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JD2359560.5 延享5年1月 (1748/2/27)
延享5年・寛延1年(1748)戊辰 宣長19歳(7月12日改元)。勝44歳、はん17歳、親次14歳、俊9歳。(宗五郎37歳)
[Y000121-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

歌を詠み始め、独学で和歌の勉強を開始する。近江、京都、大坂を見物、知恩院に参詣する。五重相伝を承ける。今井田家養子となり、山田(現、伊勢市)に移る。 [001-001]

JD2359560.5 延享5年1月 (1748/2/27)
1月 和歌に志し、初めて「春立心」を詠む。
[Y000122-000-000]

『栄貞詠草』巻頭「寛延元年戊辰、詠和歌、清原栄貞(「本居」自刻印)、此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける、新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空」(宣長全集:15-181)。 [001-000]

『(今井田)日記』寛延2年(1749)の条に「△去辰ノ年ヨリ、和歌道ニ志、△今年巳ノ年ヨリ、専ラ歌道ニ心ヲヨス」(宣長全集:16-19)。 [002-000]

『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」「十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき」(宣長全集:1-84)。 [003-000]

JD2359617.5 延享5年3月27日 (1748/4/24)
3月27日 『端原氏城下絵図』を書き始める。
[Y000123-000-000]

裏面「延享五ノ三ノ廿七書ハシム」。架空の都市図である。延享4年(1747)前後条参照。 [001-000]

JD2359625.5 延享5年4月5日 (1748/5/2)
4月5日 上京のため松坂出立、津で観音堂、国府阿弥陀、専修寺等参詣し、関泊。宿は酒屋善兵衛。
[Y000124-000-000]

この上京は『日記(万覚)』に「同五年【戊辰】四月、近江州多賀ニ参ジ京城ニ入、同五月上旬帰郷、其間記」(宣長全集:16-9)として記される。洛中洛外、参拝社寺は延べ93箇所にのぼり、芝居に祭りと優雅な旅である。『都考抜書』で培われた京都の知識が存分に生かされたであろう。それにしても、預けた金の利息だけで生活する一家には負担が大きかったことと推察される。 [001-000]

国府阿弥陀は、津の観音堂(恵日山観音寺)の傍らにあった。縁起などは不明(『伊勢参宮名所図会』巻3)。 [002-000]

酒屋善兵衛は、宝暦2年(1752)3月5日に泊まった酒屋と同じか。 [003-000]

JD2359626.5 延享5年4月6日 (1748/5/3)
4月6日 江州石原泊。
[Y000125-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-9)。 [001-000]

JD2359627.5 延享5年4月7日 (1748/5/4)
4月7日 多賀大社参詣、高宮泊。
[Y000126-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-9)。 [001-000]

JD2359628.5 延享5年4月8日 (1748/5/5)
4月8日 草津泊。宿は藤屋。
[Y000127-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-9)。 [001-000]

藤屋は宝暦2年(1752)3月6日、宝暦3年(1753)3月6日 享和1年(1801)6月9日にも宿泊している。 [002-000]

JD2359629.5 延享5年4月9日 (1748/5/6)
4月9日 石山寺、三井寺参詣、小関越で山科に出、京都着、宿は三条橋東尾張屋某。
[Y000128-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-9)。 [001-000]

JD2359630.5 延享5年4月10日 (1748/5/7)
4月10日 建仁寺、大仏殿近隣、今熊野、泉涌寺、小松谷正林寺(説法あり)に参詣。宿は先斗町糸屋久右衛門亭。
[Y000129-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-9)。糸屋は宝暦2年(1752)1月25日より2月1日まで宿泊、また宝暦7年(1757)1月23日、御忌参詣に上京した母等が泊まり、本居家の定宿であったらしい。 [001-000]

JD2359631.5 延享5年4月11日 (1748/5/8)
4月11日 北で芝居見物。
[Y000130-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-9)。 [001-000]

芝居については宝暦2年(1752)10月9日条参照。 [002-000]

JD2359632.5 延享5年4月12日 (1748/5/9)
4月12日 粟田口庚申、知恩院など参詣。
[Y000131-000-000]

