前へ / 次へ / indexへ


JD2361746.5 宝暦4年1月 (1754/2/21)
宝暦4年(1754)甲戌 宣長25歳。勝50歳、はん23歳、俊15歳。
[Y000518-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

在京3年目。1月、師堀元厚没。5月、武川幸順に入門、医学を学ぶ。10月、武川宅に移る。 [001-001]

JD2361722.5 宝暦4年1月6日 (1754/1/28)
1月6日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻5の改訓が終わる。
[Y000519-000-000]

奥書「右書入改点等、皆是景山先生所考正也、予以其自筆本写之云爾、宝暦四年甲戌正月六日、本居栄貞記」 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2361724.5 宝暦4年1月8日 (1754/1/30)
1月8日 母、本居健蔵(宣長)、村田与惣兵衛(親次)両名宛書簡を書く。賀状。伊勢神宮の御祓いを届けることを伝える。
[Y000520-000-000]

(宣長全集:別3-319・来簡1)。 [001-000]

JD2361735.5 宝暦4年1月19日 (1754/2/10)
1月19日 堀蘭沢と石清水参詣。
[Y000521-000-000]

『在京日記』「十九日、参詣石清水矣、貞次公同道」(宣長全集:16-39)。 [001-000]

『石上稿』に詠あり。詞書「正月十九日石清水にまうてて」(宣長全集:15-217)。 [002-000]

JD2361737.5 宝暦4年1月21日 (1754/2/12)
1月21日 年始、会読始まる。本は『蒙求』か。
[Y000522-000-000]

『在京日記』「廿一日、会読始」(宣長全集:16-39)。『在京日記』の前年11月6日に「五日、蒙求会始、此後一六之日会之」(宣長全集:16-38)とあるので、この日の会読も『蒙求』と推定した。 [001-000]

JD2361740.5 宝暦4年1月24日 (1754/2/15)
1月24日 師、堀元厚没。享年69歳、北渚先生と諡す。
[Y000523-000-000]

『在京日記』「廿四日、堀元厚【号北渚先生】先生死去、廿八日、葬誓願寺」(宣長全集:16-39) [001-000]

JD2361744.5 宝暦4年1月28日 (1754/2/19)
1月28日 堀元厚葬儀。
[Y000524-000-000]

JD2361746.5 宝暦4年1月 (1754/2/21)
1月 「恋百首」後半の64首を詠む。
[Y000525-000-000]

『鈴屋百首歌』第1冊所収。巻首「同年冬 寄忘艸恋以下至甲戌正月詠之 詠恋百首」(宣長全集:18-112) [001-000]

JD2361746.5 宝暦4年1月 (1754/2/21)
春 『にはのをしへ』1冊、『都のつと』1冊、『享保十一年御歌』1冊を購求する。
[Y000526-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「甲戌春 一、にはのをしへ 一 五分、同 一、都のつと 一 五分、同 一、享保十一年御歌 一 五分」(宣長全集:20-396)。購求時期は「春」とあるだけだが、『宝暦二年以後購求謄写書籍』で「余材抄序文」(3月2日写)の前に書かれているのでここに入れた。 [001-000]

『和歌の浦』第4冊に『都のつと』『庭のをしへ』が続いて抜書される(宣長全集:14-617)。 [002-000]

宣長旧蔵本と推定される『にはのをしへ』が竹口家に伝わる。「伊勢国飯野郡中万村竹口家資料目録(四)」(『松阪大学紀要』第13号)によれば、「庭のをしへ[阿仏尼著]1冊 240-11巻頭「庭のをしへ 或曰乳母文」袋綴(大) 墨付十一丁 白茶色渋刷毛目表紙 寛政七年「鈴屋蔵書目」に見える宣長所蔵本。印記「鈴屋/之印」」 [003-000]

JD2361746.5 宝暦4年1月 (1754/2/21)
1月 師景山「甲戌広城新年作」七言律詩を作る。
[Y000527-000-000]

景山自筆。 [001-000]

JD2361746.5 宝暦4年1月 (1754/2/21)
去年冬から1月まで 風邪流行する。
[Y000528-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-39) [001-000]

