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JD2361038.5 宝暦2年1月 (1752/3/15)
宝暦2年(1752)壬申 宣長23歳。勝48歳、はん21歳、しゅん13歳。(親次18歳)
[Y000311-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

1月、 外祖母の伴として上京、知恩院の御忌を拝見する。2月、帰郷。3月、医学修行のため再度上京、堀景山門に入る。『百人一首改観抄』を読み、契沖学に触れる。『和歌の浦』第5冊起筆。 [001-001]

JD2361030.5 宝暦2年1月22日 (1752/3/7)
1月22日 京都行、松坂出立、関泊。宿は酒屋。
[Y000312-000-000]

『日記(万覚)』「○宝暦二年正月上京之間記、廿二日、暁松坂ヲ出、津閻魔堂前中食、国府阿弥陀参、令開帳拝、関酒屋宿、よし」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

『日記(万覚)』割注「今度ノ上京ハ、村田元寿尼公御忌参詣ノ同道ナリ、正月廿二日ヨリ二月四日迄十三日也」(宣長全集:16-14)とあり、外祖母の知恩院御忌法要参詣の供であった事がわかる。 [002-000]

酒屋は寛延1年(1748)4月5日に宿泊した酒屋善兵衛と同じか。 [003-000]

JD2361031.5 宝暦2年1月23日 (1752/3/8)
1月23日 石部泊。宿は夷屋。
[Y000313-000-000]

『日記(万覚)』「廿三日、早朝関出、石部夷屋宿、あしゝ」(宣長全集:16-14)。 [001-000]

JD2361032.5 宝暦2年1月24日 (1752/3/9)
1月24日 入京、華頂山徳林院着、御伝供拝見。
[Y000314-000-000]

『日記(万覚)』「廿四日、夜ヲコメテ石部ヲ出、八半時京入、華頂山徳林院著、同夜丑刻ヨリ本堂参、暁御伝供アリ、拝見ス、同廻向アリ」(宣長全集:16-14)。 [001-000]

徳林院は、知恩院の塔頭。慶長年間の開基と伝える。場所は、三門と黒門の間で、南より既成院、徳林院、崇泰院と並ぶ。明治41年(1908)、知恩院三門の防火のため、真源院等と共に祇園北林に移し、既成院と合併した。(『知恩院史』・P517)。 [002-000]

JD2361033.5 宝暦2年1月25日 (1752/3/10)
1月25日 朝食後、本堂で御忌法事拝見、未刻帰る。徳林院より先斗町糸屋久右衛門宅に移り、2月1日まで逗留、洛中洛外の所々参詣。
[Y000315-000-000]

『日記(万覚)』「廿五日、朝飯後ヨリ本堂参、御忌法事拝見、未刻法儀終下向、今日八半時、徳林院ヨリ先斗町糸屋久右衛門宅移、二月朔日マデ、此所ニ逗留シテ、洛中洛外所々参詣ス」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

糸屋については寛延1年(1748)4月10日条参照。 [002-000]

JD2361038.5 宝暦2年1月 (1752/3/15)
1月 『栄貞詠草』を編む。
[Y000316-000-000]

奥書「宝暦第二歳次壬申孟春吉辰、本居栄貞自書」(宣長全集:15-200)。 [001-000]

本書は、寛延1年(1748)から宝暦1年(1752)までの4年間の詠歌を集めた編年体の歌集。 [002-000]

JD2361040.5 宝暦2年2月2日 (1752/3/17)
2月2日 京出立、伏見稲荷に参詣し、草津泊。宿は平井屋。
[Y000317-000-000]

『日記(万覚)』「二日、京ヲ出テ稲荷参、【今日初午】シル谷ヨリ越テ、山科出、大津至テ中食、【石場】草津平井屋宿、大概」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2361041.5 宝暦2年2月3日 (1752/3/18)
2月3日 坂ノ下泊。宿は酒屋。
[Y000318-000-000]

『日記(万覚)』「三日、坂下酒屋宿、よし」(宣長全集:16-13)。 [001-000]

JD2361042.5 宝暦2年2月4日 (1752/3/19)
2月4日 松坂帰着。
[Y000319-000-000]

『日記(万覚)』「四日、夜戌刻松坂入」(宣長全集:16-14)。 [001-000]

JD2361058.5 宝暦2年2月20日 (1752/4/4)
2月20日 『洛陽之図』を書写する。
[Y000320-000-000]

同図「宝暦二壬申年二月二十日、本居栄貞図」(宣長全集:別2-600)。         [001-000]

JD2361072.5 宝暦2年3月5日 (1752/4/18)
3月5日 京都遊学のため、松坂出立、坂ノ下泊。宿は酒屋。『在京日記』起筆する。
[Y000321-000-000]

「在京日記」と表題のある3冊の日記は、この日から、宝暦7年(1757)10月6日松坂帰郷までの間のことが記される。原本には切り取られたところが何箇所かある。誰の仕業か分からない。小津久足写本(現、石水博物館所蔵)には次のような奥書がある。「此在京日記三巻ハ鈴屋翁か屈景山先生にものまなひのため京にとゝまり居られしほとの日記にて、家につたへられたる自筆の外に類本なければ、もし元本のうせたる時長くたえんことをなけきてうつさせおくものなり。中に欠文とあるは元本に、あるは半丁、あるは五六行つゝきりとりたるあとあるところ也、その所々の前後の文のつゝきをおもふに、おほかたは青楼なとのことをかゝれたるものとおほしけれは、後に人のみんことをはゝかりてみつからきりとられたるなるへし。この書もとより翁のわかゝりし時の筆すさみなれはひろく人に見すへきものならねと文の勢おのつから凡をはなれたるはたふとむへし。天保十一年十二月 桂窓主人」。 [001-000]

『在京日記』「壬申○宝暦二年三月五日、曙、松坂ヲ出ル、同日坂下泊、酒屋ニ宿ル」(宣長全集:16-29)。 [002-000]

『玉勝間』巻2「おのが物まなびの有しやう」「かくてはたちあまりなりしほど、学問しにとて、京になんのぼりける、さるは十一のとし、父におくれしにあはせて、江戸にありし、家のなりはひをさへに、うしなひたりしほどにて、母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒学をもせむとてなりけり」(宣長全集:1-85)。 [003-000]

『家のむかし物語』「恵勝大姉みづから家の事をはからひ給ふに、跡つぐ弥四郎、あきなひのすぢにはうとくて、たゞ書をよむことをのみこのめば、今より後、商人となるとも、事ゆかじ、又家の資も、隠居家の店おとろへぬれば、ゆくさきうしろめたし、もしかの店、事あらんには、われら何を以てか世をわたらん、かねてその心づかひせではあるべからず、然れば弥四郎は、京にのぼりて学問をし、くすしにならむこそよからめ、とぞおぼしおきて給へりける、【すべて此恵勝大姉は、女ながら男にはまさりてこゝろはか/\しくさとくて、かゝるすぢの事も、いとかしこくぞおはしける、かくおぼしおきてたるもしるく、いくほどもなく、明和元年に、隠居家の店なくなりて、のこれる資もみな、あづかれる手代がわたくしに引こめてしかば、かのわが家の資も、朝の露とぞ消うせぬる、われもしくすしのわざをはじめざらましかば、家の産絶はてなましを、恵勝大姉のはからひは、かへすかへすも有がたくぞおぼゆる】かくて宝暦二年三月に、京にのぼりて、まづ景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす」(宣長全集:20-28)。 [004-000]