『日記(万覚)』「十二日、粟田口庚申、智恩院、【御座敷拝見、通誉上人御塔前参詣ス、大僧正ヨリ十念ヲ授ル】一心院、丸山長楽寺、東大谷、双林寺、祇園、【二軒茶屋中食】高台寺、八坂塔、清水寺、【本尊開帳】六波羅密寺、錦天神宮、円福寺、蛸薬師、胎帯地蔵、和泉式部寺、誓願寺」(宣長全集:16-9)。 [001-000]

JD2359633.5 延享5年4月13日 (1748/5/10)
4月13日 革堂、下御霊、禁裏など拝見。
[Y000132-000-000]

『日記(万覚)』「十三日、革堂、下御霊、御築地内、禁裏、仙洞御所、其外諸御公家方ノ御屋敷。相国寺、上賀茂、御菩薩池、下賀茂、百万遍、吉田、黒谷、【方丈拝見、元祖安置仏拝見、正清院殿御霊廟拝見】真如堂」(宣長全集:16-9)。 [001-000]

JD2359634.5 延享5年4月14日 (1748/5/11)
4月14日 雨天。宿舎に留まるか。
[Y000133-000-000]

JD2359635.5 延享5年4月15日 (1748/5/12)
4月15日 誓願寺、東本願寺、西本願寺など参拝。
[Y000134-000-000]

『日記(万覚)』「十五日、誓願寺、東本願寺、西本願寺、東寺、石清水八幡宮、【八幡中食】伏見藤森稲荷」(宣長全集:16-10)。 [001-000]

JD2359636.5 延享5年4月16日 (1748/5/13)
4月16日 祇園、長楽寺、東大谷、清水寺参詣。
[Y000135-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-10)。 [001-000]

JD2359637.5 延享5年4月17日 (1748/5/14)
4月17日 雨天。宿舎に留まるか。
[Y000136-000-000]

JD2359638.5 延享5年4月18日 (1748/5/15)
4月18日 雨天。夜六角堂参詣。
[Y000137-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-10)。 [001-000]

JD2359639.5 延享5年4月19日 (1748/5/16)
4月19日 葵祭拝見、北野天満宮、壬生地蔵参詣。
[Y000138-000-000]

『日記(万覚)』「十九日、葵御祭下賀茂ニテ拝見【並競馬アリ】、北野天満宮、壬生地蔵」(宣長全集:16-10)。 [001-000]

JD2359641.5 延享5年4月21日 (1748/5/18)
4月21日 東福寺参詣後、京出立、大坂着、梶木町八丁目若江屋七兵衛宅に止宿、大坂見物。
[Y000139-000-000]

『日記(万覚)』「廿一日、東福寺【霊宝多シ】、伏見ヨリ船〔一人四十八文〕【七ツ半時出ル】其夜八ツ半時分大坂八間屋著、梶木町八丁目若江屋七兵衛宅ニ宿ル」(宣長全集:16-10)。 [001-000]

東福寺の霊宝はその後にも拝見している。『在京日記』宝暦7年(1757)3月21日に「此寺霊宝おかまするは、伽藍修覆のため也、去ぬる辰の年にもおかませ侍りし、その時ものほりてまいりし」(宣長全集:16-107)。 [002-000]

JD2359642.5 延享5年4月22日 (1748/5/19)
4月22日 表御堂辺、裏御堂、座間大明神参詣。
[Y000140-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-10)。座間(イカスリ)神社は大阪市東区渡辺町に鎮座する延喜式内社。遙か後年の嘉永4年(1851)5月、この宮の神主佐久良東雄が宣長の『秘本玉くしげ』を刊行した。 [001-000]

JD2359643.5 延享5年4月23日 (1748/5/20)
4月23日 道頓堀芝居見物、一心寺など参詣。
[Y000141-000-000]

『日記(万覚)』「廿三日、道頓堀芝居見物、一心寺【茶臼山見ユ、寺内ニ本多出雲守忠朝討死所、墓アリ】天王寺、生玉宮、高津宮、御城、高麗橋」(宣長全集:16-10)。 [001-000]

JD2359644.5 延享5年4月24日 (1748/5/21)
4月24日 天満天神宮など参拝。船で京に向かう。
[Y000142-000-000]

『日記(万覚)』「廿四日、天満天神宮、山崎宝寺観音開帳、湯殿山大日如来開帳、今日日ノ入前ヨリ船ニテ伏見ニ上ル【一人百三文】」(宣長全集:16-10)。 [001-000]

