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JD2360271.5 寛延3年1月1日 (1750/2/7)
寛延3年(1750)庚午 宣長21歳。勝46歳、はん19歳、親次16歳、俊11歳。(宗五郎38歳)
[Y000247-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

今井田家時代、12月離縁となる。弟親次、母の実家村田家を継ぐ。 [001-001]

JD2360271.5 寛延3年1月1日 (1750/2/7)
1月1日 両宮参拝。
[Y000248-000-000]

『(今井田)日記』「正月元日、両宮参」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360271.5 寛延3年1月1日 (1750/2/7)
1月1日頃 「年内立春」の心を歌に詠む。
[Y000249-000-000]

『石上稿』詞書「年内立春の心を読侍りける」として1首を載せる。(宣長全集:15-187)。 [001-000]

JD2360272.5 寛延3年1月2日 (1750/2/8)
1月2日 外宮参拝。
[Y000250-000-000]

『(今井田)日記』「二日、外宮参」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360273.5 寛延3年1月3日 (1750/2/9)
1月3日 両宮参拝。
[Y000251-000-000]

『(今井田)日記』「三日、両宮参」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360277.5 寛延3年1月7日 (1750/2/13)
1月7日 両宮参拝。
[Y000252-000-000]

『(今井田)日記』「七日、両宮参」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360293.5 寛延3年1月23日 (1750/3/1)
1月23日 松坂に行く。
[Y000253-000-000]

『(今井田)日記』「廿三日、松坂ニ行」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360305.5 寛延3年2月6日 (1750/3/13)
2月6日 松坂より帰る。
[Y000254-000-000]

『(今井田)日記』「六日、松坂ヨリ帰ル」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360326.5 寛延3年2月27日 (1750/4/3)
2月27日 「定家和歌」書写始か。書写の完了は5月6日である。
[Y000255-000-000]

『経籍』「○二ノ廿七 定家歌始 ○五ノ六終ル」(宣長全集:20-627)。 [001-000]

JD2360329.5 寛延3年2月 (1750/4/6)
2月 江戸に下る音碩に送別歌を贈る。
[Y000256-000-000]

『石上稿』詞書「音碩といへる僧二月の比学問のために東にくたりけるはなむけに」(宣長全集:15-187)。 [001-000]

JD2360380.5 寛延3年4月22日 (1750/5/27)
4月22日 松坂に行く。
[Y000257-000-000]

『(今井田)日記』「廿二日、松坂ニユク」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360382.5 寛延3年4月24日 (1750/5/29)
4月24日 松坂より帰る。
[Y000258-000-000]

『(今井田)日記』「廿四日、帰ル」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360393.5 寛延3年5月6日 (1750/6/9)
5月6日 「定家和歌」書写終るか。
[Y000259-000-000]

2月27日より。 [001-000]

JD2360395.5 寛延3年5月8日 (1750/6/11)
5月8日 『都考抜書』第5冊として『日本後紀』の抜き書きを始める。
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『経籍』「○五ノ八 日本後紀写始 ○十ノ六 五巻終」(宣長全集:20-627)。『都考抜書』奥書「寛延三年庚午季夏吉辰、栄貞写之、自第六巻至仲冬吉日写之畢」(宣長全集:別2-261)。 [001-000]

JD2360398.5 寛延3年5月11日 (1750/6/14)
5月11日 諦誉上人、和歌山において遷化。
[Y000261-000-000]

『(今井田)日記』「十一日、諦誉上人遷化【和歌山ニオイテ】」(宣長全集:16-20)。諦誉上人は樹敬寺の僧。宣長の五重相伝の師である。 [001-000]

JD2360406.5 寛延3年5月19日 (1750/6/22)
5月19日 義兄三四右衛門定治、江戸より松坂着。
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『(今井田)日記』「十九日、三四右衛門江戸ヨリ上著」(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360417.5 寛延3年5月 (1750/7/3)
5月末 松坂に帰るか。
[Y000263-000-000]

『石上稿』「五月の末つかた故郷のかたへまかり侍けるに月かけさやか成夜ふかく宮川を渡るとて」(宣長全集:15-188)。晦日に「月影さやか」は虚構であろうか、あるいは6月18日の夜の誤りであろうか。 [001-000]

JD2360435.5 寛延3年6月18日 (1750/7/21)
6月18日 松坂に行き、同日帰る。
[Y000264-000-000]