JD2361746.5 宝暦4年1月 (1754/2/21)
春 「百首歌」を詠む。
[Y000529-000-000]

『鈴屋百首歌』巻1所収。巻首「同四年甲戌春 詠百首」(宣長全集:18-117)。 [001-000]

JD2361750.5 宝暦4年2月4日 (1754/2/25)
2月4日 藤重藤伯、亡父藤俊の家職を襲ぐため一旦阿波国に下向する。
[Y000530-000-000]

『在京日記』「二月四日、藤重藤伯下向阿州矣、襲父之職故也」(宣長全集:16-39) [001-000]

『石上稿』に送別歌あり。詞書「二月一日比藤重知定父の跡をつき侍て阿波の国にくたり侍けるををくりける」(宣長全集:15-217)。 [002-000]

JD2361761.5 宝暦4年2月15日 (1754/3/8)
2月15日 堀蘭沢、水口府生、岡本周治、岡本幸俊と東福寺涅槃像拝見。その後、藤森で乗馬、小栗栖で観梅し帰宅。
[Y000531-000-000]

『在京日記』「十五日、与貞次、水口左近府生、岡本周治、岡本幸俊、詣東福寺拝涅槃像、遂淤藤森而乗馬、観小栗栖野之梅而帰矣」(宣長全集:16-39)。 [001-000]

『石上稿』に詠あり。詞書「小栗栖野のわたりにまかりて梅を見侍けるに盛り過ぎぬるもまた咲き出たるもさま/\いとおほくてはてしもしらす分入山路に日もやう/\くれかたちかく成ぬこゝらの中にわきてなつかしく咲きたる一木のもとにたちやすらひてよみ侍ける」(宣長全集:15-217) [002-000]

岡本幸俊、号南澗。東寺に住す。宝暦7年(1757)4月6日、10月3日条参照。 [003-000]

JD2361762.5 宝暦4年2月16日 (1754/3/9)
2月16日 親次、村田伊兵衛の養父道間が死去し、葬送のため松坂に下向する。
[Y000532-000-000]

『在京日記』「十四日之夜村田道間死去之由、十六日朝来告、是以、与三兵衛下向勢州、道間年七十五、葬送則十八日之由也」(宣長全集:16-39)。 [001-000]

『石上稿』に追悼歌あり。詞書に「村田道閑身まかりける比しも二月十五日にあたり侍けれはよんて遣しける」(宣長全集:15-217)。 [002-000]

当時、親次は村田伊兵衛の木地屋店に奉公していた。養家である村田家の店はなかったのであろうか。道間については『松坂権輿雑集』巻7「桜屋町諸家之事」に「三代養子伊兵衛法名道間」とある。 [003-000]

JD2361764.5 宝暦4年2月18日 (1754/3/11)
2月18日 『和歌の浦』第3冊に『住吉物語』を抄出する。名前を玄周と改めた草深丹立が再び上京する。
[Y000533-000-000]

奥書「以上住吉物語、甲戌二月十八日摘腴畢」(宣長全集:14-550)。同集では続いて『悦目抄』が抄出される。3月28日条参照。 [001-000]

『在京日記』「十八日、丹立上京、嘗改名曰玄周」(宣長全集:16-40)。 [002-000]

JD2361780.5 宝暦4年閏2月4日 (1754/3/27)
閏2月4日 『歴史綱鑑補』(袁了凡)会読始まる。定日は、4、9の夕。
[Y000534-000-000]

『在京日記』「閏二月四日、夜、袁了凡氏歴史網鑑読会之始、自是後、以四九之夕、為定日矣」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

JD2361781.5 宝暦4年閏2月5日 (1754/3/28)
閏2月5日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡を書き、村田七左衛門より借り3両を送金すると報ずる。
[Y000535-000-000]

(宣長全集:別3-319・来簡2)。 [001-000]

JD2361783.5 宝暦4年閏2月7日 (1754/3/30)
閏2月7日 山脇東洋、小杉玄適、浅沼理仲左盈(伊勢山田)、伊藤友信等、京都壬生左獄(近衛通西洞院坤の隅)で死体を解剖する。
[Y000536-000-000]

