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JD2361392.5 宝暦3年1月 (1753/3/4)
宝暦3年(1753)癸酉 宣長24歳。勝49歳、はん22歳、しゅん14歳。
[Y000426-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

在京2年目。堀景山門に草深謙光寄宿。3月、帰省。5月、上京。7月、堀元厚に入門、医学を学ぶ。9月、弥四郎を健蔵と改む。 [001-001]

JD2361375.5 宝暦3年1月13日 (1753/2/15)
1月13日 新玉津嶋和歌会の日であるが欠席する。
[Y000427-000-000]

『在京日記』「十三日、新玉津嶋和歌会、兼題江上春興多、予不参」(宣長全集:16-35) [001-000]

『石上稿』(宣長全集:15-215)に当日の詠有り。 [002-000]

JD2361384.5 宝暦3年1月22日 (1753/2/24)
1月22日 景山塾開始、『史記』会。
[Y000428-000-000]

『在京日記』「廿二日、会始、史記読」(宣長全集:16-35)。原本「十二」を「廿二」と改める。 [001-000]

JD2361386.5 宝暦3年1月24日 (1753/2/26)
1月24日 『晋書』会。
[Y000429-000-000]

『在京日記』「廿四日、晋書会」(宣長全集:16-35) [001-000]

JD2361389.5 宝暦3年1月27日 (1753/3/1)
1月27日 『史記』会。
[Y000430-000-000]

JD2361392.5 宝暦3年1月 (1753/3/4)
春 百首和歌詠。
[Y000431-000-000]

『鈴屋百首歌』第1冊所収。巻首「宝暦三年癸酉春、詠百首和歌、清原栄貞」(宣長全集:18-105) [001-000]

『在京日記』「二十七日、史記会」(宣長全集:16-35) [002-000]

JD2361394.5 宝暦3年2月2日 (1753/3/6)
2月2日 『史記』会。『土佐日記抄』2冊を購求する。
[Y000432-000-000]

『在京日記』「二月二日、史記会」(宣長全集:16-35) [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「二月二日 一、土佐日記抄 二 二匁八分」(宣長全集:20-396) [002-000]

『宣長校合土左日記抄【本居宣長記念館蔵】』大杉光生編著(和泉書院刊)の解説は、本書に人見ト幽著『土佐日記附註』説が書き入れられ、また『土佐日記附註』が『本居宣長随筆』第2冊冒頭の「王維詩集曰」「林道春作安倍仲麻呂伝曰」2項目の出典であることを指摘する。 [003-000]

JD2361396.5 宝暦3年2月4日 (1753/3/8)
2月4日 夜、『晋書』会。
[Y000433-000-000]

『在京日記』「四日、夜晋書会」(宣長全集:16-35)。 [001-000]

JD2361399.5 宝暦3年2月7日 (1753/3/11)
2月7日 『史記』会。
[Y000434-000-000]

『在京日記』「七日、史記会」(宣長全集:16-35)。 [001-000]

JD2361401.5 宝暦3年2月9日 (1753/3/13)
2月9日 夜、『晋書』会。
[Y000435-000-000]

『在京日記』「九日、夜晋書会」(宣長全集:16-35)。 [001-000]

JD2361403.5 宝暦3年2月11日 (1753/3/15)
2月11日 藤森にて乗馬、小栗栖野に梅花を見る。同行したのは堀蘭沢、藤重藤伯、井上伊四郎。
[Y000436-000-000]

『在京日記』「十一日、遊于藤森乗馬矣、観小栗栖野之梅花矣、同行、貞次、藤伯、伊四郎」(宣長全集:16-35)。 [001-000]

JD2361404.5 宝暦3年2月12日 (1753/3/16)
2月12日 『史記』会。
[Y000437-000-000]

『在京日記』「十二日、史記会」(宣長全集:16-35)。 [001-000]

JD2361405.5 宝暦3年2月13日 (1753/3/17)
2月13日 新玉津嶋月次和歌会。
[Y000438-000-000]

『在京日記』「十三日、新玉津嶋社月次和歌会、兼題、尋花、俊成卿手向、春述懐、当座、寄雨恋、朝霜、皆詠之」(宣長全集:16-35)。 [001-000]

『石上稿』(宣長全集:15-213)に当日の詠有り。但し、俊成卿手向については詞書に「同晦日俊成卿手向、春述懐」と有り。 [002-000]

JD2361406.5 宝暦3年2月14日 (1753/3/18)
2月14日 草深丹立(謙光)、景山塾に寄宿する。
[Y000439-000-000]

『在京日記』「十四日、艸深丹立寄宿」(16-35・2月17日条)。 [001-000]