JD2361073.5 宝暦2年3月6日 (1752/4/19)
3月6日 草津泊。宿は藤屋。
[Y000322-000-000]

『在京日記』「同六日、草津泊、藤屋宿ル」(宣長全集:16-29)。 [001-000]

藤屋は延享5年(1748)4月8日、宝暦3年(1753)3月6日、享和1年(1801)6月9日にも宿泊している。 [002-000]

JD2361074.5 宝暦2年3月7日 (1752/4/20)
3月7日 入京、柳馬場三条ノ北町にある木地屋に着く。暫くの間ここを宿とする。
[Y000323-000-000]

『在京日記』「同七日、九ツ時入京、柳馬場三条ノ北町木地屋店ニ著、暫日此所ニ止宿」(宣長全集:16-29)。 [001-000]

木地屋は母の同族村田伊兵衛の店。伊兵衛は、松坂桜屋町で村田十郎兵衛不染を初代とする村田家の4代目当主。宝暦10年(1760)7月1日没。享年52。 [002-000]

JD2361080.5 宝暦2年3月13日 (1752/4/26)
3月13日 村田清兵衛、勢州下向する。
[Y000324-000-000]

『在京日記』「同十三日、清兵衛殿勢州下向」(宣長全集:16-29)。 [001-000]

清兵衛は、宣長の叔父。新町に住み、同町大年寄を勤めた。母の弟で、当時宣長の近親中最も権威のある人で、遊学中の諸事の世話をしたことは、母差出宣長宛書簡からも窺われる(『本居宣長稿本全集』・1-54)。また、宝暦4年(1754)4月晦日、同年12月6日、宝暦5年(1755)1月6日、同年3月23日、宝暦7年(1757)4月10日、同年6月29日付、清兵衛差出宣長宛書簡に詳しい。宝暦12年(1762)3月村田家の女であった先妻の二十三回忌を勤め、同13年9月18日剃髪して宗善と号し、明和4年(1767)正月には六十賀と息子の元服を行い、寛政2年(1790)11月28日没。享年83歳。 [002-000]

JD2361083.5 宝暦2年3月16日 (1752/4/29)
3月16日 藤重藤俊が同道し、綾小路室町ノ西ノ町南方住堀氏宅に行き景山に謁す。次男堀禎治(蘭沢)にも対面。同日、小津姓を閣て本居姓に復す。
[Y000325-000-000]

『在京日記』「同十六日、先生ノ許ニ行テ始テ謁ス、酒汲(吸)物出ル、藤重藤俊老同道、先生ハ堀禎助、号景山先生、綾小路室町ノ西ノ町南方ニ住ス、同時、同子息禎治殿ニモ始テ対面、今度上京巳後、予閣小津家名而用本居旧号矣」(宣長全集:16-29)。 [001-000]

藤重藤俊は、阿波藩士。医師か。宝暦3年(1753)10月3日没。享年58。後年、武川への入門に労を執ったのはその男藤伯(知定)である。 [002-000]

このような紹介者を立てたのは、宣長の商家と言う出自と関係があるか。 [003-000]

堀景山について、『本居家系図』では、「先生、姓堀、諱正超、字君燕、俗称禎助、林道春門人堀正意之後、蘭皐先生之男、代々芸州儒官也、家在綾小路室町西、禄二百石、先生、宝暦七年丁丑九月十九日没、七十歳」と記す。この年、景山65歳。 [004-000]

『家のむかし物語』「【此先生は、堀禎助と申て、先祖惺窩先生の弟子、堀正意先生より、世々安芸殿之儒士にて、禄二百石なり、宣長すなはちその綾小路室町の西なる家に寄宿する】此時より小津といひし称をやめて、むかしの本居にかへれり」(宣長全集:20-28)。 [005-000]

「堀景山略年譜」高橋俊和(『秋桜』13号)。 [006-000]

堀蘭沢については宝暦10年(1760)3月28日条参照。 [007-000]

JD2361086.5 宝暦2年3月19日 (1752/5/2)
3月19日 景山塾に移居する。
[Y000326-000-000]

『在京日記』「同十九日、移居先生許」(宣長全集:16-29)。宝暦4年(1754)10月10日、武川幸順宅に移るまでここに寄宿する。 [001-000]

『在京日記』は、この日の記事から、宝暦6年(1756)1月4日まで、漢文体となる。 [002-000]

JD2361088.5 宝暦2年3月21日 (1752/5/4)
3月21日 『易経』素読始まる。
[Y000327-000-000]

『在京日記』「同廿一日、始素読易経」(宣長全集:16-29)。景山塾では、春以後「五経」素読が行われていた。宣長は途中参加であろう。以後、『詩経』『書経』『礼記』と読み継がれた。11月26日条参照。 [001-000]

JD2361097.5 宝暦2年3月 (1752/5/13)
この頃 『百人一首改観抄』を借覧し、初めて契沖学に接する。
[Y000328-000-000]

『玉勝間』巻2「おのが物まなびの有しやう」「京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄勢語臆断などをはじめ、其外もつぎ/\に、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やう/\にわきまへさとりつ」(宣長全集:1-85)。 [001-000]

5月12日、『和歌の浦』第4冊に景山書入『勢語臆断』説を書写しているので、宣長の証言に厳密に従えばそれ以前と言うことになる。 [002-000]

JD2361099.5 宝暦2年4月2日 (1752/5/15)
4月2日 『易経』素読終わる。『詩経』の素読始まる。
[Y000329-000-000]

『在京日記』「四月二日、易終焉、同日、読始詩経」(宣長全集:16-29)。 [001-000]

JD2361125.5 宝暦2年4月28日 (1752/6/10)
4月28日 『詩経』の素読終わる。
[Y000330-000-000]

『在京日記』「詩経読畢」(宣長全集:16-29)。 [001-000]

JD2361126.5 宝暦2年4月 (1752/6/11)
4月頃 景山の旅日記『ぬさの錦』読むか。
[Y000331-000-000]

『石上稿』に読後の詠あり。詞書に「景山先生さいつころ秋の末に東より木曽路を過てみやこに帰りのほり給ふ其あいたの日記をぬさの錦となんなつけられたりけるいと興あるさまに書なせりこれをみてかへすとてよみ侍ける」(宣長全集:15-202)。 [001-000]

4月頃に読んだと言う推測の根拠は『石上稿』の配列による。 [002-000]