JD2361789.5 宝暦4年閏2月13日 (1754/4/5)
閏2月13日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻6の改訓が終わる。
[Y000537-000-000]

奥書「右書入改点等、我景山屈先生所是正也、予以其筆本写之云爾、宝暦四年閏二月十三日、此一策畢、本居栄貞」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2361799.5 宝暦4年閏2月23日 (1754/4/15)
閏2月23日 伏見城山に桃花を見る。同行者は、堀蘭沢、山田孟明、横関斎、水口府生、草深玄周。
[Y000538-000-000]

『在京日記』「廿三日、観伏見城山之桃花矣、同遊者、蘭沢、孟明、嗣忠、府生、敬所也」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

『石上稿』に、「桃のさかりを見にまかりていとかえりがてにして」の詞書で収める歌(宣長全集:15-217)が当日の作か。 [002-000]

JD2361802.5 宝暦4年閏2月26日 (1754/4/18)
閏2月26日 『蒙求』の会読が終わる。
[Y000539-000-000]

『在京日記』「廿六日、蒙求会読畢矣」(宣長全集:16-40)。開始は宝暦3年11月5日。 [001-000]

JD2361807.5 宝暦4年3月2日 (1754/4/23)
3月2日 『古今余材抄』巻1(『古今集』序文)を書写する。
[Y000540-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「三月 一、余材抄序文 二、写」(宣長全集:20-396) [001-000]

『契沖全集』「契沖年譜」では、「三・二(-宝暦七・二) 本居宣長『古今余材抄』を写し跋文を記す」とある。 [002-000]

巻1奥書「宝暦四歳甲戌三月二日、神風伊勢意須比飯高、本居栄貞写之」とあり、巻10跋には「宝暦六年仲冬」とある。宝暦6年(1756)11月条参照。 [003-000]

JD2361806.5 宝暦4年3月1日 (1754/4/22)
3月初旬 東山に花見に行く。
[Y000541-000-000]

『石上稿』に当日の詠あり。詞書に「やよひの始つかた東山のわたりあそここゝ花見ありきけるに大かた残もなくちり過侍りけれは」(宣長全集:15-217)。 [001-000]

JD2361806.5 宝暦4年3月1日 (1754/4/22)
3月初旬 高台寺に参詣するか。
[Y000542-000-000]

『石上稿』に「大かた花のころも過ぎぬる比高台寺にまいり侍りけれは思ひかけす江戸桜とかやいふ花の堂のまへに一木のこりて盛に見え侍りけれは」の詞書で歌を収める。(宣長全集:15-218)。 [001-000]

JD2361810.5 宝暦4年3月5日 (1754/4/26)
3月5日 華頂山真葛庵で詩会。戒題として「少年行」と、即席「漁父」を作る。また壁に書かれた吉水和尚の歌を詠み自らも詠ず。
[Y000543-000-000]

『在京日記』「三月五日、於華頂山真葛庵詩会、戒題少年行、賦之、即席漁父、亦賦之」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

『詩文稿』に「少年行」、「漁父」を収める(宣長全集:18-4)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。「少年行」は楽府雑曲題。 [002-000]

『石上稿』に当日の詠3首あり。第1首詞書に「三月五日に詩つくるとてかれこれ華頂の真葛の庵につとひ侍りける日しも春雨しめやかにふりくらしけるを詩のためには心もしつまりてよき日也なと人々申けれは」(宣長全集:15-217)。 [003-000]

真葛庵は知恩院山内にある。後年のことではあるが、文政6年(1823)大田垣誠(のぶ)は父と剃髪し、蓮月と名を改めこの庵に入る。(『大田垣蓮月』杉本秀太郎・中公文庫) [004-000]

JD2361811.5 宝暦4年3月6日 (1754/4/27)
3月6日 『揚子法言』会読が始まる。会日は1と6の日。
[Y000544-000-000]