草深丹立、名は謙光、丹立は通称、玄周、玄鑑、玄弘とも。号敬所。津藤堂藩医草深玄弘の長男。この年12月2日、一旦帰郷。翌年2月18日再上京。安永1年(1772)6月、父の死去に伴い家督相続。禄200石。享保20年(1735)生れ、寛政8年(1796)8月24日没。享年62歳。宣長妻勝の兄である。 [002-000]

JD2361409.5 宝暦3年2月17日 (1753/3/21)
2月17日 『史記』会。       
[Y000440-000-000]

『在京日記』「十七日、史記会」(宣長全集:16-35)。 [001-000]

JD2361412.5 宝暦3年2月20日 (1753/3/24)
2月20日 『晋書』会。
[Y000441-000-000]

『在京日記』「廿日、晋書会」(宣長全集:16-35)。 [001-000]

JD2361414.5 宝暦3年2月22日 (1753/3/26)
2月22日 『史記』会。
[Y000442-000-000]

『在京日記』「廿二日、史記会」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361418.5 宝暦3年2月26日 (1753/3/30)
2月26日 蘭沢、水口左近府生と紫宸殿東階下にて禁裏桜御能拝見する。
[Y000443-000-000]

『在京日記』「廿六日、禁裏桜御能、与貞次、水口左近府生拝覧於紫宸殿東階下矣」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361420.5 宝暦3年2月28日 (1753/4/1)
2月28日 『史記』会。以後、会日は3、8の日となる。
[Y000444-000-000]

『在京日記』「廿八日、史記会【自今以[後]三八日為会日】(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361421.5 宝暦3年2月29日 (1753/4/2)
2月29日 夜、『晋書』会。
[Y000445-000-000]

『在京日記』「廿九日、夜晋書会」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361422.5 宝暦3年2月 (1753/4/3)
2月 『奥義抄』3冊を購求する。
[Y000446-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「二月 一、奥義抄 〔四〕三 七匁」(宣長全集:20-396)。本書は藤原清輔著の歌学書。 [001-000]

JD2361428.5 宝暦3年3月6日 (1753/4/9)
3月6日 終日曇天、後雨。松坂に帰省のため京都を発つ。同行村田清兵衛、木地屋半右衛門、同七兵衛ら5人。同夜は草津泊。帰省に際し、景山、送別の詩五絶を賦す。
[Y000447-000-000]

『在京日記』「三月六日、帰省勢州、先生賦五絶詩餞予、今日辰時出京師、同伴清兵衛、木地屋半右衛門、同七兵衛等凡五人、此夜宿草津藤屋、終日曇天、後雨天」(宣長全集:16-36)。藤屋は延享5年(1748)4月8日、宝暦2年(1752)3月6日、享和1年(1801)6月9日にも宿泊している。 [001-000]

「先生餞予帰伊勢詩」宣長筆・景山餞別詩の包紙のみが残る(本居宣長記念館蔵)。 [002-000]

帰郷の目的は分からない。 [003-000]

JD2361429.5 宝暦3年3月7日 (1753/4/10)
3月7日 晴天。同夜は関泊。
[Y000448-000-000]

『在京日記』「七日、晴天、此夜宿関玉屋」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361430.5 宝暦3年3月8日 (1753/4/11)
3月8日 未刻、松坂帰着。以後、4月末まで松坂滞在。
[Y000449-000-000]

『在京日記』「八日、晴天、未時至松坂」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361438.5 宝暦3年3月16日 (1753/4/19)
3月16日 晴天。茂八郎と両宮に参拝する。
[Y000450-000-000]

『在京日記』「十六日、参両太神宮、倶茂八郎、此日晴天」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

茂八郎(茂八)は、江戸堀留町煙草店の支配人。寛保2年(1742)7月の宣長の吉野行きに随伴した。 [002-000]

『本居氏系図』「歴世手代略記 堀留町煙草店支配人」に「小津茂八 号光誉宗円 第三代支配人、茅原田村産也、住桜屋町、移住新座町」(宣長全集:20-134)とある。 [003-000]

JD2361452.5 宝暦3年4月1日 (1753/5/3)
夏 「花月百首」詠。
[Y000451-000-000]

『鈴屋百首歌』第1冊所収巻首「同年夏 詠花月百首」(宣長全集:18-110)。 [001-000]

JD2361469.5 宝暦3年4月18日 (1753/5/20)
4月18日 夜、清水寺で事故。死者多数という噂を聞く。
[Y000452-000-000]

『在京日記』「四月十八日、夜清水寺大変、人多死之由」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

「京都清水寺草創千年により、観音を開帳、参詣人多数(翌月、死傷者100人余を出す)」(『日本文化総合年表』3月28日条)。 [002-000]