『和歌の浦』第4冊に引用有り(宣長全集:14-617)。但し、書き抜きは読んだ日から遅れるか。 [003-000]

「堀景山『ぬさの錦』考」高橋俊和(『鈴屋学会報』15号)参照。 [004-000]

JD2361127.5 宝暦2年5月1日 (1752/6/12)
5月1日 『書経』素読始まる。『史記』会読、式日は2、7の日。
[Y000332-000-000]

『在京日記』「五月朔日、読始書経、同日、史記会読。【式日、二七】」(宣長全集:16-29) [001-000]

会読という学習方法については、『玉勝間』巻8「こうさく、くわいどく、聞書」(宣長全集:1-240)に詳しい。 [002-000]

『史記』会読は、翌宝暦3年(1753)2月28日からは、3、8の日を式日とし翌年12月8日まで続いた。その場に景山も同席、指導していたことは『在京日記』宝暦4年(1754)12月8日条に明らかである。 [003-000]

JD2361131.5 宝暦2年5月5日 (1752/6/16)
5月5日 藤ノ森ノ祭を見る。
[Y000333-000-000]

『在京日記』「五日、行見藤森祭」(宣長全集:16-29)。 [001-000]

藤森神社(京都市伏見区深草鳥居崎町)の祭神は武神で、5月5日の祭礼の日には、武者行列、乗馬があった。この時はもちろん見学だが、京都時代宣長は藤森などでしばしば乗馬を楽しんだ。 [002-000]

JD2361132.5 宝暦2年5月6日 (1752/6/17)
5月6日 堀景山に随伴し、鞍馬山、貴船神社に参詣する。
[Y000334-000-000]

『在京日記』「六日、従先生詣鞍馬山、因参貴布祢社」(宣長全集:16-29)。 [001-000]

JD2361133.5 宝暦2年5月7日 (1752/6/18)
5月7日 『史記』会。
[Y000335-000-000]

『在京日記』「七日、史記会」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361134.5 宝暦2年5月8日 (1752/6/19)
5月8日 竹内で能を見る。
[Y000336-000-000]

『在京日記』「八日、見能於竹内」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361135.5 宝暦2年5月9日 (1752/6/20)
5月9日 『晋書』の会読。式日は4、9。『書経』の素読。上巻終る。
[Y000337-000-000]

『在京日記』「晋書会読【式日、四九】同日、書経上巻読了」(宣長全集:16-30)。下巻は10月26日始める。 [001-000]

「「晋書」という中国の歴史書は、三四世紀晋王朝を特徴づける風流曠達の人物、その伝記を中心とするのであって、荻生徂徠の尊重する書物であった。堀塾での会読のテクストも、半世紀早くの元禄年間、徂徠がみずから和点を施し、柳沢吉保に刊行させた和刻の本であったろう。そうして徂徠派の対蹠であった当時の普通の朱子学、中でも厳格の派であったあった山崎闇斎の門流などからは、聖道の敵として排斥されたであろう書物が、堀塾の課本であったことは、堀景山の学風が、朱子学を標榜しつつも、徂徠に親近であったことを示す。」「鈴舎私淑言」吉川幸次郎(『本居宣長』・筑摩書房刊・P131) [002-000]

JD2361137.5 宝暦2年5月11日 (1752/6/22)
5月11日 『礼記』の素読始まる。
[Y000338-000-000]

『在京日記』「礼記読始焉」(宣長全集:16-30)。この素読は6月4日に1冊が、また10月25日に全巻が終わった。 [001-000]

JD2361138.5 宝暦2年5月12日 (1752/6/23)
5月12日 『和歌の浦』第4冊に景山書入『勢語臆断』説を書写する。『勢語臆断』全巻書写は宝暦9年(1759)8月30日。
[Y000339-000-000]

奥書「右伊勢物語釈契冲之説、而景山先生所増益也、蓋記臆断者皆契師之解矣、其余又有彼師説乎、未詳焉、然不出於右両人説也、右ノ外、年序月日官位等ノ相違コトゴトク悉ク考ヘアリ、大概三代実録ヲ以テ勘ヘタリ、今コゝニコレヲ略スルモノナリ、壬申五月十二日、本居栄貞写」(宣長全集:14-608)。 [001-000]

『契沖全集』「契沖年譜」では、「本居宣長、堀景山蔵『伊勢物語』の契沖説(『勢語臆断』)書入を抄録す」とある。 [002-000]

JD2361139.5 宝暦2年5月13日 (1752/6/24)
5月13日 『史記』会。
[Y000340-000-000]

『在京日記』「十三日、史記会」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361140.5 宝暦2年5月14日 (1752/6/25)
5月14日 『晋書』会。
[Y000341-000-000]

『在京日記』「十四日、晋書会」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361143.5 宝暦2年5月17日 (1752/6/28)
5月17日 『史記』会の日であるが病気のため欠席する。
[Y000342-000-000]

『在京日記』「五月十七日、史記会、予依不快而不出」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361145.5 宝暦2年5月19日 (1752/6/30)
5月19日 『晋書』会の日であるが病気が平癒しないので欠席する。
[Y000343-000-000]

『在京日記』「十九日、晋書会、予不出、今日疾気漸快、然未全癒」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361149.5 宝暦2年5月23日 (1752/7/4)
5月23日 『史記』会。
[Y000344-000-000]

『在京日記』「廿三日、史記会」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361151.5 宝暦2年5月25日 (1752/7/6)
5月25日 堀蘭沢『左伝』の講釈を始める。
[Y000345-000-000]

『在京日記』「(廿五日)今日、蘭沢先生左伝講釈始」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

講釈という学習方法については、『玉勝間』巻8「こうさく、くわいどく、聞書」(宣長全集:1-240)に詳しい。 [002-000]

JD2361155.5 宝暦2年5月 (1752/7/10)
5月までに 『深秘抄』3冊、『古今栄雅抄』16冊購求か。
[Y000346-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「申ノ年○一、深秘抄 三 九匁 一、古今栄雅抄 十六 拾七匁五分」(宣長全集:20-396)。 [001-000]

「まず購入した書は『深秘抄』、『古今栄雅ノ抄』。前者は二条家頓阿流の歌の故実や雑説を記す中世の書、後者は古今集の顕昭説、定家説を取捨し、一条兼良説を加えた十六冊もの書であるが、あきたらず、六月には、定家の二著『顕注密勘』、『壁案集(僻案抄)』を買う。前者は顕昭の古今集の注に定家が意見を加えたもの、後者は三代集(古今集は六十首)の略注。要するに自学自習、定家と古今集を軸に和歌を考えようとしている。」「元日に-宣長さんの原点・古今集-」中根道幸(「三重文学漫歩」『教育文化会館のたより』134号)。 [002-000]

JD2361157.5 宝暦2年6月2日 (1752/7/12)
6月2日 『史記』会。
[Y000347-000-000]