船賃の差は上りと下りの差であろうか。 [002-000]

JD2359645.5 延享5年4月25日 (1748/5/22)
4月25日 伏見京橋着、宇治平等院などを参詣し、三条大橋東宿屋松屋権兵衛亭に止宿、京見物。
[Y000143-000-000]

『日記(万覚)』「アクル○廿五日〔辰ノ刻〕、伏見京橋ニ著畔ス、宇治平等院、興聖寺、恵心院、離宮、三室戸、【本尊開帳】黄檗山、再入京、三条大橋東宿屋松屋権兵衛亭ニ止宿ス、同夜錦天神宮」(宣長全集:16-10)。 [001-000]

JD2359646.5 延享5年4月26日 (1748/5/23)
4月26日 南禅寺、永観堂、光雲寺など参詣。
[Y000144-000-000]

『日記(万覚)』「廿六日、南禅寺、【方丈座敷拝見】永観堂、光雲寺、獅子谷、銀閣寺真如堂、【其折節本尊開帳】」(宣長全集:16-10)。 [001-000]

JD2359648.5 延享5年4月28日 (1748/5/25)
4月28日 二条城、北野天満宮などを巡る。
[Y000145-000-000]

『日記(万覚)』「廿八日、二条城、北野天満宮、平野社、金閣寺、等持寺、妙心寺、仁和寺、鳴滝村、広沢池、嵯峨釈迦堂、天竜寺、法輪寺、松尾社」(宣長全集:16-10)。 [001-000]

JD2359649.5 延享5年4月29日 (1748/5/26)
4月29日 知恩院、祇園、高台寺など参詣。
[Y000146-000-000]

『日記(万覚)』「廿九日【晦日也】、智恩院、祇園、高台寺、清水寺、【開帳、アクル朔日迄】西大谷小松谷大仏」(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359649.5 延享5年4月 (1748/5/26)
夏頃 『和歌雑要』を借覧し、歌を添えて返す。
[Y000147-000-000]

『石上稿』詞書「和歌雑要といへる本をかりてかへすとて」(宣長全集:15-181)。前後に青葉と七夕の歌があり、夏頃と推定した。本書の内容、著者は不明。 [001-000]

JD2359651.5 延享5年5月2日 (1748/5/28)
5月2日 京で朝鮮人入洛を見る。
[Y000148-000-000]

『日記(万覚)』「二日、朝鮮人入洛、於七条通油小路西見」(宣長全集:16-11)。 [001-000]

この時の朝鮮通信使は、正使洪啓禧、副使南泰耆、従事官曹命采で、総人員は475名(内83名が大坂残留)。将軍徳川家重襲職祝賀のための来日。 [002-000]

延享5年(1748)、『朝鮮王使来朝』書写か(宣長全集:別2-解題44)。宣長が京都で見た、延享5年(寛延1年)第18回朝鮮通信使の江戸での記録。次の宝暦14年(1764)、第19回目の来朝使節の噂も『日記』には記録されている。 [003-000]

JD2359652.5 延享5年5月3日 (1748/5/29)
5月3日 京で朝鮮人発足を見る。
[Y000149-000-000]

『日記(万覚)』「三日、朝鮮人京都発足、三条橋東旅宿ニテ見ル」(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359653.5 延享5年5月4日 (1748/5/30)
5月4日 京出立、石部泊。宿は大黒屋。
[Y000150-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359654.5 延享5年5月5日 (1748/5/31)
5月5日 関泊。宿は菱屋。
[Y000151-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359655.5 延享5年5月6日 (1748/6/1)
5月6日 松坂帰着。
[Y000152-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359679.5 延享5年5月 (1748/6/25)
この頃 『歌道名目』、『制の詞』を書写するか。
[Y000153-000-000]

(宣長全集:別2-解題44)。全集解題の根拠は明らかではないが、両書ともに和歌の初歩的な内容であることや、筆跡によると思われる。『歌道名目』は、『和歌八重垣』等からの和歌の基本的な項目の抜粋である。一部に宣長らしからぬ筆跡も見られる。『制の詞』は、やはり『和歌八重垣』等からの抜粋である。仮題は、最初の項目「制の詞」から本居清造が命名した。 [001-000]