JD2361482.5 宝暦3年5月1日 (1753/6/2)
5月1日 上京のため松坂出立。同行は、村田善兵衛、伊八郎。同夜は関泊。宿は河北屋。
[Y000453-000-000]

『在京日記』「五月帰京、朔日、辰時出松坂矣、同伴村田善兵衛、倶伊八郎、今日曇天、宿関河北屋」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361483.5 宝暦3年5月2日 (1753/6/3)
5月2日 石部泊。宿は泥婆屋。
[Y000454-000-000]

『在京日記』「二日、晴天、此日宿石部泥婆屋」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361484.5 宝暦3年5月3日 (1753/6/4)
5月3日 石山寺、園城寺に参詣、入京。
[Y000455-000-000]

『在京日記』「三日、晴天、詣石山寺、園城寺、申時入京」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361487.5 宝暦3年5月6日 (1753/6/7)
5月6日 『世説新語』会。
[Y000456-000-000]

『在京日記』「六日、世説新語会」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

「「世説新語」、略して「世説」の会読も、さきの「晋書」の会読の延長である。魏晋風流の人物の逸話集であり、五世紀劉宋の王族臨川王劉義慶編。やがてのち七世紀初、唐の太宗が「晋書」を編んだ際の、重要な資料源であるが、「晋書」出現ののちも、魏晋の自由人の言行の、もっぱらさわりを示すところの、簡約な書物であった。」「鈴舎私淑言」吉川幸次郎(『本居宣長』・筑摩書房刊・P132)。また同書で宣長当時の『世説新語』は現行の本でなく明の王世貞王世懋兄弟が原本を増損した『世説新語補』20巻であったという。また宣長の抜書に同書からの引用があまり見えないことを言い「世説」的な言行がかえって人間の真実から遠ざかるとして嫌ったのではないかと推測する。 [002-000]

JD2361489.5 宝暦3年5月8日 (1753/6/9)
5月8日 『史記』会。
[Y000457-000-000]

『在京日記』「八日、史記会」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361491.5 宝暦3年5月10日 (1753/6/11)
5月10日 安芸藩主浅野宗恒、比叡山に登り山門修復のため巡覧する。堀景山や南湖も同道するか。
[Y000458-000-000]

「堀景山略年譜」高橋俊和(『秋桜』13号)。 [001-000]

JD2361492.5 宝暦3年5月11日 (1753/6/12)
5月11日 昨日に引き続き、安芸藩主浅野宗恒比叡山を巡覧する。
[Y000459-000-000]

5月10日条参照。 [001-000]

JD2361494.5 宝暦3年5月13日 (1753/6/14)
5月13日 新玉津嶋月次和歌会。
[Y000460-000-000]

『在京日記』「十三日、新玉津嶋社月次法楽会、五月雨、俊成卿手向、夏述懐、皆詠之、当座、寄関恋、早苗、亦皆詠之」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

『石上稿』(宣長全集:15-215)。 [002-000]

JD2361497.5 宝暦3年5月16日 (1753/6/17)
5月16日 『史記』会。
[Y000461-000-000]

『在京日記』「十六日、史記会」(宣長全集:16-36)。 [001-000]

JD2361502.5 宝暦3年5月21日 (1753/6/22)
5月21日 『世説』会。
[Y000462-000-000]

『在京日記』「廿一日、世説会」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

JD2361504.5 宝暦3年5月23日 (1753/6/24)
5月23日 『史記』会。『古来風体抄』5冊、『悦目抄』1冊を購求する。
[Y000463-000-000]

『在京日記』「廿三日、史記会」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「五月廿三日 一、古来風体抄 五 三匁五分 五月廿三日 一、悦目抄 一 八分」」(宣長全集:20-396)。 [002-000]

JD2361507.5 宝暦3年5月26日 (1753/6/27)
5月26日 江戸の布屋五兵衛死去。もと小津家の店の支配人。
[Y000464-000-000]

『在京日記』「五月廿六日、江戸布屋五兵衛死」(16-37・6月条末尾) [001-000]

『本居氏系図』「歴世手代略記」「布屋五兵衛 初名嘉兵衛 第十五代支配人 殿村産 為江戸神田新石町布屋五兵衛養子 養子五兵衛嗣」(宣長全集:20-134)。 [002-000]

JD2361510.5 宝暦3年5月 (1753/6/30)
5月 麻疹流行。大凡3、4月より6月まで続く。
[Y000465-000-000]

『在京日記』「今月麻疹流行、総而三四月至六月不止」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

JD2361523.5 宝暦3年6月13日 (1753/7/13)
6月13日 新玉津嶋月次和歌会。
[Y000466-000-000]

