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JD2360654.5 寛延4年1月 (1751/2/25)
寛延4・宝暦1年(1751)辛未 宣長22歳(10月17日改元)。勝47歳、はん20歳、俊12歳。(親次17歳。)
[Y000277-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

松坂での生活がまた始まる。2月、江戸の義兄定治没。3月、跡始末のために江戸に下り、7月帰郷。和歌や物語の独習が本格的になる。 [001-001]

JD2360671.5 寛延4年2月17日 (1751/3/14)
2月17日 『狭衣考物』起筆。終了は8月7日。また、この頃、『大和物語』上下2巻2冊、『狭衣物語』8冊を購求するか。
[Y000278-000-000]

『狭衣考物』に、「二月十七日、華風」、また包紙に「狭衣の物語の歌全、未八月七日、華風」とある。 [001-000]

宣長手沢本『大和物語』の挟み込み(物語登場人物一覧)末に「寛延四年二月十七日  栄貞」とある。 [002-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』には9月下旬購求と考えられる『二十一代集』の後に「一、大和物語 二 二匁、一、狭衣 八 六匁」(宣長全集:20-395)とあるが、或いは記載の前後したか。 [003-000]

JD2360682.5 寛延4年2月28日 (1751/3/25)
2月28日 義兄定治、江戸神田紺屋町宅にて没、享年40歳。法号欣誉良説道喜居士。
[Y000279-000-000]

『本居氏系図』「本家譜」「宝暦元年辛未二月道喜居士於江戸卒、因是同三月下江戸、暫留彼神田紺屋町宅、同七月自江戸帰」(宣長全集:20-85)。 [001-000]

『家のむかし物語』「かくて宝暦元年辛未二月廿八日午ノ時すぐるほどに、かの紺屋町の宅にして、四十歳にてかくれ給ひぬ、同廿九日に、本誓寺に葬、宣長手代佐七といふ者をめしぐして、江戸にくだり、件の紺屋町の宅にいたり、七月までとゞまりて、跡の事どもをとりはからひ、其宅並ニ資材等を、件の女子に属ケて、離別せし母のもとへわたしぬ、然るに此女子も、同年九月十五日に、母の許にて、五歳にてうせぬ、名はおゆらといひき、法名は浄室紅園童女」(宣長全集:20-26)。「宝暦元年、道喜君うせ給へる故に、われ家をつぎぬ、此時江戸の店は、大伝馬町なるも、堀留町なる二店も、皆すでになくなりて、道喜君、その残れる資のうち、わづかに金四百両を、隠居家孫右衛門の店に預けいれて、その年々の利息をもてわが家の産とさだめおき給へりき、すべて道喜君の世におはせしほどは、何事もそのはからひ給ふに、まかせ給へりしを云々」(宣長全集:20-28)。 [002-000]

JD2360693.5 寛延4年3月10日 (1751/4/5)
3月10日 江戸下向、手代佐七を伴い松坂出立。
[Y000280-000-000]

JD2360702.5 寛延4年3月19日 (1751/4/14)
3月19日 江戸着、神田紺屋町宅に止宿。7月まで義兄定治死去の跡始末に従う。
[Y000281-000-000]

『日記』「同四年【辛未】三月、下向東武【十日発足、十九日著江戸、神田紺屋町之宅ニ止宿ス】(宣長全集:16-7)。佐七は宝暦2年(1752)9月15日没、同9月25日条参照。 [001-000]

JD2360790.5 寛延4年6月19日 (1751/7/11)
6月19日 この日から21日まで江戸中戸を閉ざし謹慎する。吉宗危篤のためであろう。
[Y000282-000-000]

『日記』「六月十九日ヨリ廿一日マテ、江戸中戸ヲサス」(宣長全集:16-25)。 [001-000]

JD2360791.5 寛延4年6月20日 (1751/7/12)
6月20日 徳川吉宗没。享年68歳。
[Y000283-000-000]

『日記』「▲六月廿日、卯刻、源大君吉宗公薨御、御年六十八」(宣長全集:16-24)。 [001-000]