『在京日記』「六月二日、史記会」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361159.5 宝暦2年6月4日 (1752/7/14)
6月4日 『晋書』会、『礼記』素読終わる。
[Y000348-000-000]

『在京日記』「晋書会、同日、礼記一冊畢」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361160.5 宝暦2年6月5日 (1752/7/15)
6月5日 『左伝』講釈。『顕注密勘』4冊を購求する。
[Y000349-000-000]

『在京日記』「五日、左伝講釈」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「六月五日 一 顕注密勘 四 六匁」(宣長全集:20-396)。『不尽言』に「契沖師の説に、「顕昭法師の古今の註を顕注といへり。その註に定家卿考を書加へて、密勘を作られし也。密勘の二字は、人に見すべきに非ずと云意也。是を注して密勘と名付けておかれ、外に伝授と云事あるべきにあらず。古より記録多く侍れども、定家卿の時分に伝授の沙汰なし」と云へり」(『新日本古典文学大系』・P237)と古今伝授否定の文脈で引かれる。 [002-000]

JD2361162.5 宝暦2年6月7日 (1752/7/17)
6月7日 祇園会山鉾を見る。
[Y000350-000-000]

『在京日記』「七日、於四条境町東観祇園会山鉾」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361164.5 宝暦2年6月9日 (1752/7/19)
6月9日 『晋書』会。
[Y000351-000-000]

『在京日記』「九日、晋書会」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361165.5 宝暦2年6月10日 (1752/7/20)
6月10日 四条河原で納涼。その水面に映る美しさと賑やかさに感激する。
[Y000352-000-000]

『在京日記』「十日、夜遊于四条河原、納涼之諸子続踵、燈燭映水戯鼓響空、天下無双之美観也」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361167.5 宝暦2年6月12日 (1752/7/22)
6月12日 『史記』会。
[Y000353-000-000]

『在京日記』「十二日、史記会」(宣長全集:16-30) [001-000]

JD2361169.5 宝暦2年6月14日 (1752/7/24)
6月14日 三条万里小路東で祇園会見物、夜は四条河原で納涼。
[Y000354-000-000]

『在京日記』「十四日、観祇園会於三条万里小路東矣、同夜游于四条河原」(宣長全集:16-30)。 [001-000]

JD2361170.5 宝暦2年6月15日 (1752/7/25)
6月15日 『左伝』講釈。
[Y000355-000-000]

『在京日記』「左伝講釈」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361172.5 宝暦2年6月17日 (1752/7/27)
6月17日 『史記』会。
[Y000356-000-000]

『在京日記』「十七日、史記会」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361173.5 宝暦2年6月18日 (1752/7/28)
6月18日 『晋書』会。
[Y000357-000-000]

『在京日記』「十八日、晋書会」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361175.5 宝暦2年6月20日 (1752/7/30)
6月20日 『左伝』講釈。
[Y000358-000-000]

『在京日記』「左伝講説」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361177.5 宝暦2年6月22日 (1752/8/1)
6月22日 『史記』会。
[Y000359-000-000]

『在京日記』「廿二日、史記会」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361180.5 宝暦2年6月25日 (1752/8/4)
6月25日 『晋書』会。
[Y000360-000-000]

『在京日記』「廿五日、晋書会」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361181.5 宝暦2年6月26日 (1752/8/5)
6月26日 『壁案集(僻案抄)』2冊を購求する。
[Y000361-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「廿六日 一、壁案集 二 二匁四分」(宣長全集:20-396)。本書は、藤原定家が父俊成から承けた庭訓の口伝をふまえ『古今集』『後撰集』、また自説により『拾遺集』の歌に注を加えた本。 [001-000]

JD2361182.5 宝暦2年6月27日 (1752/8/6)
6月27日 『史記』会。
[Y000362-000-000]

『在京日記』「廿七日、史記会」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361184.5 宝暦2年6月29日 (1752/8/8)
6月29日 『晋書』会。
[Y000363-000-000]

『在京日記』「廿九日、晋書会」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361185.5 宝暦2年6月30日 (1752/8/9)
6月30日 高台寺前大坂屋亭にて詩会。戒題「烏夜啼」、当座「山居」を作る。
[Y000364-000-000]

『在京日記』「詩会、戒題烏夜啼、於高台寺前大坂屋亭、当座探得山居題賦之」(宣長全集:16-31)。楽府題「烏夜啼」は李白の同名詩を踏まえて作る。『詩文稿』(宣長全集:18-3)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [001-000]

大坂屋は9月14日にも利用する。 [002-000]

JD2361187.5 宝暦2年7月2日 (1752/8/11)
7月2日 『史記』会。
[Y000365-000-000]

『在京日記』「7月2日、史記会」(宣長全集:16-31) [001-000]

JD2361190.5 宝暦2年7月5日 (1752/8/14)
7月5日 『晋書』会。以後、9月下旬再開まで中絶。
[Y000366-000-000]

『在京日記』「五日、晋書会」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361204.5 宝暦2年7月19日 (1752/8/28)
7月19日 『六家集』(拾遺、拾玉、山家、長秋、月清、壬二)8冊、『愚問賢註』1冊を購求する。
[Y000367-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「七月十九日 一、六家集(拾遺、拾玉、山家、長秋、月清、壬二)八 金二分 一、愚問賢註 一 三匁」(宣長全集:20-396)。 [001-000]

『愚問賢註』は頓阿著の歌論書。『不尽言』に「和歌の道の極意は、古今の序に言を尽くし、その外よみ方心持は詠歌大概、又は八雲御抄「用意」の部、頓阿法師の愚問賢註にて、何の伝授もいらぬ事と思はるゝ也」(『新日本古典文学大系』・P234)。因みに『詠歌大概』は寛延2年(1749)に書写済みであり、宝暦6年(1756)3月6日に、改めて購入している。 [002-000]

JD2361208.5 宝暦2年7月23日 (1752/9/1)
7月23日 村田伊兵衛、上京する。
[Y000368-000-000]

『在京日記』「廿三日、村田伊兵衛上京」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361215.5 宝暦2年8月1日 (1752/9/8)
8月1日 堀蘭沢先生の室が安産、男子出生する。
[Y000369-000-000]

『在京日記』「八月朔日、夜寅時、蘭沢先生室安産、男子出生」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361218.5 宝暦2年8月4日 (1752/9/11)
8月4日 1日に生まれたばかりの蘭沢の子が死去する。
[Y000370-000-000]

『在京日記』「同四日、小児死」(宣長全集:16-31)。 [001-000]

JD2361225.5 宝暦2年8月11日 (1752/9/18)
8月11日 堀蘭沢室も産後の肥立ち悪く子の後を追う。享年21歳。
[Y000371-000-000]

『在京日記』「同十一日、巳刻産婦卒、年二十一、自胎前病痾也」(宣長全集:16-31)。蘭沢は宝暦4年(1754)5月1日再婚した。 [001-000]