JD2359715.5 延享5年7月7日 (1748/7/31)
7月7日 『歌のぬき書』を書き始める。
[Y000154-000-000]

前年より起筆の『和歌の浦』が和歌の基礎知識の類纂であるのに対して、『歌のぬき書』(記念館では『秀歌抄出』と呼ぶ)は、文字どおり歌の抜き書きである。全4冊の内、抜粋した年次が分かるのは2冊のみ。1冊目は、奥書に「延五七七」と記し、2冊目は、やはり奥書に「戊辰八ノ十日」とある。ちなみに、第1冊目の内容は、巻頭は『新古今集』行慶の「閑中春雨」の歌一首、三条西実隆の萩や女郎花等花の歌と蛙の詠める歌、七夕の歌74首、難波津、浅香山の歌、器物歌尽くし、木下長嘯子の虫歌合十五番、十二月和歌、六歌仙、三夕、和歌三神、六玉川、折句、廻文、混本歌、という雑然とした内容となっている。以下の3冊では更に目に触れた和歌を次々書き写している。「戊辰八ノ十日」という奥書の一冊は、『夫木集』15508番歌から始まり、勅撰集などから450余首が引き抜かれている。奥書の無い1冊には、貝を詠んだ歌、「百人一首」、「三十六人女歌仙」「源氏物語倭歌」、道歌、「世中百首」等が写し取られ、別の1冊には「春たつと」として19首、『伊勢物語』の歌全部等が写されている。 [001-000]

延1年7月24日#○7月24日頃 父の命日に南無阿弥陀仏を沓冠に歌を詠む。 [002-000]

『石上稿』詞書「父定利の忌日に追福のため南無阿弥陀仏を沓冠にをきて釈教の心を」(宣長全集:15-181)。 [003-000]

JD2359738.5 寛延1年7月 (1748/8/23)
7月 山田の今井田氏養子の事が定まる。
[Y000155-000-000]

『日記』「○寛延元歳、為山田住今井田氏之養子【内々媒当所家城氏也、媒人山田住下井治兵衛、此方通事者井田喜右衛門也、七月事定、九月五日受印、同七日夜披祝之、印持参養父名代佐次右衛門来、治兵衛殿到来、同八日右返礼喜右衛門到於下井氏宅、而行今井田氏始対面也、十一月十四日移今井田氏、養父者今井田儀左衛門祝部秦尹平、養母松坂住家城氏女也 ○同二年己巳六月十五日辛卯日、始移別宅紙商売始】」(宣長全集:16-6)。 [001-000]

『本居氏系図』「本家譜」「寛延元年戊辰十一月出為山田妙見町年寄今井田儀左衛門尹平之養子」(宣長全集:20-85)。 [002-000]

今井田家は、山田妙見町(現、伊勢市尾上町)の紙商で御師を兼ねていた。天保14年(1843)「妙見町絵図」によれば、場所は、参宮街道沿い小田橋の南詰右側にあった。小田橋は、瀬田川に架かる橋で、古来、外宮・内宮神人間の紛争や、北畠氏の関所(岡本番屋)等で知られる。因みに天保当時の今井田家の当主は直記である。 [003-000]

小田の橋から尾上町を望んだ明治初期の写真に今井田家の写真が載る。丸看板に「今井田家」の文字がかすかに見える(『ふるさとの想い出写真集【明治大正昭和】伊勢二見小俣』国書刊行会・P14)。 [004-000]

祝部(ハフリ)は、両宮の摂末社所管社に奉仕して守衛及び御匙(ミヒ)、御鑰(ミカギ)を保管し、且つ掃除を監督する職である。(『宇治山田市史』上-73)。 [005-000]

町年寄は、家領も役料も無く、師職を営んで檀家の助成によって渡世したと『宇治山田市史』(上-377)にあり、今井田家が師職、御師であったことが窺える。また同書に引く元治、慶応年間の町年寄家一覧(上-390)に、今井田直記の名前が挙がる。 [006-000]

「本居宣長の養子先今井田家に関する一考察」山本泰弘(『三重の古文化』54号)参照。 [007-000]

JD2345678.9 (1710/2/24)
延1年8月10日#○8月10日 『歌の抜書』書写する。
[Y000156-000-000]