『石上稿』に当日詠あり。詞書に「新玉津嶋社月次法楽 六月祓 六月十三日」「同五条入道殿手向 夏懐旧」「当座 九月尽」(宣長全集:15-215)。 [001-000]

JD2361524.5 宝暦3年6月14日 (1753/7/14)
6月14日 四条河原納涼。
[Y000467-000-000]

『在京日記』「十四日、晴天、自今夕至廿五日夕、四条河原納涼、上旬河水多故如此」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

JD2361526.5 宝暦3年6月16日 (1753/7/16)
6月16日 『世説』会。
[Y000468-000-000]

『在京日記』「十六日、世説会」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

JD2361530.5 宝暦3年6月20日 (1753/7/20)
6月下旬 「紀佐佐木梶原競渡宇治河事」成る。
[Y000469-000-000]

奥書「宝暦癸酉季夏下澣 本居栄貞紀」(宣長全集:18-8)。『詩文稿』(東京大学本居文庫蔵)合綴。罫紙柱刻「向栄堂」。 [001-000]

JD2361531.5 宝暦3年6月21日 (1753/7/21)
6月21日 『世説』会。
[Y000470-000-000]

『在京日記』「廿一日、世説会」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

JD2361533.5 宝暦3年6月23日 (1753/7/23)
6月23日 『史記』会。
[Y000471-000-000]

『在京日記』「廿三日、史記会」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

JD2361536.5 宝暦3年6月26日 (1753/7/26)
6月26日 『世説』会。
[Y000472-000-000]

『在京日記』「廿六日、世説会」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

JD2361538.5 宝暦3年6月28日 (1753/7/28)
6月28日 『史記』会。
[Y000473-000-000]

『在京日記』「廿八日、史記会」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

JD2361539.5 宝暦3年6月29日 (1753/7/29)
6月29日 『四十八箇所名所和歌色紙之写』を書写する。
[Y000474-000-000]

奥書「右色紙書様等不違寸分写之 宝暦三年癸酉六月廿九日 本居栄貞」。巻頭「元文五年庚申就 大樹御望 四家ヨリ詠進名所和歌四十八首 中院通躬公 三条西公福卿 烏丸光栄卿 冷泉為久卿 並御屏風図 絵土佐左将監光芳」。表紙共16丁。 [001-000]

JD2361540.5 宝暦3年7月1日 (1753/7/30)
7月1日 小津七右衛門入道重願死去。もと小津家の店の支配人。
[Y000475-000-000]

『在京日記』「七月朔日、小津七右衛門入道重願死去」(宣長全集:16-37)。 [001-000]

『本居氏系図』「歴世手代略記」に「小津七右衛門 号重願、第七代ノ支配人、本町村田市郎左衛門男、唱阿大徳為子分、初住本町、移居西町一町目、養子七右衛門嗣」(宣長全集:20-133)。七右衛門は明和6年(1769)9月14没。 [002-000]

JD2361543.5 宝暦3年7月4日 (1753/8/2)
7月4日 景山、南湖と共に格式を三次横目の次に班せらる。
[Y000476-000-000]

『広島市史』。 [001-000]

JD2361550.5 宝暦3年7月11日 (1753/8/9)
7月11日 堀景山の従兄弟、堀南湖死去。享年70歳。敬節先生と諡する。
[Y000477-000-000]

『在京日記』「十一日、夜屈南湖先生没、七十歳、諡敬節先生」(宣長全集:16-37)。景山の父蘭皐玄達の兄蒙窩正樸の子が南湖である。蒙窩は「北堀」、蘭皐は「南堀」を名乗った。共に安芸藩儒である。 [001-000]

JD2361555.5 宝暦3年7月16日 (1753/8/14)
7月16日 洛陽遊子舟月の奥書のある『弘安源氏論議』を書写する。堀南湖葬儀が南禅寺帰雲院で執り行われる。
[Y000478-000-000]

奥書「宝暦三年癸酉七月十六日、本居栄貞草々写之」(東京大学本居文庫蔵)。『宝暦二年以後購求謄写書籍』では、「七月廿日 一、堀川院百首 三 三匁二分/同 一、同次郎百首 一 二匁二分」に続いて「同 一、源氏論議 一 写」(宣長全集:20-396)とある。本書は宝暦13年(1763)2月8日に再写され本居記念館に所蔵する。また天明6年(1786)10月15日には宝暦3年(1753)奥書本を三井高蔭が書写する(東京大学本居文庫蔵)。 [001-000]

『在京日記』「十六日、葬南禅寺帰雲院」(宣長全集:16-37)。 [002-000]

JD2361559.5 宝暦3年7月20日 (1753/8/18)
7月20日 『堀川院百首』3冊、『堀川院次郎百首』1冊を購求する。
[Y000479-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「七月廿日 一、堀川院百首 三 三匁二分 同 一、同次郎百首 一 二匁二分 同 一、源氏論議 一 写」(宣長全集:20-396)。『源氏論議』は7月16日条参照。 [001-000]