『在京日記』「六日、揚子法言会読始、自此後一六会之」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

『和歌の浦』第5冊は、『本居宣長随筆』第2冊、「雑抄」(『荘子摘腴・列子抜萃・荀子摘萃・老子・雑抄』)に本書からの引用文が載る。 [002-000]

JD2361815.5 宝暦4年3月10日 (1754/5/1)
3月中旬頃 横関氏宅で、山田孟明等三四人で歌会をするか。
[Y000545-000-000]

時期は『石上稿』収載歌より推定した。「横関氏にてみたりよたり題いたして読侍ける四首」として、「兼惜春」(左注に「此歌はかねておしむまたきなといふ詞ならひに景物あしらひなとをいれでよめと孟明のぬしのいへりけるによめる也」)、「見恋」で2首ずつ、また、「同し時線香たき侍りてつくるまに五首の歌よまんとて孟明嗣忠と同しくよみける五首」の詞書で「故郷菫菜」など5首収める(宣長全集:15-218)。横関氏は宝暦2年(1752)9月14日条参照。 [001-000]

JD2361816.5 宝暦4年3月11日 (1754/5/2)
3月11日 真葛庵詩会。戒題「春宮怨」、即席「読書」を作る。
[Y000546-000-000]

『在京日記』「十一日、於真葛庵詩会、戒題春宮怨、即席探題読書、賦之」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

『詩文稿』に「春宮怨」、「読書」を収める(18-3・5)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [002-000]

JD2361817.5 宝暦4年3月12日 (1754/5/3)
3月12日 堀景山、藩侯に従駕し広島を発足、23日京に着く。
[Y000547-000-000]

『在京日記』「三月十二日、景山先生従芸侯之赴江都而帰京、今日発広嶋矣」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

JD2361820.5 宝暦4年3月15日 (1754/5/6)
3月15日 嵯峨二尊院開帳始まる。
[Y000548-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-40)。宣長等は4月15日拝観する。 [001-000]

JD2361824.5 宝暦4年3月19日 (1754/5/10)
3月19日 堀景山作「厳嶋神廟」「逍遥篇」を写す。
[Y000549-000-000]

奥書「甲戌三月十九日、門生本居健蔵謹写」(『本居家新規寄贈品目録』・P150)。 [001-000]

JD2361826.5 宝暦4年3月21日 (1754/5/12)
3月21日 村田清兵衛、上京する。
[Y000550-000-000]

『在京日記』「二十一日清兵衛、上京」(宣長全集:16-40)。清兵衛については宝暦2年(1752)3月13日条参照。彼は、宝暦3年(1753)11月6日、江戸に下向し、4月5日松坂に下向と、多忙な日々を送る。 [001-000]

JD2361828.5 宝暦4年3月23日 (1754/5/14)
3月23日 師堀景山、帰京。皆で待つ間、庭の牡丹を見て歌を詠む。また景山はこの日以後、藩主浅野宗恒を祇園や東山に案内する。
[Y000551-000-000]

『在京日記』「三月二十三日、景山先生入京矣」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

『石上稿』に当日の詠あり。第一首詞書に「三月廿三日景山先生あきの国より帰り給ふとて人々あつまりてまち侍りける程庭のほうたん今を盛也けるを見て折にあひける事をおもひて」(宣長全集:15-218)。 [002-000]

JD2361829.5 宝暦4年3月24日 (1754/5/15)
3月24日 大西氏、草深玄周と粟生野光明寺に参詣、二十五菩薩練供養を見る。同寺では5日から25日まで入仏供養が行われていた。
[Y000552-000-000]

『在京日記』「廿四日、与大西氏、艸深氏、詣粟生野光明寺、観二十五菩薩練供養矣」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

大西については不詳。大西周庵は宝暦6年(1756)4月8日、同7年4月10日条に、大西庸軒は宝暦4年(1754)11月4日条に出る。同一人かどうかは不明。 [002-000]

JD2361833.5 宝暦4年3月28日 (1754/5/19)
3月28日 『和歌の浦』第3冊に『悦目抄』を抄出する。
[Y000553-000-000]