第1冊19丁裏「戊辰八ノ十日」と記す。7月7日条参照。 [001-000]

JD2359753.5 寛延1年8月15日 (1748/9/7)
8月15日 雨天で月見えず。歌を詠む。
[Y000157-000-000]

『石上稿』詞書「八月十五夜雨ふり侍りけれは」として一首を載せる(宣長全集:15-181)。 [001-000]

JD2359773.5 寛延1年9月5日 (1748/9/27)
9月5日 今井田氏養子の印を受く。
[Y000158-000-000]

JD2359775.5 寛延1年9月7日 (1748/9/29)
9月7日 今井田家の養子の印を披き祝う。
[Y000159-000-000]

JD2359776.5 寛延1年9月8日 (1748/9/30)
9月8日 養子の印の返礼。、今井田氏に行き初めて対面す。
[Y000160-000-000]

7月条参照。 [001-000]

JD2359797.5 寛延1年9月 (1748/10/21)
この頃 某人より今井田家養子縁組の祝いの歌を贈られ、返歌する。
[Y000161-000-000]

『石上稿』詞書と歌「ある人のもとよりわが縁を賀して神路山にうつして祈るかげひろみ千代をかさねん松のことぶきといへる返事に、うつしうへむ松の行ゑは神路山ふかきめぐみに打まかせつゝ」(宣長全集:15-181)。 [001-000]

JD2359797.5 寛延1年9月 (1748/10/21)
この頃 『万覚』起筆か。
[Y000162-000-000]

このような説もあるが、やはり寛保1年(1741)3月「栄貞」と命名した頃、もしくは寛保3年(1743)9月24日、『新板天気見集』とするほうが有力であろう。 [001-000]

書誌、『万覚』共表紙美濃四ツ折仮綴冊子装 墨付表紙共31枚、横本1冊。個人所蔵。 [002-000]

JD2359799.5 寛延1年10月2日 (1748/10/23)
10月2日 『覚』起筆。
[Y000163-000-000]

書誌、『覚』共表紙半紙四ツ折仮綴冊子装 墨付表紙共23丁、横本1冊。裏表紙裏「寛延元年神無月二日、本居栄貞」(宣長全集:20-659)。個人所蔵。 [001-000]

『覚』の内容は「養生紀」と一族の命日を記した「毎月」、精進日を記した「精進」、毎日の礼拝を定めた「日々動作勒記」。「勒記」はその文言より今井田家時代のものと考えられる。「『万覚』の白紙がまだ11枚余もあるのに・・・山田養子にそなえるつもりであったろう」中根道幸(2-32)。 [002-000]

JD2359803.5 寛延1年10月6日 (1748/10/27)
10月6日 『和歌の浦』第1冊書き終わる。
[Y000164-000-000]

奥書「寛延元年神無月六日 華丹軒本居栄貞」(宣長全集:14-525)。 [001-000]

JD2359812.5 寛延1年10月15日 (1748/11/5)
10月15日 『和歌の浦』第2冊(『万葉抜書存 和歌の浦』)起筆する。
[Y000165-000-000]

巻首「寛延元 十 十五年」(宣長全集:14-527)。「歌書」、隠口初瀬についての私見、万葉歌覚、「連歌俳諧書」、万葉歌語覚、「かなつかひ」と続く。抜書逆用して「万葉摘書」を記す。摘抄には、契沖説を引くところもあるが、上京後に新たに書き加えられたのであろう(宣長全集:6-解題10)。 [001-000]

大野晋氏は、宣長の漢字音への関心と言う視点から、本書の「万葉摘書」を高く評価し、この時代に於ける宣長の中心的な課題の一つは、古代の漢字の一字一字について、どのような仮名をあてるべきかにあったという。その関心は宝暦1年(1752)11月中旬の『かなつかひ』へと受け継がれていく(宣長全集:5-解題18)。 [002-000]

JD2359842.5 寛延1年閏10月15日 (1748/12/5)
閏10月15日 夜より茶の湯を山村吉右衛門に学ぶ。
[Y000166-000-000]

