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JD2358852.5 延享3年1月 (1746/3/21) □延享3年(1746)丙寅 宣長17歳。勝42歳、はん15歳、親次12歳、俊7歳。(宗五郎35歳) [Y000104-000-000] 【この年の概要】
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JD2358908.5 延享3年3月26日 (1746/5/16) ○3月26日 江戸出立。 [Y000105-000-000] 延享2年(1745)4月26日参照。
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JD2358920.5 延享3年4月9日 (1746/5/28) ○4月9日 松坂帰着。 [Y000106-000-000] 延享2年(1745)4月26日参照。
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JD2358942.5 延享3年5月1日 (1746/6/19) ○5月 『大日本天下四海画図』の作成に着手。 [Y000107-000-000] 寸法縦122,0×横195,0糎。「延享丙寅仲夏吉辰【栄貞図之】」。図中に「夫日本の絵図世に多しといゑども諸国の城下其外名所旧跡悉く在所相違せり、且又行程の宿駅微細ならず、依是予今この絵図をなすに城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記し山川海島悉く図する、並に側に六十六洲の諸郡を顕し又知行高田数を書し大坂より諸方への道法を東西に分てこれを記す、異国の道のり略顕せり、是が為に名て曰大日本大絵図行程記、時延享三年丙寅五月吉日」とある。袋には「宝暦元年歳次辛未季冬上浣」とあり、宝暦1年(1752)12月上旬に書写作業の完了したことが分かる。
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JD2359028.5 延享3年7月28日 (1746/9/13) ○7月28日以前 『事彙覚書』起筆するか。 [Y000108-000-000] 本年末条参照。
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JD2359028.5 延享3年7月28日 (1746/9/13) ○7月28日 『都考抜書』第1冊起筆する。 [Y000109-000-000] 表紙「都考抜書 京志 巻之一 延享三七月廿八日」(宣長全集:別1-3)。本書は現存6冊。宝暦1年(1752)年末ぐらいまで書き継がれたと推定される。「古今の諸書から歴代の京都、特に平安京に関するあらゆる事項を抜書して考證に備えた大部の自筆稿本」(宣長全集:別1-解題5)。いわば京都文献集覧とも言うべき本で、宣長の京都憧憬の念から編まれた。『大日本天下四海画図』が空間の広がりの中で日本を捉えようとした試みであるのに対して、本書は京都という場所を史書や文学作品の記述という時間の流れの中で捉えようとしたものである。
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JD2359029.5 延享3年7月 (1746/9/14) ○7月より 浜田瑞雪に弓の指南を受く。 [Y000110-000-000] 『万覚』「○同三年【丙寅】七月ヨリ稽古弓浜田【三十郎良庵】瑞雪老受指南同九月十五日的射始」(宣長全集:16-9)。
[001-000] 浜田瑞雪(1681〜1763)は、三十郎良安と称し、松坂殿町で射術を教えていた(『樹敬寺誌』・P69)。『日記』宝暦13年(1763)5月26日条に死亡記事が載る。また、同年7月30日より、10月28日まで、妹知遊が、瑞雪の庵に一時住まったことがある。その時の宣長の『日記』に、瑞雪の庵は浜田八郎兵衛所持と書かれる。浜田八郎兵衛家は、祖父定治(唱阿)の前妻万(妙光大姉)の生家で、新町にあった。あるいは、瑞雪もその一族か。
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JD2359074.5 延享3年9月15日 (1746/10/29) ○9月15日 浜田にて的射始。 [Y000111-000-000] 7月条参照。
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JD2359080.5 延享3年9月21日 (1746/11/4) ○9月21日 『都考抜書』第2冊起筆する。 [Y000112-000-000] 表題「京志 巻之二」。表紙右隅「延享三丙寅九月廿一日」(宣長全集:別1-49)。
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JD2359115.5 延享3年10月27日 (1746/12/9) ○10月27日 『洛外指図』書写する。 [Y000113-000-000] 「延享三年丙寅十月廿七日、本居真良栄貞」(宣長全集:別2-589)。
[001-000] 「本居」姓の初見。「真良」名はこれを最後に使用されない。
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JD2359177.5 延享3年 (1747/2/9) ○延享3年 もしくはその翌年、『事彙覚書』起筆するか。 [Y000114-000-000] 「恐らくは『都考抜書』を書継いでいた延享三、四年(一七四六、四七)十七、八歳頃に、和漢古今の諸書、特に近世の雑書から諸事項を抜抄し、乾坤以下二十二の部門に分類して参考に備えた事彙の覚書」(宣長全集:別1-解題11)。未定稿1冊、墨付42丁。
[001-000] 宣長の百科全書編纂への夢はこの頃から生涯にわたって続く事になる。
[002-000] 故中根道幸の研究(未刊)によれば起稿は『都考抜書』起筆以前か。
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JD2359177.5 延享3年 (1747/2/9) ○延享3年 『道中記』成るか。 [Y000115-000-000] 1巻。江戸から京迄、また参宮道の各宿場と里程を記す。「此所ヨ(ママ)富士山ヨク見ユ」(白須賀塩見坂)や「ユキユキテハコネノ湖水右ノカタニアリコレヨリ権現ハ右ノ方ニミユル」など自らの体験に基づくと思われる記述も散見する。江戸からの帰郷頃の筆か。
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JD2359177.5 延享3年 (1747/2/9) ○延享3年頃より 和歌に対する関心が芽生えてくるか。 [Y000116-000-000] 『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」「十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき」(宣長全集:1-84)。
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