JD2361561.5 宝暦3年7月22日 (1753/8/20)
7月22日 堀元厚に入門し、医書講説を聞く。
[Y000480-000-000]

『在京日記』「廿二日、入門干堀元厚氏。而聞医書講説」(宣長全集:16-37) [001-000]

元厚(1686〜1754)は後世派の医者。著書には『医案啓蒙』、『医学須知』、『医門丘垤集』がある。『医案啓蒙』はカルテの書き方、『医学須知』は『素問』『霊枢』『八十一難経』からの抜粋抄録である。神沢杜口は『翁草』で「又右に記す堀元厚は、予が俳友にて、交り親しかりし、俳名は釣雪(テウセツ)と云り。京都の学医にて、書生たる者之へたよらざるは無し、京師の学校の如し、療用は辞して講説而已なり」と言う。元厚は後世派の中でも劉張医方派に属した。この派は日本では曲直瀬玄朔門の饗庭東庵によって提唱され味岡三伯、小川朔庵と受け継がれ元厚に至った。派の説としては、五運六気説、陰陽五行説、臓腑経絡説等を説く。また「コレラノ人々ハ皆、自ラ刀圭ヲ取テ人ヲ療治セルニ非ズ。但、素難ヨリ宋元明ノ医書ヲ講ズルヲ業トセリ」(『閑散余録』)とあり、実際の治療でなく、医書講釈を仕事としていた。(以上、高橋俊和氏論文による) [002-000]

堀元厚・衢昌柏共著『隧輸通攷』は経穴学書。延享1年(1744)の堀正修序、同年自序と共に、同2年の景山跋文が添う(『日本漢方典籍辞典』)。元厚と景山には交友があったか。 [003-000]

JD2361565.5 宝暦3年7月26日 (1753/8/24)
7月26日 堀元厚の講釈始まる。毎朝、『霊枢』『局方発揮』。2、7、4、9の日の夕方は、『素問』『運気論』『◎(さんずいに朔)◎(さんずいに回)集』が講じられる。
[Y000481-000-000]

『在京日記』「堀元厚先生講釈始、毎朝、霊枢及局方発揮也、二七四九之日夕、素問、運気論、◎(さんずいに朔)◎(さんずいに回)集也」(宣長全集:16-37)。『霊枢』『局方発揮』『素問』『運気論』『◎(さんずいに朔)◎(さんずいに回)集』は後世派の基本書。 [001-000]

JD2361572.5 宝暦3年8月3日 (1753/8/31)
8月3日 『史記』会。
[Y000482-000-000]

『在京日記』「八月三日、史記会」(宣長全集:16-38)。 [001-000]

JD2361575.5 宝暦3年8月6日 (1753/9/3)
8月6日 『世説』会。
[Y000483-000-000]

『在京日記』「六日、世説会」(宣長全集:16-38)。 [001-000]

JD2361579.5 宝暦3年8月10日 (1753/9/7)
8月10日 『紫家七論』を書写する。
[Y000484-000-000]

奥書「宝暦三年癸酉仲秋十日、於平安寓居倉卒書写畢」。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「八月 一、紫家七論 一 写」(宣長全集:20-396)。 [002-000]

JD2361583.5 宝暦3年8月14日 (1753/9/11)
8月14日 夜一人月を眺め歌を詠む。
[Y000485-000-000]

『石上稿』に当日詠あり。詞書に「八月十四日の夜くまなき月影に軒ちかう出侍てひとりしめやかになかめ侍るまゝいとゝさやけさまさり行心ちしてとみにもいりやらすいと久しうしつゝなをあかねは」(宣長全集:15-216)。 [001-000]

『在京日記』「十四、五夜、大晴天、満月清明」(宣長全集:16-38)。 [002-000]

JD2361591.5 宝暦3年8月22日 (1753/9/19)
8月22日 『史記』会。
[Y000486-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-38)。 [001-000]

JD2361596.5 宝暦3年8月27日 (1753/9/24)
8月27日 『史記』会。
[Y000487-000-000]

『在京日記』「八月廿七日、廿八日両日、史記会」(宣長全集:16-38) [001-000]

JD2361597.5 宝暦3年8月28日 (1753/9/25)
8月28日 『史記』会。
[Y000488-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-38)。8月27日条参照。 [001-000]

JD2361598.5 宝暦3年8月 (1753/9/26)
8月 『おもひぐさ』(「尾花が本」)を書く。
[Y000489-000-000]

奥書「癸酉仲秋 神風伊勢意須比飯高本居健蔵草」(宣長全集:18-27) [001-000]