『(今井田)日記』「十八日、松坂ニ行、同日帰ル」(宣長全集:16-20)。江戸より帰郷中の義兄定治に会うためであろうか。もしそうであるならば、これが最後の別れとなった。想像を逞しくするならば、小津家の将来についても話されたかも知れない。 [001-000]

JD2360436.5 寛延3年6月19日 (1750/7/22)
6月19日 定治、松坂出立、江戸下向。
[Y000265-000-000]

『(今井田)日記』(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360469.5 寛延3年7月23日 (1750/8/24)
7月23日 松坂に行く。
[Y000266-000-000]

『(今井田)日記』(宣長全集:16-20)。 [001-000]

JD2360484.5 寛延3年8月8日 (1750/9/8)
8月8日 松坂より帰る。
[Y000267-000-000]

『(今井田)日記』(宣長全集:16-21)。 [001-000]

JD2360521.5 寛延3年9月16日 (1750/10/15)
9月16日 外宮参拝。
[Y000268-000-000]

『(今井田)日記』(宣長全集:16-21)。 [001-000]

JD2360523.5 寛延3年9月18日 (1750/10/17)
9月18日 荒木田麗(隆子)、参宮のため来訪した西山昌林から文才を誉められる。
[Y000269-000-000]

『神道山路次記』「それが中に、武遇の娘の隆子、とゞめばやあかぬひかりを袖の月、となむ書て出したりける。この少女なむつくバの道に志深く、きのふの会席にもつらなりて、いひ出る言の葉もたぐひなかりき。これにぞ名残おしく覚えける」西山昌林(「『三籟集』について」野間光辰『談林叢談』・P172) [001-000]

JD2360541.5 寛延3年10月6日 (1750/11/4)
10月6日 『都考抜書』第5冊への『日本後紀』抜書、巻5まで終わる。
[Y000270-000-000]

『経籍』「○五ノ八 日本後紀写始 ○十ノ六 五巻終」(宣長全集:20-627)。開始は5月8日。 [001-000]

JD2360575.5 寛延3年11月10日 (1750/12/8)
11月10日 松坂に行く。
[Y000271-000-000]

『(今井田)日記』(宣長全集:16-21)。 [001-000]

JD2360595.5 寛延3年11月 (1750/12/28)
11月 『日本後紀』巻6より巻20まで抜書終り、『都考抜書』第5冊の稿成る。
[Y000272-000-000]

5月8日条参照。 [001-000]

JD2360624.5 寛延3年12月 (1751/1/26)
12月 今井田氏を離縁となる。
[Y000273-000-000]

『日記』「同三年【庚午】十二月、今井田氏離縁【十一月十日ヨリ松坂帰居】」(宣長全集:16-7)。 [001-000]

『本居氏系図』「本家譜」「同三年庚午十二月離縁今井田家」(宣長全集:20-85)。 [002-000]

『家のむかし物語』「寛延元年には、ある人の子になりて、山田に行きて、二年あまり有しが、ねがふ心にかなはぬ事有しによりて、同三年、離縁して帰へりぬ、かく人の子となし給へる故は、そのかみ道喜君、江戸にはおはしながら、こゝにては三四右衛門と申て、此家の主にておはすればなりけり」(宣長全集:20-27)。 [003-000]

JD2360615.5 寛延3年12月20日 (1751/1/17)
12月下旬 歳暮の歌2首を詠む。
[Y000274-000-000]


「おひてのみ惜き物かは年の暮れわかきも同じ心なりけり [003-001]
年の数の身にしつもらで改る春と思はばいかにいそがむ」『石上稿』(宣長全集:15-191)。 [003-002]
離縁という重大事はあっても宣長の歌からは心境をうかがうことは出来ない。 [003-003]
JD2360624.5 寛延3年 (1751/1/26)
寛延3年 同年詠として『石上稿』に113首載せる。
[Y000275-000-000]

JD2360624.5 寛延3年 (1751/1/26)
寛延3年 弟親次、母かつの実家、松坂新町の村田家を嗣ぐ。
[Y000276-000-000]

『本居氏系図』「寛延三年庚午年出為外祖父村田孫兵衛豊商之嗣孫、改称与三兵衛、名親次、寛政七年乙卯十月十七日剃髪、号孝賢、同九年丁巳十月廿六日酉刻死、六十三歳、同廿七日葬樹敬寺」(宣長全集:20-86)。 [001-000]

『家のむかし物語』「寛延三年、外祖父村田孫兵衛、法号元固君の嗣孫となり、元固君の末女、寿讃大姉を母として、かの家をつぎ、名を与三兵衛親次と改む。」(宣長全集:20-25)。 [002-000]


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