同書「以上悦目抄、戌三月二十八日抄書畢」(宣長全集:14-551)。『悦目抄』の購求は宝暦3年(1753)5月23日。同集では『住吉物語』(2月28日終了)に続いて抄出される。 [001-000]

『和歌の浦』第3、4、5冊は並行して書かれていたことになる。2月18日条参照。 [002-000]

JD2361835.5 宝暦4年3月30日 (1754/5/21)
3月30日 堀景山の『万葉契沖説抜書』を抜粋する。
[Y000554-000-000]

『契沖全集』「契沖年譜」に、「『万葉集沙門契冲点注解抜書』(宣長『万葉集聞書』と合綴して『万葉集契宣両説』一冊、国立国会図書館蔵)奥書 宝暦四年甲戌三月晦日/伊勢神風意須比飯高 本居健蔵清原栄貞謹書」とある。 [001-000]

JD2361836.5 宝暦4年4月1日 (1754/5/22)
4月上旬 山田氏で当座探題30首詠むか。
[Y000555-000-000]

『石上稿』に、「四月上旬山田氏にて当座探題三十首」とあり。但し歌欠(宣長全集:15-219)。 [001-000]

JD2361839.5 宝暦4年4月4日 (1754/5/25)
4月4日 村田清兵衛宛書簡を執筆し武川入門を報告するか。
[Y000556-000-000]

4月晦日付村田清兵衛差出宣長宛書簡「今四日出御状相届、致拝見候、時分柄次第ニ暑気ニ向候」に拠る。但し翌日まで清兵衛は京にいたことになり文面といささか不自然な感もある。 [001-000]

JD2361840.5 宝暦4年4月5日 (1754/5/26)
4月5日 村田清兵衛、松坂に下向する。
[Y000557-000-000]

『在京日記』「四月五日、清兵衛下向」(宣長全集:16-40)。 [001-000]

JD2361845.5 宝暦4年4月10日 (1754/5/31)
4月10日 冷泉家に於いて当座歌会が開催される。
[Y000558-000-000]

この時の歌を『和歌の浦』第4冊に「宝暦四年戌四月十日冷泉家ニ而当座歌合」(宣長全集:14-623)として写す。書写年代は不明。 [001-000]

JD2361848.5 宝暦4年4月13日 (1754/6/3)
4月13日 村田伊兵衛、松坂に下向する。歌枕修行の勅使を偽った南宮左衛門が粟田口で梟となる。
[Y000559-000-000]

『在京日記』「十三日、伊兵衛下勢州矣」(宣長全集:16-40)。梟については同頁15日条末尾に付記される。 [001-000]

4月晦日付宣長宛村田光阿(清兵衛)差出書簡「伊兵衛義も長途無障致帰宅、久々ニ而智峯へも被致対面、悦被申候事ニ御座候」(宣長全集:別3-367・来簡69)。 [002-000]

JD2361850.5 宝暦4年4月15日 (1754/6/5)
4月15日 堀蘭沢、山田孟明、草深玄周と嵯峨二尊院、太秦広隆寺参詣。嵐山に遊ぶ。
[Y000560-000-000]

『在京日記』「十五日、与蘭沢公、山田氏、艸深氏、詣嵯峨二尊院、二尊院、従来至二十五日、本尊並足洩御影及什物等開帳焉、此時、太秦広隆寺太子像亦開帳焉、同参詣矣」(宣長全集:16-40)。開帳については3月15日条参照。 [001-000]

『石上稿』に当日の詠あり。詞書は「四月の比嵯峨の二尊院の仏おかませけるときかれこれまうて侍ける京極入道中納言の山庄の跡を時雨のちんとかやいひつたへてかの山にありけるを見にまかりて思ひつゝけ侍ける」「嵐山をなかめやりて」「大井河のけしきあかす覚えけれは」「川辺にてかれいひくひ酒のみなとしてしはしまとろみけるふとめさめて」「山河のけしきえならす見侍けるまゝ岸にそひてのほりける道ある程はなをゆかむとてのほるに世はなれ人け遠くなるまゝにいとゝおもしろく帰ることさへわすれて」「渡月橋のわたり月明き夜のさま思ひやりつゝいととかへりかてにして日(影)もやう/\西にかたふきける迄せうえうしありきけるかなを春の日のならひくれかたくいと名残おほくて家路におもむきける太秦なと過侍りて東の山のはよりいとはなやかに常より大きにてさし出たる月を見ける人々いとめつらかに見つゝはたかのわたりにてまちつけさりし事よといひゝ此心はやよめといひけれはとりあへす」で、この日の楽しい様子が窺える。(宣長全集:15-219)。 [002-000]