JD2360810.5 寛延4年閏6月9日 (1751/7/31)
閏6月9日 この日から厳重に謹慎。特に火の用心に厳重であった。諸職売買も9、10両日は停止した。
[Y000284-000-000]

『日記』(宣長全集:16-25)。 [001-000]

JD2360811.5 寛延4年閏6月10日 (1751/8/1)
閏6月10日 徳川吉宗葬儀。一切他出禁止。
[Y000285-000-000]

『日記』「▲閏六月十日 東叡山ニ御葬送、申下刻御出棺」(宣長全集:16-24)。 [001-000]

JD2360840.5 寛延4年7月10日 (1751/8/30)
7月10日 江戸出立、戸塚泊。宿は倉屋。
[Y000286-000-000]

『日記』「同年七月、従江戸帰本国、此刻登参富士山【別記】」(宣長全集:16-7)。 [001-000]

『日記(万覚)』「七月十日、早朝江府ヲ出ル、品川観音堂前ニ休、六郷万年屋中食、相州戸塚倉屋宿ル、ヨシ、今日晴天」(宣長全集:16-12)。 [002-000]

JD2360841.5 寛延4年7月11日 (1751/8/31)
7月11日 関本泊。
[Y000287-000-000]

『日記(万覚)』「十一日、晴天、卯刻戸塚ヲ出ル、大磯梅沢両所中食、高津ヨリ右ノ脇道ヘ入、飯澄町屋ナトヲ経テ、川ヲワタリ関本宿ル、此宿甚アシヽ」(宣長全集:16-12)。 [001-000]

JD2360842.5 寛延4年7月12日 (1751/9/1)
7月12日 駿州須走の神ノ尾伝左衛門宅に止まり、富士登山、その夜は山腹六合目の室に泊。
[Y000288-000-000]

『日記(万覚)』「十二日、夜ヲコメテ関本ヲ出ル、晴天、竹下中食、未刻、駿州須走ニツク、神尾伝左衛門宅止、餉クヒ休息シテ、七過ヨリ富士山ニ登、其夜ハ、山半腹室宿ル、六合目室也、」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2360843.5 寛延4年7月13日 (1751/9/2)
7月13日 巳ノ刻頃山上に至り、申ノ刻下山し神尾氏泊。
[Y000289-000-000]

『日記(万覚)』「十三日、晴天、早朝室ヲ出、登登テ巳刻計、山頂上至御鉢裏ト云ヲ廻ル、申刻須走下、其夜神尾氏宿ル」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』に「おのれ先年富士山にのほりて、室といふ屋に宿して、朝に日出を望むに、其影さかさまに屋根うらにさせり、四万由旬の上にあらん日の影の、下より上へさすべき理あらんやは」(宣長全集:14-166)とあるのはこの時の経験に基づくか。 [002-000]

7月13日は、食行身禄(1671〜1731)二十回目の命日。身禄は伊勢国一志郡出身で身禄同行富士講の開祖。出家前は江戸で活躍した伊勢商人である。宣長の登山も関係あるか(「食行身禄と宣長さん」中根道幸「三重文学漫歩」『教育文化会館のたより』96号)。 [003-000]

JD2360844.5 寛延4年7月14日 (1751/9/3)
7月14日 由井泊。宿はウドン屋。
[Y000290-000-000]

『日記(万覚)』「十四日、晴天、夜ヲコメテ須走ヲ立、印野、十里本ナトヲ過テ吉原ニ出、須走ヨリ九里余、吉原中食、由井ウドンヤニ宿ル、ヨシ」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2360845.5 寛延4年7月15日 (1751/9/4)
7月15日 島田泊。宿は兜屋。
[Y000291-000-000]

『日記(万覚)』「十五日、晴天、夜ヲコメテ由井ヲ出、府中中食、駿府浅間社参、申刻ヨリ大雨天、嶋田兜屋宿、大概」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2360846.5 寛延4年7月16日 (1751/9/5)
7月16日 大井川を渡り、浜松泊。清水屋。
[Y000292-000-000]