JD2361226.5 宝暦2年8月12日 (1752/9/19)
8月12日 南禅寺帰雲院にて堀蘭沢妻と子の葬儀。
[Y000372-000-000]

『在京日記』「同十二日、未刻土葬于南禅寺帰雲院、導師天授庵」(宣長全集:16-31) [001-000]

JD2361249.5 宝暦2年9月6日 (1752/10/12)
9月6日 堀蘭沢、藤重藤伯と伏見大亀谷即成院、泉湧寺参詣、藤森馬場にて乗馬して帰る。
[Y000373-000-000]

『在京日記』「六日、予与蘭沢先生、藤重藤伯、詣伏見大亀谷即成院、(中略)今日嘗参泉湧寺、拝見御殿矣、以藤俊与彼院家安楽光院知音之縁故也、然後藤森馬場騎馬而還矣、(後略)」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361257.5 宝暦2年9月14日 (1752/10/20)
9月14日 堀蘭沢、藤重藤伯、横関斎、福永源兵衛、井上伊四郎等と大坂屋に参会。
[Y000374-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-32)。 [001-000]

横関斎、姓横関、号斎。名嗣忠。有賀氏歌会にも参加(宝暦6年12月17日条)、また宝暦4年(1754)3月頃には自宅で歌会も開いたようである(宣長全集:15-218)。 [002-000]

伊四郎は『在京日記』に「伊上」とあるが「井上」の誤りか。宝暦3年(1753)9月某日、景山送別会の記事には「井上伊四郎」と見える。 [003-000]

大坂屋は6月30日条参照。 [004-000]

JD2361263.5 宝暦2年9月20日 (1752/10/26)
9月20日 『晋書』会が再び始まる。
[Y000375-000-000]

『在京日記』「会、晋書読、自七月上旬至今中絶、今日更始」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361265.5 宝暦2年9月22日 (1752/10/28)
9月22日 『史記』会。和歌を習うため、新玉津嶋社司森河章尹に入門する。この日、挨拶に行くが不在のため子息に会う。帰路、対面する。
[Y000376-000-000]

『在京日記』「史記会、今日為新玉津嶋社司森河津嶋守藤原章尹之門弟、学和歌、之彼宅対面于子息主馬章信矣、章尹者他出、故不見而還、遇章尹於途中矣」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

森河章尹は、寛文10年(1670)6月18日生。若い時から新玉津嶋社司であった北村季吟に学び、同社に奉仕、元文5年(1740)11月24日正六位下に叙せられ、寛延1年(1748)12月26日対嶋守に任じ、宝暦12年(1762)10月22日(筑摩版全集補注では6月18日)卒。享年93歳。(『文学遺跡巡礼 国学篇第二輯』・P186)。 [002-000]

JD2361266.5 宝暦2年9月23日 (1752/10/29)
9月23日 村田伊兵衛内室上京する。
[Y000377-000-000]

『在京日記』「廿三日、村田伊兵衛内室上京」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361268.5 宝暦2年9月25日 (1752/10/31)
9月25日 『晋書』会。母勝書状到着。佐七郎の死を知らせる。
[Y000378-000-000]

『在京日記』「廿五日、晋書会、今日母君之書到来、今月十五日、平生村佐七郎死之由」(宣長全集:16-32)。平生は松坂郊外の漁村。佐七郎は江戸堀留町にあった宣長の家の烟草店の4代目支配人。宝暦1年(1752)3月の江戸下向に同行。 [001-000]

JD2361270.5 宝暦2年9月27日 (1752/11/2)
9月27日 『史記』会「世家」が終る。
[Y000379-000-000]

『在京日記』「廿七日、史記会、世家終」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361272.5 宝暦2年9月29日 (1752/11/4)
9月29日 『晋書』会。
[Y000380-000-000]

『在京日記』「廿九日、晋書会」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361272.5 宝暦2年9月29日 (1752/11/4)
9月29日 村田清兵衛上京する。
[Y000381-000-000]

『在京日記』「(廿九日)今日、村田清兵衛上京」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361275.5 宝暦2年10月2日 (1752/11/7)
10月2日 『史記』会。
[Y000382-000-000]

『在京日記』「十月二日、史記会」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361276.5 宝暦2年10月3日 (1752/11/8)
10月3日 堀蘭沢、藤重藤伯と栂尾、槙尾、高尾に紅葉を見て、和歌を詠む。
[Y000383-000-000]

『在京日記』「三日、与貞次、藤伯行栂尾、槙尾、高尾、観紅葉、詠和歌矣」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361278.5 宝暦2年10月5日 (1752/11/10)
10月5日 『晋書』会。
[Y000384-000-000]

『在京日記』「五日、晋書会」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

JD2361280.5 宝暦2年10月7日 (1752/11/12)
10月7日 京都東本国寺山法華寺にて詩会。戒題「長安月」、当座「禅庵」、参会者、堀景山、堀蘭沢、山田孟明、要人、源兵衛、弁治、僧大室等。
[Y000385-000-000]

『在京日記』「於京東本国寺山法華寺詩会、戒題長安月、予賦之矣、当座探得禅庵題而又賦之矣、先生及貞次、周蔵、要人、源兵衛、弁治、僧大室等参会集矣」(宣長全集:16-32)。 [001-000]

『詩文稿』(18-5・18-3)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [002-000]

要人、源兵衛、弁治、僧大室については不詳。 [003-000]

JD2361282.5 宝暦2年10月9日 (1752/11/14)
10月9日 芝居見物。演目は中村富十郎の「和田合戦女舞鶴」。『竹取物語』2冊、『題林抄』2冊、『職人尽歌合』3冊、『曽根好忠集』1冊を購求する。
[Y000386-000-000]

『在京日記』「九日、観芝居、【北側】狂言和田合戦女舞鶴也、中村富十郎将下向江戸矣、故為暇乞、至末有道成寺之芸矣」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

宣長は芝居に関心があった。京都遊学以前では、延享5年(1748)4月11日、北側で芝居を見物したとある(『日記(万覚)』)が、『在京日記』で見る限り、この日が上京後最初の芝居見物である。また、この直前の9月2日には、「四条河東北方西芝居騒動」という簡略な芝居の噂が記される。 [002-000]

『在京日記』に見える芝居関係記事は次の通りである。(見物した記事には「見」を、また、噂を記したような記事には「噂」を付した。) [002-001]

「噂」宝暦2年(1752)9月2日「四条河東北方西芝居騒動」。 [003-000]