『日記』「閏十月十五日夜ヨリ、学茶湯於山村吉右衛門殿」(宣長全集:16-12)。山村吉右衛門は、隠居家小津孫右衛門(道智大徳)の妻くに(寿光大姉)の弟で、西町に住んだ。「山村氏略系」(『本居氏系図』「歴代諸妣伝」収載「雲誉寿光大姉」条)によれば、後に医を業として通庵と号し法橋に叙せられた(宣長全集:20-119)。寛延4年(1751)7月20日没。また、宝暦14年(1764)7月21日条に、通庵の妻逝去の記事が載る。なお、通庵については『近世畸人伝』に「法橋通庵、名は重高、伊勢国松坂の人。北畠の庶流なれども、其先、同国山村に住せしより、これを氏とす。為人無我にして正直、禅に参じ、又茶、香、瓶花のごとき風流の技芸に通ず。医は後藤左一に学びて、自右一と名のる。薙髪の後、通庵といへり。(中略)寛延未年七月二十日、八十歳にして家に終る」と詳しく書かれている。また、その中で著者伴蒿蹊は「翁(通庵)はおのれがゆかりなればなり」と関係のあることを示唆するが、『寛政五年上京日記』巻上の蹊を訪問し贈った歌の左注で「老松とはあるしの姨なる尼の七十余にてあなるをよめる也、その人はおのかゆかりなる人也けるをけふはしめて聞あきらめたる、その尼は松坂の人、故山村通庵法橋の女になん有ける、此法橋はおのか父のはゝかたのをちになんいましける」(宣長全集:16-517)とその関係が明らかにされる。宣長の父定利の、実父道智大徳の妻が山村通庵の妹である。父の母方の伯父とはその意味である。 [001-000]

『経籍』の『茶陽三伝集』『茶陽流伝集』等5点(宣長全集:20-616)はこの頃の筆記か。本書では「茶湯」を「茶陽」と6箇所すべて誤っている。また『日記』の原本を見ると、偏に「陽」と書きそうになり慌てて「湯」とした形跡が残る。活字本ではその7行後から「以下神道書」として神道関連の書が掲出され、これを今井田時代とすると、この執筆時期の推定はあながち的はずれではないかもしれない。 [002-000]

JD2359845.5 寛延1年閏10月18日 (1748/12/8)
閏10月18日 樹敬寺にて五重相伝を受ける。取次は塔頭法樹院。礼拝帳を頂く。この日、師諦誉上人に謁し十念を授かる。
[Y000167-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。宣長の五重相伝については『宣長少年と樹敬寺』山下法亮著<昭和43年(1968)9月29日>に詳しい。また、五重相伝を含む一連の浄土宗との係わりを「家の宗教」という観点から捉えようとした「松坂修学期の本居宣長-家の宗教をめぐって-」森瑞枝(『國學院雑誌』87巻11号)がある。 [001-000]

JD2359846.5 寛延1年閏10月19日 (1748/12/9)
閏10月19日 弥陀仏48礼以下行を修す。
[Y000168-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359847.5 寛延1年閏10月20日 (1748/12/10)
閏10月20日 行を修す。
[Y000169-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359848.5 寛延1年閏10月21日 (1748/12/11)
閏10月21日 行を修す。
[Y000170-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359849.5 寛延1年閏10月22日 (1748/12/12)
閏10月22日 行を修す。
[Y000171-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359850.5 寛延1年閏10月23日 (1748/12/13)
閏10月23日 行を修す。
[Y000172-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359851.5 寛延1年閏10月24日 (1748/12/14)
閏10月24日 行を修す。
[Y000173-000-000]

『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359852.5 寛延1年閏10月25日 (1748/12/15)
閏10月25日 行を修す。夜、樹敬寺宝延院方丈にて観蓮社諦誉上人蓮阿◎(口編に爾)風義達和尚に五重を授伝し、血脈を授かり、伝誉英笑道与居士の道号を受く。
[Y000174-000-000]

『日記』(宣長全集:16-7)。『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359853.5 寛延1年閏10月26日 (1748/12/16)
閏10月26日 同伝授の謝礼に師上人に見え、十念を授かり、日果百遍を受く。
[Y000175-000-000]