『日記(万覚)』「十六日、朝大井川ヲ渡、今日晴天、懸川中食、浜松清水屋宿ル、よし」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2360847.5 寛延4年7月17日 (1751/9/6)
7月17日 岡崎泊。宿は大津屋。
[Y000293-000-000]

『日記(万覚)』「十七日、晴天、七半時浜松ヲ出、吉田中食、岡崎大津屋宿、よし」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2360848.5 寛延4年7月18日 (1751/9/7)
7月18日 桑名泊。宿は橘屋。
[Y000294-000-000]

『日記(万覚)』「十八日、晴天、朝岡崎出、池鯉鮒中食、宮ヨキヤ休息、大概、七半時船乗、四前著岸、桑名橘屋宿ル、よし」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2360849.5 寛延4年7月19日 (1751/9/8)
7月19日 津泊。宿は亀屋。
[Y000295-000-000]

『日記(万覚)』「十九日、晴天、朝桑名ヲ立、上野丸一屋中食、津亀屋宿、大概」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2360850.5 寛延4年7月20日 (1751/9/9)
7月20日 松坂帰着。山村通庵没。享年80歳。
[Y000296-000-000]

『日記(万覚)』「廿日、晴天、午中刻松坂入【上リ入用金四両、下リ入用金三両二分】」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

『近世畸人伝』「山村通庵・松本駄堂」。通庵については、寛延1年(1748)閏10月15日条参照。 [002-000]

JD2360867.5 寛延4年8月7日 (1751/9/26)
8月7日 『狭衣考物』抄出了。
[Y000297-000-000]

2月17日条。 [001-000]

JD2360876.5 寛延4年8月16日 (1751/10/5)
8月16日 『古今集』を再度校合し、「古今集一本異付」を記す。
[Y000298-000-000]

寛延2年(1749)12月『古今集』異本校合(「古今集異本附 一本之異也」)とは別の種類の本での校合で、「是又別ニ一本之異付」と記される。奥書「右古今集一本校合して異点を記し畢ぬ、時寛延四年未八月十六日」(『新規寄贈品目録』・P145)。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』には、9月下旬購求と考えられる『二十一代集』の後に「一、古今集 二 有」(宣長全集:20-396)とあるが、関係有るか。 [002-000]

JD2360909.5 寛延4年9月20日 (1751/11/7)
9月20日 『藤原系図伝』書写する。『都考抜書』第4冊の内、「円光大師行状翼賛」の書写を始める。
[Y000299-000-000]

『系図伝』奥書「寛延四年辛未季秋廿日 本居栄貞書」。『経籍』「▲未年 ○九ノ廿日 余行状翼賛写始 十ノ十日 一冊了」(宣長全集:20-627)。 [001-000]

JD2360909.5 寛延4年9月20日 (1751/11/7)
9月下旬 「二十一代集」を購求する。
[Y000300-000-000]

二十一代集本箱に「寛延四年辛未長月下浣日」「本居栄貞」とあり、購求日と考えられる。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「一、廿一代集 廿一 金二両一分」(宣長全集:20-395)。 [002-000]

『二十一代集』は、『古今和歌集』から『新続古今和歌集』までの勅撰和歌集である。購入した本は「板元、御書物屋、出雲寺和泉掾、吉田四良右衛門、野田弥兵衛」とある本で、宣長所蔵の本の小口からは、『古今集』『後撰集』『拾遺集』の三代集と『新古今集』の繁読振りが窺える。 [003-000]

JD2360920.5 寛延4年10月1日 (1751/11/18)
10月上旬 『都考抜書』第6冊起筆する。
[Y000301-000-000]

巻首に「都考抜書 辛未初冬上旬 本居栄貞記」(宣長全集:別1-263)。内容は「円光大師行状翼賛」巻16からの抜粋。巻15までは既に『都考抜書』第4冊に書き抜きがある。 [001-000]

JD2360929.5 寛延4年10月10日 (1751/11/27)
10月10日 『都考抜書』第6冊に「円光大師行状翼賛」書写、1冊終わる。
[Y000302-000-000]