「見」同10月9日「観芝居、【北側】狂言和田合戦女舞鶴也(下略)」。 [003-001]
「見」同12月5日「観芝居」。 [003-002]
「噂」宝暦4年(1754)10月20日「自廿日、於嶋原廓中有戯場」。 [003-003]
「噂」同11月9日「今年、四条河東南北二戯場甚不栄、而独竹本筑後者戯場大振矣(下略)」。 [003-004]
「噂」宝暦6年(1756)1月5日「北かわ、南かわ芝居、二日よりはしめ侍るよし(下略)」。 [003-005]
「噂」同北側芝居「愛護稚名歌閧」を入れた孟明の漢詩を紹介する。 [003-006]
「噂」同1月24日頃「此ころより、筑後か芝居もはしめ侍るとそ(下略)」。 [003-007]
「噂」同7月15日「十五日より、芝居も、三軒共に盆狂言始めけるよし、いとあつかんめり」。 [003-008]
「噂」同8月9日「芝居南かわいとはやるとかや、夏の比よりいまに夏祭難波鑑をし侍るか、いとよく出来るよし、ことしは此芝居には、はか/\しき役者もなきに、かくつゝきてあたり侍るは、いかなることにや、はかりかたきもの也、北かわには、かの去ぬるころ頂妙寺新地にて遊女をころせしことをつくりてし侍るか、はやり侍らす、此ころかへ侍るよし、筑後か芝居は、小野道風青柳硯をし侍るか、道具立なといとよきとかや、政大夫なと申者の、登りてかたり侍る也」。 [003-009]
「見」同10月7日、北側でかわり狂言のしくみ見る。 [003-010]
「噂」同10月25日「顔見せまへとて、芝居のわたりはかこひしわたし、かんはん出し、いとにきはし(下略)」。 [003-011]
「噂」同11月1日「けふより南かわの芝居、かほみせ始り侍る、いとはやくみな人ゆくめり、女児なとは、夜もいねすにこしらへて、夜のうちより出侍るめる、すへて此顔見せといふ物は、一陽来復の心地して、見にゆかねといといさましくよき物なり(下略)」。 [003-012]
「噂」同11月13日、南側顔見せ評判、4、5日前から言っても席が取れない。不景気と言ってもさほどではないかと感想を述べる。 [003-013]
「見」同11月23日、南側で芝居見物。 [003-014]
「噂」同閏11月1日「朔日より北側かほ顔見せ始め侍る」。 [003-015]
「噂」同閏11月4日「四日より筑後か芝居も始めける、北側評判聞えす」。 [003-016]
「噂」宝暦7年(1757)1月15日「十五日より、北南の芝居、二区ともにけふよりはしめける、筑後か芝居も、つゝきてやかてはしまりぬ、いつれも/\にきはしきこと也」。 [003-017]
「見」同1月25日、筑後の小屋で「国性爺合戦」を見る。 [003-018]
「見」同2月3日、北側で「傾城月待山」を見る。 [003-019]

これ以外にも見物していたことは、たとえば宝暦6年(1756)11月23日の条に、芝居は去年の顔見せ以来と書かれているのに、{宝暦5年}11月頃に見物記事は見出せない事からも窺える。 [004-000]

『在京日記』に出る芝居小屋は、中之町(今の東山区四条通大和大路西入)の3軒で、南と北が歌舞伎、また竹本筑後の人形浄瑠璃が1軒あった。当時の京都の芝居の様子について守屋毅著『近世藝能興行史の研究』昭和60年(1985)刊から引く。 [005-000]

宝暦にはいると「近年京芝居甚だ不繁昌」(『役者刪家系』宝暦5年刊)の様相は、誰の目にも明らかとなっていたのである。「近年、歌舞伎芝居ハ如何してか、京都ばかり不景気にして、別して此一両年。取替へ引替へ狂言出せども、諸人の愛敬すくなく、僅か二軒の芝居が、替り目ごとに休、一年中休むにかかって、狂言する間何日程あったと指を折って数へる間遠な噂。霜月朔日になれども、顔見世の沙汰は出来ぬげな出来ぬげな。」(同上)との風聞がささやかれた。宝暦5年(1755)の京都の興行界は、いわゆる三芝居鼎立の時期にあたっていたが、「僅か二軒の芝居」云々とみえるように、歌舞伎を上演する芝居小屋はそのうち二軒であった。しかもその二軒すら、維持が困難になっていたというのである。他の一軒は人形浄瑠璃の小屋で、通称「筑後の芝居」である。宝暦3年(1753)に大坂の竹本筑後椽座が上京して興行を打ったのを機に、以来、同座の京都における定芝居としていたものであった。(P342) [006-000]

また、『歌舞伎年表』でも『役者刪家系』(『役者刪家系』宝暦5年刊)3冊から同じ記事を引用し京歌舞伎の不評を伝える。 [007-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十月九日 一、竹取物語 二 二匁三分同、一 題林抄 二 二匁二分 同、一、職人尽歌合 三 三匁二分 同 一、曽祢好忠集 一 一匁」(宣長全集:20-396) [008-000]

JD2361284.5 宝暦2年10月11日 (1752/11/16)
10月11日 『史記』会。
[Y000387-000-000]

『在京日記』「同十一日、史記会」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361285.5 宝暦2年10月12日 (1752/11/17)
10月12日 『住吉物語』2冊、『うつほ物語』3冊を購求する。
[Y000388-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「同十二日 一、住吉物語 二 二匁二分、同 一、うつほ物語 三 二匁七分」(宣長全集:20-396)。『住吉物語』は宣長手沢本として伝存する本であろう。『宇津保物語』は俊蔭巻だけの3冊本であろうか。伝存しない。 [001-000]

JD2361286.5 宝暦2年10月13日 (1752/11/18)
10月13日 新玉津嶋社和歌月次会に出席。兼題林下時雨等の題で詠む。
[Y000389-000-000]

『在京日記』「新玉津嶋社和歌月次会、兼題林下時雨【冷泉家出題】詠之、当座探得杜郭公詠之、且五条入道俊成卿手向和歌、毎月晦日、兼題今月寒草也、是又詠之矣」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

『石上稿』に同日の詠あり(宣長全集:15-209)。 [002-000]

JD2361287.5 宝暦2年10月14日 (1752/11/19)
10月14日 『晋書』会。
[Y000390-000-000]

『在京日記』「十五[四]日、史記[晋書]会」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361289.5 宝暦2年10月16日 (1752/11/21)
10月16日 藤森にて乗馬、東福寺通天橋に紅葉を見る。
[Y000391-000-000]

『在京日記』「十六日、遊于藤森而乗馬矣、東福寺通天橋観紅葉而還焉」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361290.5 宝暦2年10月17日 (1752/11/22)
10月17日 『史記』会。
[Y000392-000-000]

『在京日記』「史記会読」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361291.5 宝暦2年10月18日 (1752/11/23)
10月18日 『帚木抄』(『雨夜談抄』)を書写する。校合は同月20日。
[Y000393-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「廿日 一、帚木抄 一 写」(宣長全集:20-396)。 [001-000]

奥書「右源氏物語、帚木巻別抄、如本不違一字、書写之畢、蓋伝写之誤、且(原本「旦」?)仮名之相違等間々不少、重而得正本、以可令校合者也、宝暦二年壬申神無月十八日、同廿日校合、本居栄貞写」。 [002-000]

JD2361292.5 宝暦2年10月19日 (1752/11/24)
10月19日 『晋書』会。
[Y000394-000-000]