本書は「煙草と喫煙にまつわる四季折々の情景や趣味を平安朝好みの美しい雅文で書き綴った」(全集解題)小品。家が煙草問屋もしていたことから、宣長も早くから煙草に馴染んでいたとも考えられる。『日記』19歳の五重相伝記事中に「七日魚酒煙艸等断慎ム」とあるのが初出らしいが、一般的な禁制なのかも知れない。はっきりと出るのは在京中からである。その後も『菅笠日記』吉水院の条「見わたしのけしきいとよきがあるに、たち入りて、煙ふきつゝ見いだせば、子守の御社の山、むかひに高く見やられて」や、また到来物に煙草が散見する。 [002-000]

熊本の儒者上田一道の手記に次の話が載る。 [003-000]

「或年、長瀬真幸松阪ヲ辞シテ郷里熊本ニ帰ル。一日予ヲ訪ヒ、談遊学中ノコトニ及ブ。曰ク、宣長喫煙ヲ嗜ムコト甚シク、談笑ノ裡、常ニ烟管ヲ放タズ。タメニ室内濛々トシテ白烟満チ、コトニ粗葉ナレバニヤ、臭気甚シク、座ニ耐ヘズト。烟草ハモト本邦ノ産ニアラズ。然ルヲ、国学者ニシテコレヲ嗜ムハ、其ノ意ヲ得ザル所ナリ」(『本居宣長稿本全集』1-154) [003-001]

JD2361599.5 宝暦3年9月1日 (1753/9/27)
9月上旬 師の堀景山が芸藩浅野宗恒の招請で広島に下向するため、安井御門前江戸屋亭にて送別会が開催される。出席者は景山父子、安田図書、孟明、武川幸順、斎、源兵衛、伊四郎、岩崎栄令、岡本周治、丹立、宣長等で、宣長は「奉送 景山先生赴芸州」を作る。
[Y000490-000-000]

『在京日記』「九月、我、景山先生応芸侯召、将趣本藩、是以、於安井御門前江戸屋亭門弟等餞之、其客先生父子也、其主、則安田図書、山田周蔵、武川幸順、横関斎、福永源兵衛、井上伊四郎、岩崎栄令、岡本周治、草深丹立、予等也」(宣長全集:16-38)。送別会の日は不明だが、『在京日記』の記載順序によれば9月9日以前であろう。 [001-000]

『詩文稿』「奉送 景山先生赴芸州」(宣長全集:18-5)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [002-000]

岩崎栄令は栄良と書かれる人と同一人か。藤原姓。号文輿。肥前大村侯に仕えた医家で『新撰士系録』<元禄9年(1696)着手、宝暦10年(1760)完成・大村市立史料館所蔵>48に相伝藤原姓磐前安芸(道寛)を始祖とする家系に栄令の名が見える。宣長差出書簡3通と、栄令帰国に際し送った「送巌栄良帰肥州」「送藤文輿帰郷」「送藤文輿還肥序」「再復文輿藤君足下」4篇が遺り二人の交情を偲ばせる。また、宣長は「足下、初めは則ち道学を悪視し、而して物子の軽率の学に泥み、我が物先生と称するに至る。何ぞ諂うことの甚だしきや」『詩文稿補遺』(宣長全集:18-18)と言い、文輿が徂徠学に傾倒したことが窺える。 [003-000]

JD2361601.5 宝暦3年9月3日 (1753/9/29)
9月3日 堀南雲、亡父南湖の禄200石を襲封する。
[Y000491-000-000]

『芸儒堀家略譜』。 [001-000]

JD2361607.5 宝暦3年9月9日 (1753/10/5)
9月9日 名を健蔵と改める。
[Y000492-000-000]

『在京日記』「九日仮名改曰健蔵矣」(宣長全集:16-38)。 [001-000]

『家のむかし物語』「同三年九月、弥四郎を健蔵と改む」(宣長全集:20-28)。 [002-000]

『在京日記』「九日仮名改曰健蔵矣」とあるが、『おもひぐさ』(奥書「癸酉仲秋」)に「本居健蔵草」の署名があり<宝暦3年(1753)8月条参照>、「本居」姓同様に改名前から使用していたようである。その後「健蔵」は、宝暦12年(1762)2月に長男春庭の童名として使われ、以後安永9年(1780)1月2日「健亭」と改めるまで使用された。 [003-000]

JD2361611.5 宝暦3年9月13日 (1753/10/9)
9月13日 「詩歌当座御会」開催される。
[Y000493-000-000]

この時の歌を『和歌の浦』巻4に「宝暦三年九月十三夜、詩歌当座御会」(宣長全集:14-619)として写している。書写年代は不明だが、直前に宝暦4年(1754)春頃購求の『都のつと』等の抜書があるのでその頃か。 [001-000]