『経籍』「▲未年 ○九ノ廿日 余行状翼賛写始 十ノ十日 一冊了」(宣長全集:20-627)。 [001-000]

JD2360967.5 宝暦1年11月18日 (1752/1/4)
11月18日 お触れがあり、年号が宝暦と改まる。
[Y000303-000-000]

『日記』(宣長全集:16-24)。正式には10月17日が改元の日。 [001-000]

JD2360959.5 宝暦1年11月10日 (1751/12/27)
11月中旬 『かなつかひ』の稿成る。
[Y000304-000-000]

奥書「宝暦元年辛未仲冬中澣 本居栄貞書」。墨付31丁。編著か写本かは不明(宣長全集:5-解題18)。宣長の仮名遣いに対する関心の萌芽は、寛延1年(1748)10月15日、『和歌の浦』第2冊頃から見られる。 [001-000]

本書欄外に『和字大観抄』(文雄著・宝暦4年刊行)からの引用が10数カ所ある。 [002-000]

JD2360985.5 宝暦1年12月7日 (1752/1/22)
12月7日 『都考抜書』第6冊の内、末尾1葉を執筆する。
[Y000305-000-000]

「都考抜書 辛未十二月初七 本居栄貞集」(宣長全集:別2-297)とあり、『融通念仏縁起』『現證往生伝 上』から抜書。 [001-000]

JD2360979.5 宝暦1年12月1日 (1752/1/16)
12月上旬 『大日本天下四海画図』写し終わる。
[Y000306-000-000]

着手は延享3年(1746)5月。 [001-000]

JD2360998.5 宝暦1年12月20日 (1752/2/4)
12月下旬 『年代記』を編む。
[Y000307-000-000]

奥書「宝暦元歳次重光恊洽季冬、下浣 本居栄貞編」。墨付13丁。神武天皇以下歴代天皇統治年と干支を表示する。この年代表はその後も加筆され使用された。最終的に寛政12年(1800)までの記述がある。 [001-000]

JD2361008.5 宝暦1年 (1752/2/14)
宝暦1年 同年詠として『石上稿』に242首載せる。
[Y000308-000-000]

JD2361008.5 宝暦1年 (1752/2/14)
宝暦1年頃 同年頃までに所有した本で、『宝暦二年以後購求謄写書籍』の『二十一代集』(9月下旬購求)以後に記載されるのは次の13種。『八雲御抄』7冊、『大和物語』2冊、『狭衣物語』8冊、『春曙抄』12冊、『題林愚抄』8冊、以上購求。『和歌八重垣』3冊、『和歌手習』2冊、『歌枕秋祢覚』1冊、『和漢朗詠集』2冊、『伊勢物語』2冊、以上「有」。『古今集』2冊は「写」、『徒然草参考』8冊「有」。但し、『狭衣物語』『大和物語』『古今集』はそれ以前の入手の可能性もある。2月17日条、8月16日条参照。
[Y000309-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「一、廿一代集 廿一 金二両一分、一、八雲御抄 七 拾匁、一、大和物語 二 二匁、一、狭衣 八 六匁、一、春曙抄 十二 十匁、〆金二両二歩ト拾弐匁、一、題林愚抄 八 八匁、〆金二両三分ト四匁、一、和歌八重垣 三 有、一、和歌手習 二 有、一、歌枕秋祢覚 一 有、和漢朗詠集 二 有、伊勢物語 二 有、一、古今集 二 写、一、徒然草参考 八 有」(宣長全集:20-396) [001-000]

JD2361008.5 宝暦1年 (1752/2/14)
宝暦1年 『宝暦二年以後購求謄写書籍』を起筆か。
[Y000310-000-000]

高橋俊和は、『宝暦二年以後購求謄写書籍』は延享5年(1748)頃から安永2年(1773)までの間に宣長が購求もしくは謄写した書籍の目録とする(「『紫文要領』の成立-詩歌論としての「物のあはれ」-」『鈴屋学会報』10号)。但し、『狭衣物語』『大和物語』『二十一代集』等の入手から考えると寛延4年(1751)頃の起筆か。 [001-000]


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