『在京日記』「十九日、晋書会」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361293.5 宝暦2年10月20日 (1752/11/25)
10月20日 書写した『帚木抄』(『雨夜談抄』)を校合する。
[Y000395-000-000]

10月18日条参照。 [001-000]

JD2361294.5 宝暦2年10月21日 (1752/11/26)
10月21日 夕方 吉田龍元宅にて和歌稽古会。
[Y000396-000-000]

『在京日記』「廿一日、夕於吉田龍元宅和歌稽古会」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

『石上稿』に「吉田龍元宅にて当座七首 十月廿一日夕」として収める(宣長全集:15-210)。吉田龍元については不詳。新玉津嶋社和歌月次会のメンバーだろうか。 [002-000]

JD2361295.5 宝暦2年10月22日 (1752/11/27)
10月22日 『史記』会。
[Y000397-000-000]

『在京日記』「廿二日、史記会」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361296.5 宝暦2年10月23日 (1752/11/28)
10月23日 堀景山、大坂に下向する。帰宅は同月27日。
[Y000398-000-000]

『在京日記』「先生下向大坂」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361298.5 宝暦2年10月25日 (1752/11/30)
10月25日 梅宮にて乗馬。5月11日に開始した『礼記』の素読が終る。
[Y000399-000-000]

『在京日記』「廿五日、行于梅宮而乗馬、同日礼記素読終」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361299.5 宝暦2年10月26日 (1752/12/1)
10月26日 『書経』下巻の素読始まる。
[Y000400-000-000]

『在京日記』「書経下冊読始」(宣長全集:16-33)。上巻は5月9日終わる。 [001-000]

JD2361300.5 宝暦2年10月27日 (1752/12/2)
10月27日 大坂に下向(同月23日)した堀景山が帰宅する。
[Y000401-000-000]

『在京日記』「廿七日、先生帰京」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361302.5 宝暦2年10月29日 (1752/12/4)
10月29日 『晋書』会。
[Y000402-000-000]

『在京日記』「廿九日、晋書会」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361305.5 宝暦2年11月2日 (1752/12/7)
11月2日 『史記』会。
[Y000403-000-000]

『在京日記』「十一月二日、史記会」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361307.5 宝暦2年11月4日 (1752/12/9)
11月4日 『晋書』会の日であるが風邪のため欠席する。
[Y000404-000-000]

『在京日記』「四日、晋書会、予為風邪所奸疾、故不与矣」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361310.5 宝暦2年11月7日 (1752/12/12)
11月7日 『史記』会の日であるが風邪のため欠席する。
[Y000405-000-000]

『在京日記』「史記会、予不出」(宣長全集:16-33)。 [001-000]

JD2361316.5 宝暦2年11月13日 (1752/12/18)
11月13日 新玉津嶋社和歌月次会を風邪のため欠席する。『史記』会は出るか。
[Y000406-000-000]

『在京日記』「十三日、新玉津嶋社和歌月次会、予不出、同日史記会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠あり。歌題は、兼題「逐日雪深」「俊成卿手向」(宣長全集:15-211)。 [002-000]

JD2361320.5 宝暦2年11月17日 (1752/12/22)
11月17日 『史記』会。
[Y000407-000-000]

『在京日記』「十七日、史記会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361324.5 宝暦2年11月21日 (1752/12/26)
11月21日 『万葉代匠記』惣釈の中の『枕詞抄』を写し、奥書で「嗚呼、恨ムラクハ未ダ代匠記全篇ヲ見ズ」と嘆く。
[Y000408-000-000]

奥書「右枕詞抄一冊、契沖所釈也、〈其〉為説也、多是佳焉、故書写之也、抄中以朱圏点者、蓋樋口氏所考加也、嗚呼恨未見代匠記全篇矣、宝暦二年壬申霜月二十一日夜書于燈火、神風伊勢意須比飯高、華風子本居栄貞」。寛延2年(1749)9月22日より使用した「華風」号の最後の使用例である。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「一、枕詞抄 一 写」(宣長全集:20-396)。 [002-000]

『契沖全集』「契沖年譜」では、「本居宣長、『枕詞抄』(『万葉代匠記』初稿本惣釈枕詞)樋口宗武本を写す」とある。 [003-000]

「意須比」は飯高に係る枕詞。『古事記伝』巻11に淤須比遠母は意須比と通うとして、「倭姫命世記に、意須比飯高国とあるは、食器に物を盛を、余曽布とも意曽布とも云、その言にて、意曽比たる飯高しと云意の、枕詞なれば、此とは異なり、されど事の意は、本は一ツにおつめり、此ノ意須比を儀式帳には、忍とあるは、比ノ字の後に脱たるなるべし、強てよまば、忍ノ一字をもオスヒと訓べし」と記す(宣長全集:9-473)。 [004-000]

宝暦7年(1757)5月9日、所蔵する『万葉集』に、堀景山手沢本に記された契沖の説を書き写した時、宣長は「不待代匠記而明焉者也」と記した。結局、『万葉代匠記』全巻を読みたいという望みは京都遊学中に果たされることはなかったのである。全巻を見たのは安永5年(1776)頃か。同年5月6日条参照。 [005-000]

JD2361326.5 宝暦2年11月23日 (1752/12/28)
11月23日 『史記』会。夜、大宮通り四条で火災。
[Y000409-000-000]

『在京日記』「廿三日、史記会」「往廿三日夜、大宮通四条之南西側火事」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361327.5 宝暦2年11月24日 (1752/12/29)
11月24日 堀蘭沢、山田孟明、藤重藤伯、要人、中川升平、高木理兵衛と壬生東房で詩会。
[Y000410-000-000]

『在京日記』「廿四日、与貞次、周蔵、藤伯、要人、中川升平、高木理兵衛、集会壬生東房矣」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

12月23日の条に「於壬生詩会」と有るので、この日も同じく詩会か。 [002-000]

中川升平。宝暦4年(1754)11月6日から中川宅で『歴史綱鑑』の会読を行っている。 [003-000]

高木利兵衛は、寛政6年(1794)閏11月25日、和歌山からの帰途、大坂で訪ねた紙屋高木利兵衛と同一人とする説があるが、『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』以後に登場する蔵書家高木についての記載の仕方は京都時代の友人とは思えない節もある。再考を要す。 [004-000]

JD2361329.5 宝暦2年11月26日 (1752/12/31)
11月26日 夜『晋書』会。『左伝』素読を始める。
[Y000411-000-000]

『在京日記』「廿六日、夜晋書会」、また27日の条に続けて「廿六日、左伝素読始、先是書経読畢、自今春至今月、乃五経素読既終」(宣長全集:16-34)とある。 [001-000]

五経は、『易経』(『周易』)、『書経』(『尚書』)、『詩経』、『礼』(『儀礼』、後に『礼記』)、『春秋』。『春秋』以外は今井田時代正住院で既に一度素読を終えている。寛延2年(1749)10月2日条参照。 [002-000]

