本朝帝王御尊系並将軍家御系』を書写する。 [Y000097-000-000] 同書「延享二年乙丑三月十三日、小津真良」(最終丁)、「延享二歳三月十二日」(裏表紙・凝った字体)。全23丁。内容は天皇家他の系図。「神代系」「本朝帝王系」「当将軍家系得川」「尾張家系得川」「紀州家系得川」「水戸家系得川」。「本朝帝王系」は「百十六代今上皇帝御韓(ママ)昭仁(テルヒト)」、桜町天皇(在位1735-47・現在は115代と数える)までを載せる。本書では「徳川」を「得川」と書く。以後も宝暦4年(1754)12月14日条に「得川」とある。当時の書き癖か。また、今上天皇(桜町天皇)が116代となっている。これは、85代仲恭天皇は九条廃帝とあり代に入れず、また北朝を正系とし、南朝を傍系とすると2代多くなるためである。南朝正統で、仲恭天皇も数えると115代が桜町天皇となり計算が合う。
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JD2358524.5 延享2年3月26日 (1745/4/27) ○3月26日 『【伊勢州飯高郡】松坂勝覧』の稿成る。 [Y000098-000-000] 同書「延享二年乙丑歳三月二十六旦 小津真良」。全9丁。他の書物からの抜書ではないという点から見れば現存する宣長の最初の著述となる。内容は松坂の略史、名所、神社仏閣の紹介。
[001-000] 「小津」姓はこれ以後の資料に見られない。江戸から帰った頃が、「小津」から「本居」への転換期であろうか。勿論、正式に本居姓を名乗るのは京都遊学の宝暦2年(1752)3月16日以後である。
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JD2358526.5 延享2年3月28日 (1745/4/29) ○3月28日 『元禄十二年の雲上明鑑』を書写する。 [Y000099-000-000] 同書「延享次乙丑三月廿八日書終」。全19丁。
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JD2358545.5 延享2年4月17日 (1745/5/18) ○4月17日 江戸下向、松坂出立。 [Y000100-000-000] 4月26日条参照。
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JD2358554.5 延享2年4月26日 (1745/5/27) ○4月26日 江戸着。叔父小津源四郎躬充の店(大伝馬町一丁目)に寄居し、翌延享3年(1746)3月26日まで約1年弱滞在する。 [Y000101-000-000] 『日記』「同四月十七日、趣干東武江城、【同廿六日著江戸】居伯父源四郎店【大伝馬一町目】、同三年三月廿六日、起武江、四月九日帰著本国」(宣長全集:16-6)。
[001-000] 『本居氏系図』「本家譜」「同二年乙丑四月下江戸、留大伝馬町孫右衛門家店、同三年丙寅三月自江戸帰」(宣長全集:20-85)。
[002-000] 江戸滞在中のことはその後の諸記録に全く見えない。
[003-000] 本居清造は、この江戸行きを商売の修行のためと推測する(『本居宣長稿本全集』・1-36)。
[004-000] 当時江戸には、母の兄察然和尚が増上寺に、義兄宗五郎が神田紺屋町に、また父の実弟で隠居家の小津宗七郎永喜等がいた。
[005-000] 叔父小津源四郎は父定利の実弟。『本居氏系図』「諱躬充、号松誉貞巌道有大徳、元禄十丁丑年誕生、嗣元閑居士之後、娶栄林法尼生五男一女、享保年中自職人町宅移居本町今宅、【此旧小津七右衛門法名重願之家也、七右衛門者、移干西町一丁目】宝暦十二年壬午五月廿日剃髪、号道有、明和五年戊子四月十七日巳刻卒去、享年七十二歳、同月十九日火葬矢川野」(宣長全集:20-90)。
[006-000] 隠居家の逼塞は、宝暦13年(1763)6月条、明和7年(1770)11月条参照。
[007-000] 「源四郎の店といふは、曾祖父三郎右衛門の開始せる三店の一なるが、後年隠居家孫右衛門に譲り与へたるなり、木綿店にして、明和元年まで営業せり」(『本居宣長稿本全集』・1-36)。
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JD2358587.5 延享2年5月 (1745/6/29) ○5月 冊子(日記か)に「延享二歳乙丑五月吉祥旦」の文字を書く。 [Y000102-000-000] 『(今井田)日記』(仮称)の裏表紙に「延享二歳乙丑五月吉祥旦」とある。表紙の「日記」の文字もこの時だと推定すると、江戸で日記をつけるつもりであったとも考えられる。結局、この帳面は今井田時代まで使用されることはなかった。
[001-000] 江戸滞在中であることが確実な筆跡は僅かにこれだけである。
[002-000] 三村竹清翁が「伊勢店」(『三村竹清集』・7-301)で引く某家の文化13年(1816)の店定目に「一、見勢ニ而本ヲ見ル事無用之事」とある。この定目を月の28日に読み聞かせたのだそうだ。また竹川竹斎にまつわる同様の話が『「奥の細道」物語』岡本勝著(東京堂出版刊・P108)に出る。
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JD2358822.5 延享2年 (1746/2/19) ○延享2年 『延享二年乙丑 紀州御家中附』『儒仙』『武仙』『浄家名目』等書写するか。 [Y000103-000-000] 奥書など年次を示すものは一切無い。『儒仙』は全部、外3点は部分影印が全集別巻2に載る。『浄家名目』には浄土宗の宗義の基本的な項目を書き留めたもので初歩的な内容の他の3点と俄に同列には扱い難いが、筆跡からは同時期とみるべきか。
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