『日記』「同年閏十月廿五日夜、於法幢山樹敬寺宝延院方丈、授伝五重於三十世主観蓮社諦誉上人蓮阿◎(口編に爾)風義達和尚師諦誉上人、賜血脈賜伝誉英笑道与【前行等記後】伝誉英笑道与【英笑者、伝通院走誉上人賜、走誉上人、後為増上寺四十三世主任大僧正焉、此英笑用道号、伝誉道与賜諦誉上人焉、寛延三年五月十一日、諦誉上人遷化】(宣長全集:16-6)。『日記(万覚)』(宣長全集:16-11)。 [001-000]

JD2359870.5 寛延1年11月14日 (1749/1/2)
11月14日 今井田氏に移る。養父は今井田儀左衛門祝部秦尹平、養母は松坂住家城氏の女。「日々動作勒記」の記述から兄弟がいたという説もある。行動を共にしたりする記述はどこにも見えないので疑問が残る。
[Y000176-000-000]

『日記』「十一月十四日移今井田氏、養父者今井田儀左衛門祝部秦尹平、養母松坂住家城氏女也」(宣長全集:16-6)。 [001-000]

『(今井田)日記』「寛延元年、霜月十四日、当所ヘウツル、下井氏宅ヘヲチツキ、夜ニ入リ当家ヘ移ル、治兵衛殿同道ス、○同日 新宅ヘウツリゾメアリ」(宣長全集:16-17)。 [002-000]

『覚』「日々動作勒記」「願ハ父母兄弟並ニ故郷母兄弟等、現世安穏、往生極楽」(宣長全集:20-659)。 [003-000]

新宅への移り初め。この日より『(今井田)日記』は始まる。寛延3年(1750)12月まで。 [004-000]

JD2359871.5 寛延1年11月15日 (1749/1/3)
11月15日 新宅広めで近所の人を招き、初めて対面する。
[Y000177-000-000]

『(今井田)日記』「○同十五日、新宅ヒロメ、近隣ノ衆中ヲ新宅ニ招シ、予始テ、新宅ニテ其夜タイメンス」(宣長全集:16-17)。 [001-000]

JD2359876.5 寛延1年11月20日 (1749/1/8)
11月20日 二見浦行き。
[Y000178-000-000]

『(今井田)日記』「○同廿日、二見カウラヘユク」(宣長全集:16-17)に依る。『栄貞詠草』に詠歌有り。但し詞書では25日とする(宣長全集:15-182)。 [001-000]

JD2359877.5 寛延1年11月21日 (1749/1/9)
11月21日 養父と参宮する。
[Y000179-000-000]

『(今井田)日記』「○同廿一日、参宮ス、養父ニ随テ参ル」(宣長全集:16-17)。 [001-000]

今井田時代、宣長の参宮の多さがよく指摘されるが、御師という仕事や、遷宮という年に当たっていたことを考えると、そんなに特異なことではなかったのかもしれない。 [002-000]

JD2359881.5 寛延1年11月25日 (1749/1/13)
11月25日 上路八大夫ら4名を振る舞う。
[Y000180-000-000]

『(今井田)日記』「○同廿五日、上路八大夫殿、山本八大夫殿、今井田次左衛門殿、下井治兵衛殿、右四人ヲ振舞ス」(宣長全集:16-17)。 [001-000]

上路(上地)八大夫、山本八(佐)大夫は山田の師職。「本居宣長の養子先今井田家に関する一考察」山本泰弘(『三重の古文化』第54号)参照。 [002-000]

JD2359886.5 寛延1年11月 (1749/1/18)
11月 『都考抜書』第4冊(「京城志」)一部起筆する。
[Y000181-000-000]

裏表紙「都考抜書京城志寛延元歳次戊辰霜月 華丹軒 本居栄貞」(宣長全集:別1-241)。「引書考」として典拠の一覧がある。内容は次の通り。「須磨記、通俗三国志、倭姫命世記、闕疑抄、伊勢物語、源氏湖月抄【発端ヨリ夕顔巻ニイタル迄、其末ハ別帖ニシルスヘシ】、円光大師行状翼賛【初巻ヨリ十五巻ニ至テ引考畢、其末別帖ニ記ス】」(宣長全集:別1-241)。☆第4冊表側38枚の脱稿はこれ以前の成立とする説もあるが、文中「華風云」(宣長全集:別1-237)とあり、華風改名が寛延2年(1749)9月22日であることから、にわかに断じがたい。第4冊の「引書考」の内容は次の通り。「撰集抄、万葉集、同拾穂抄、皇字沙汰文、神名秘書、神宮雑例集、中臣祓、御鎮座本記、御鎮座伝記、神境紀談、小朝熊社神鏡沙汰文、雑々拾遺、元亨釈書【不全、至六巻】、大学朱註、山谷詩集、錦繍談」(宣長全集:別2-219)。ここに引かれた神道書は、同時期と推定(閏10月15日条参照)される『経籍』の神道書名と重なる部分がある。 [001-000]