『左伝』について、『日記』には「始」と記し、「乃五経素読既終」と合わないとするが、「五経」素読の場合は『春秋左氏伝』でなく『春秋』そのものであろう。ここでは春からの五経素読が終わったが、上京前の宣長が参加できなかった『春秋』に替えて『左伝』を一人で読み始めたと、一応解釈しておく。 [003-000]

JD2361330.5 宝暦2年11月27日 (1753/1/1)
11月27日 『史記』会。
[Y000412-000-000]

『在京日記』「廿七日、史記会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361332.5 宝暦2年11月29日 (1753/1/3)
11月29日夜 『晋書』会。
[Y000413-000-000]

『在京日記』「廿九日、夜晋書会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361332.5 宝暦2年11月29日 (1753/1/3)
11月 「五経」素読既に終わる。
[Y000414-000-000]

11月26日参照。 [001-000]

JD2361332.5 宝暦2年11月 (1753/1/3)
中冬頃 和歌の師への不満を歌に詠む。
[Y000415-000-000]

『石上稿』「年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉もはか/\しくよしあし見わくる人もなき事をうらみて同し題(浦千鳥)にておもひをのへ侍りける/和歌浦たちよるかたを浪間にそ夜半の千鳥の鳴あかすなる/浜千鳥鳴こそあかせ和歌の浦やたつらんかたもなみのよる/\」(宣長全集:15-210)。 [001-000]

JD2361333.5 宝暦2年12月1日 (1753/1/4)
12月1日 新玉津嶋歌会。
[Y000416-000-000]

『在京日記』「往朔日、新玉津嶋歌会」(16-34・12月4日条)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠あり。歌題は、兼題「家々歳暮」、「俊成卿手向」、当座「谷松年久」(宣長全集:15-211)。 [002-000]

JD2361334.5 宝暦2年12月2日 (1753/1/5)
12月2日 『史記』会。
[Y000417-000-000]

『在京日記』「十二月二日、史記会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361336.5 宝暦2年12月4日 (1753/1/7)
12月4日夜 『晋書』会。
[Y000418-000-000]

『在京日記』「四日、夜晋書会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361337.5 宝暦2年12月5日 (1753/1/8)
12月5日 芝居見物。
[Y000419-000-000]

『在京日記』「五日、観芝居」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361339.5 宝暦2年12月7日 (1753/1/10)
12月7日 『史記』会。
[Y000420-000-000]

『在京日記』「七日、史記会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361344.5 宝暦2年12月12日 (1753/1/15)
12月12日夕 『晋書』会。
[Y000421-000-000]

『在京日記』「十二日、夕晋書会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361351.5 宝暦2年12月19日 (1753/1/22)
12月19日夕 『晋書』会。
[Y000422-000-000]

『在京日記』「十九日、夕晋書会」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

JD2361355.5 宝暦2年12月23日 (1753/1/26)
12月23日 壬生にて詩会、戒題「游仙曲」。
[Y000423-000-000]

『在京日記』「廿三日、於壬生詩会、戒題游仙曲、予賦之矣」(宣長全集:16-34)。 [001-000]

『詩文稿』(宣長全集:18-5)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [002-000]

JD2361274.5 宝暦2年10月1日 (1752/11/6)
宝暦2年冬 『和歌の浦』第5冊を起稿する。
[Y000424-000-000]

巻首「和歌浦、宝暦壬申冬、本居栄貞識」。『毛詩正義序』より詩についての条の書写に始まり、『新撰六帖』からの引用で終わる。因みに、『新撰六帖』は宝暦11年(1761)6月購求。全集未載のため、書誌を載せる。外題「和哥の浦」、内題「和歌浦」。丁数100丁。寸法22・9×16・2糎。 [001-000]

『和歌の浦』という題のため、本居宣長記念館所蔵の同名書と一括して考えてしまうが、むしろ本としての印象としては『本居宣長随筆』に近い。既存の『和歌の浦』はその性格としてはメモ帳であり、一方『本居宣長随筆』はノートである。この第5冊は、装丁が袋綴冊子として表紙を具備し、紙数も百を数え、用紙も『本居宣長随筆』第2冊と同一の罫紙が使用されている。またその内容は、メモではなく筆写を中心とする。従って和歌を対象とすると言う点からは既存の『和歌の浦』、冊子形態や筆写態度からは『本居宣長随筆』と両方に関係づける事が出来よう。 [002-000]

巻頭より20丁までは、『毛詩正義序』『詩譜序』『新撰和歌序』など和漢の詩歌集序、つまり詩歌論の抜き書きであり、23歳の冬にはかなり系統的に和歌論を考えていたことが分かる。 [003-000]

以後の宣長著述に現れる表現との類似する箇所が散見する。例えば『滄浪詩話』「○詩之是非不必争、試以己詩置之古人詩中与識者観之而不能弁則真古人矣」(24丁オ)は、『国歌八論斥非再評の評』「試ニ予ガヨメル万葉風ノ歌ヲ万葉歌ノ中ヘヒソカニマジヘテ見センニ、此ノ再評者決シテ弁スル事アタハジ」(宣長全集:2-512)を彷彿とさせる一文である。契沖についての評価で「太古ノ万葉集ヲ準縄ニシテ後ノ哥ヲ議スルハイカム杜預ニ左伝ノ癖アリ契沖ニ万葉ノ癖アリ契沖ハ歌学ノ達人トイフヘシ歌道ノ達人トハイフヘカラサルカ」(28丁オ)は、『排蘆小船』「契沖ヲイハハ、学問ハ申スニヲヨハズ古今独歩ナリ、歌ノ道ノ味ヲシル事、又凡人ノ及ハヌ所、歌道ノマコトノ処ヲミツケタルハ契沖也、サレハ沖ハ歌道ニ達シテ、歌ヲエヨマヌ人也」(宣長全集:2-56)との関連も当然考えられるべきであろう。 [004-000]

本書の伝来過程は全く分からないが、『玉勝間』巻10に本書より引いた記事が載り、その後に「詩の事いへるから人の詞一ツ二ツ」に「わかゝりしほど、かうやうのからぶみどもをも、いさゝか見たりしなかに、おかしとおぼゆるふしぶし、ぬき出て書おきつるが、もののそこにのこれるを、引出て見れば、今もおかしきことどものまじれるを、ひとつ二つ又ぬき出つる也」(宣長全集:1-302)とあり、少なくともその時点までは宣長の手元にあったことは明らかである。 [005-000]

「「和歌の浦」考-「和歌の浦」第五冊の紹介を兼ねて-」高倉一紀(『ビブリア』109号)。 [006-000]

JD2361362.5 宝暦2年 (1753/2/2)
宝暦2年 同年詠として『石上稿』に354首載せる。
[Y000425-000-000]

『石上稿』「以上壬申詠総三百五十四首」(宣長全集:15-212)。 [001-000]


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