JD2361613.5 宝暦3年9月15日 (1753/10/11)
9月15日 堀景山発駕、堀蘭沢、山田孟明、草深丹立等と淀まで送る。
[Y000494-000-000]

『在京日記』「十五日、先生芸州発駕、卯刻起京、従伏見至難波乗船矣、蘭沢公、山田氏、草深氏、予等送之、至淀而相別焉、此日晴天也」(宣長全集:16-38)。 [001-000]

JD2361608.5 宝暦3年9月10日 (1753/10/6)
9月中旬より 頂髪を伸ばす。
[Y000495-000-000]

『在京日記』「自中旬予生長頂髪矣」(宣長全集:16-38)。月代を剃らずに伸ばし始めた。医者としての髪型にするためであろう。約1年半後の宝暦5年(1755)3月3日、宣長と名を改め稚髪する。 [001-000]

JD2361622.5 宝暦3年9月24日 (1753/10/20)
9月24日 景山、広島着。
[Y000496-000-000]

『在京日記』「廿四日、先生至芸府」(宣長全集:16-38)。 [001-000]

JD2361628.5 宝暦3年10月1日 (1753/10/26)
宝暦3年冬 祇園社北地の林を開いて桜が植えられる。
[Y000497-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-39) [001-000]

JD2361628.5 宝暦3年10月1日 (1753/10/26)
宝暦3年冬 「恋百首」前半36首を詠む。後半は翌年正月詠む。
[Y000498-000-000]

『鈴屋百首歌』第1冊所収。巻首「同年冬 寄忘艸恋以下至甲戌正月詠之 詠恋百首」(宣長全集:18-112)。 [001-000]

JD2361630.5 宝暦3年10月3日 (1753/10/28)
10月3日暁 堀蘭沢の長男正二郎没。享年5歳。正慈と諡する。
[Y000499-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-38)。 [001-000]

JD2361631.5 宝暦3年10月4日 (1753/10/29)
10月4日申刻 正二郎を南禅寺帰雲院に葬る。
[Y000500-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-38)。 [001-000]

JD2361642.5 宝暦3年10月15日 (1753/11/9)
10月15日 藤重藤俊没。享年58歳。
[Y000501-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-38)。『石上稿』に「藤重藤俊死去贈其子藤伯追悼之歌並序」を載せる(宣長全集:15-216)。 [001-000]

藤俊は堀景山に入門するときの労を執ってくれた人である。宝暦2年(1752)3月16日条参照。 [002-000]

JD2361646.5 宝暦3年10月19日 (1753/11/13)
10月19日 村田清兵衛上京する。広島滞在中の景山、藩命をもって城外の太田川に船遊びをし、縮景園で優待される。
[Y000502-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-38)。 [001-000]

『逍遥篇』、『芸儒堀家略譜』。 [002-000]

JD2361647.5 宝暦3年10月20日 (1753/11/14)
10月下旬 「宝暦二年関東御所望御詠進詩歌」を写す。
[Y000503-000-000]

奥書「宝暦三年癸酉神無月下旬 本居健蔵 清原栄貞写之」。全15丁 [001-000]

JD2361652.5 宝暦3年10月25日 (1753/11/19)
10月25日 『古今序六義考』を写す。
[Y000504-000-000]

奥書「古今集六義考一巻者井口氏寿適先師述作而歌道之奥旨也、堀氏君燕雅丈以書写之本不違一字写之成功畢、享保十九歳甲寅神無月下浣、洛陽遊士桜月堂重好記之、右六義考一本者以小野田氏重好本書写之竟其功乎間燈下矣一校焉此時復遇宝暦三年癸酉十月二十五日、伊勢意須比飯高、本居栄貞」。井口寿適著。景山写本を小野田重好が写し、それを宣長が再写した。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十月 一、古今序六義考 一 写」(宣長全集:20-396) [002-000]

JD2361657.5 宝暦3年10月30日 (1753/11/24)
10月30日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻4の改訓が終わる。この時までに巻1、2、3の改訓既に終る。
[Y000505-000-000]

奥書、巻1「右書入改点等、皆是景山先生所是正也、予以其自筆本写之云爾 本居栄貞」、巻2、3「右書入改点等、景山先生所是正也、本居栄貞」、巻4「右書入改点等、皆是景山先生所考正、而予以其自筆本写之云爾 宝暦三年癸酉十月卅日、本居栄貞記」 [001-000]

「かれは自分の所持する和刻本『春秋経伝集解』全十五冊にわたって、その訓点の改訂を行っていた。それは本来この版本に付されていた訓点の一つひとつを胡粉で消し、その上に師景山が改め正した訓を丹念に書き入れる作業であった」『本居宣長の生涯』岩田隆著(以文社刊・P59)。 [002-000]