JD2359892.5 寛延1年12月6日 (1749/1/24)
12月6日 松坂に行く。
[Y000182-000-000]

『(今井田)日記』「○十二月六日、松坂ニゆく」(宣長全集:16-17)。 [001-000]

JD2359898.5 寛延1年12月12日 (1749/1/30)
12月12日 松坂より帰る。
[Y000183-000-000]

『(今井田)日記』「○同十二日、松坂よりかへる」(宣長全集:16-17)。 [001-000]

JD2359902.5 寛延1年12月16日 (1749/2/3)
12月16日夕方 外宮参拝。
[Y000184-000-000]

『(今井田)日記』「○十六日夕、外宮ニ参宮ス」(宣長全集:16-17)。 [001-000]

JD2359903.5 寛延1年12月17日 (1749/2/4)
12月17日夕方 内宮参拝。初めて新宅に泊まる。
[Y000185-000-000]

『(今井田)日記』「○十七日夕、内宮ニ参宮ス、○同夜 ハジメテ新宅ニ宿寝ス」(宣長全集:16-17)。 [001-000]

JD2359915.5 寛延1年12月29日 (1749/2/16)
12月大晦日 新宅に帰る。
[Y000186-000-000]

『(今井田)日記』「○大晦日夜 新宅ニイヌル」(宣長全集:16-17)。 [001-000]

JD2359915.5 寛延1年 (1749/2/16)
寛延1年 『朝鮮王使来朝』書写か。献上品などの江戸着等行列の次第と、巻末には「右朝鮮人通り筋の町小路緞子沙綾縮緬などの幕を張り金屏風等敷物にいたる迄家々に我おとらじと善美をつくせり、且又、諸大名方並び奥方所々にて見物、家々の幕をうちことにはなやか成事に候」と見物人の様子も記す。
[Y000187-000-000]

5月2日条参照。 [001-000]

JD2359915.5 寛延1年 (1749/2/16)
寛延1年 和歌道に志す。
[Y000188-000-000]

寛延2年(1749)条参照。 [001-000]

JD2359915.5 寛延1年 (1749/2/16)
寛延1年 詠として『石上稿』に62首載せる。
[Y000189-000-000]

JD2359915.5 寛延1年 (1749/2/16)
寛延1年 伊勢山田の荒木田麗(17歳)、歌学への関心を深める。
[Y000190-000-000]

寛延1年(1748)、麗は、兄正富に従い吉野に遊ぶ。浪速の連歌師西山昌林に入門。これから19歳までの間専ら歌書に心を入れ熱中する。「荒木田麗女年譜」千田安子(『女子大国文』4号)参照。 [001-000]

JD2359915.5 寛延1年 (1749/2/16)
寛延1年頃 『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』を起筆とする説がある。
[Y000191-000-000]

寛延4年条参照。 [001-000]

JD2359915.5 寛延1年 (1749/2/16)
寛延1年頃 『万葉拾穂抄』を読むか。
[Y000192-000-000]

『和歌の浦』第2冊(閏10月15日条参照)に「万葉拾穂抄口訣」、また『都考抜書』第4冊(11月条参照)、『経籍』寛延1年前後と推定される記述に同集が引かれる。 [001-000]

JD2359915.5 寛延1年 (1749/2/16)
寛延1年頃 『源氏物語湖月抄』を読むか。
[Y000193-000-000]

『都考抜書』第4冊に本書からの引用があり「源氏物語湖月鈔、自初巻至夕顔巻考之畢、其末重可記別巻」(宣長全集:別1-244)と記す。『経籍』にも『源氏物語湖月抄』など関連書目が引かれる。『源氏物語覚書』で示される丁数は『源氏物語湖月抄』に従う。 [001-000]


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