JD2361657.5 宝暦3年10月 (1753/11/24)
10月 『新宮撰歌合』1冊、『石清水若宮歌合』1冊、『十題歌合』1冊、『右大臣家歌合』1冊、『新名所歌合』1冊を購求する。
[Y000506-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十月 一、新宮撰歌合 一 八分、同 一、石清水若宮歌合 一 八分、同 一、十題歌合 一 八分、同 一、右大臣家歌合 一 八分、同 一、新名所歌合 一 八分」(宣長全集:20-396)。 [001-000]

JD2361659.5 宝暦3年11月2日 (1753/11/26)
11月2日夜 『左伝』会読始まる。会日は2、7の日。
[Y000507-000-000]

『在京日記』「二日夜、左伝会読之始、以二七之日会之」(16-39・11月6日条)。 [001-000]

JD2361662.5 宝暦3年11月5日 (1753/11/29)
11月5日 『蒙求』会始まる。会日は1、6の日。
[Y000508-000-000]

『在京日記』「五日、蒙求会始、此後一六之日会之」(16-38・11月6日条)。 [001-000]

JD2361663.5 宝暦3年11月6日 (1753/11/30)
11月6日 村田清兵衛、江戸に下向する。
[Y000509-000-000]

『在京日記』「十一月六日、清兵衛江戸下向」(宣長全集:16-38)。清兵衛については宝暦2年(1752)3月13日条参照。 [001-000]

JD2361658.5 宝暦3年11月1日 (1753/11/25)
11月上旬 実弟村田親次、仮名与兵衛を与三兵衛に改める。
[Y000510-000-000]

『在京日記』「上旬、与兵衛、仮名更改曰与三兵衛、有所辟故也」(16-38・11月6日条)。 [001-000]

JD2361676.5 宝暦3年11月19日 (1753/12/13)
11月19日 『讃岐典侍日記』を一応書写するが善本との校合の必要を感じる。
[Y000511-000-000]

奥書「右讃岐典侍日記一冊者、予草卒写之、其本甚粗筆而文義不詳者往々、蓋是伝襲之誤訛耳願得善本以是正焉云爾、宝暦三癸酉年霜月十九日、神風伊勢意須比飯高 本居栄貞書」。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十一月 一、讃岐典侍日記 一 写」(宣長全集:20-396) [002-000]

JD2361687.5 宝暦3年11月 (1753/12/24)
11月 号を芝蘭と称す。
[Y000512-000-000]

『在京日記』「此月、余号称芝蘭矣」(宣長全集:16-39)。 [001-000]

「芝蘭」について、「荘子摘腴」(『荘子摘腴・列子抜萃・荀子摘萃・老子・雑抄』)に、『孔子家語』の「芝蘭生於深林。不以無人而不芳」(宣長全集:18-553)を引く。 [002-000]

宝暦5年3月3日「春庵」と改号するまで使用か。使用例『日本音韻開合仮字反図』。 [003-000]

JD2361687.5 宝暦3年11月 (1753/12/24)
11月 『関東詠進詩歌』『古今伝授次第』を書写する。
[Y000513-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十一月 一、関東詠進詩歌 一 写、十一月 一、古今伝授次第 一 写」(宣長全集:20-396)。 [001-000]

JD2361687.5 宝暦3年11月 (1753/12/24)
11月 師景山「厳島神◎(まだれに苗)」を作る。
[Y000514-000-000]

景山自筆(『本居家新規寄贈品目録』・P150)。 [001-000]

JD2361689.5 宝暦3年12月2日 (1753/12/26)
12月2日 学友草深丹立、伊勢国津に帰省する。
[Y000515-000-000]

『在京日記』「十二月二日、丹立帰省勢州矣」(宣長全集:16-39)。翌年2月4日に名を玄周と改めて再び上京する。 [001-000]

『石上稿』に「草深氏いせの国に帰りけるにをくりける詩につけてつかはし侍ける」と題した歌1首を載せる。また、『詩文稿』に「送草敬所帰勢州」を載せる(宣長全集:18-4)がこの時の作か、あるいは宝暦4年(1754)9月5日の時の作か。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [002-000]

JD2361716.5 宝暦3年12月 (1754/1/22)
12月 『和泉式部物語』を書写する。
[Y000516-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十二月 一、和泉式部物語 一 写」(宣長全集:20-396) [001-000]

JD2361716.5 宝暦3年 (1754/1/22)
宝暦3年 同年詠として『石上稿』に75首載せる。他に百首歌を2度、また「恋百首」を読み始めている。
[Y000517-000-000]


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