JD2361858.5 宝暦4年4月23日 (1754/6/13)
4月23日 母宛書簡を執筆する。
[Y000561-000-000]

4月28日、母、本居健蔵(宣長)宛書簡による。 [001-000]

JD2361859.5 宝暦4年4月24日 (1754/6/14)
4月24日 蘭沢、堀田清八女と再婚、この夜婚礼。
[Y000562-000-000]

『在京日記』「去月廿四日、正大夫【貞治改名】娶小堀十左衛門臣堀田清八女、此夜婚礼矣」(16-41・5月朔日条)。 [001-000]

JD2361863.5 宝暦4年4月28日 (1754/6/18)
4月28日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。帷子、縮等送り届けの事等。また追記に、23日付宣長書簡が到着、「いしや衆ノ方」へ出ることを喜び、「まこも」調達の依頼等を書く。
[Y000563-000-000]

(宣長全集:別3-320・来簡3)。 [001-000]

JD2361865.5 宝暦4年4月30日 (1754/6/20)
4月晦日(30日) 村田光阿(清兵衛)、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。文面は武川入門のことなど。
[Y000564-000-000]

(宣長全集:別3-367・来簡69)5月1日条参照。 [001-000]

JD2361866.5 宝暦4年5月1日 (1754/6/21)
5月1日 医術を学ぶため武川幸順法橋に入門する。夜、堀蘭沢婚礼。
[Y000565-000-000]

『在京日記』「五月朔日、入武川幸順法橋之門而修行医術矣、去月廿四日、正大夫【貞治改名】娶小堀十左衛門臣堀田清八女、此夜婚礼矣」(宣長全集:16-41)。 [001-000]

『家のむかし物語』「同四年五月より、武川幸順法眼の弟子となりて、くすしのわざをまなぶ、【此先生、南山先生と号す、世々児くすしにて、其業いよ/\盛に行はれ、後桃園天皇の、いまだ親王と申せし御ほどより、典薬としてつかうまつり給へりき、宣長、同年の十月より、かの室町四条の南なる家に寄宿せり、】(宣長全集:20-29)。 [002-000]

「寄宿弟子衆入門式」(武川支配人)が残る。法橋方には金子1両、御酒3升1樽、堅魚10節1連、法橋内証方、法眼方、法眼内証方各金子100疋、法橋舎弟、子息仙蔵方に各白銀2両、仙蔵内つ方に白銀2朱、若党方に白銀1両、惣家来中並びに出入の親方に鳥目150疋、以上が寄宿の中分式で、この他に、1ヶ月に寄宿飯料炭油諸雑用として銀子29匁、是は毎月晦日に支配人に銀で支払うこと、中元歳暮の祝儀として正月3日、7月16日に金子200疋、また挨拶料として惣家来男女共に一人あたり鳥目100文を遣わすように書かれる(宣長全集:19-解題7)。2ヶ月で寄宿料として1両弱かかることになる。 [003-000]

4月28日付母勝差出宣長宛書簡で、「いしや衆ノ方弥々御出候よし、めて度悦申候」(宣長全集:別3-320・来簡3)と書くのは、幸順への入門を指すか。 [004-000]

4月晦日付宣長宛村田光阿(清兵衛)差出書簡「然バ兼而得御相談候貴殿医行入学之義、藤伯老御セ話ニ而、武川氏え通ヒ修行之積ニ相成候由、先ハ一段之義ニ被存候、何様武川氏被申候様子、同苗より承候所、御尤之義ニ存候間、先通ヒ被致修行可然存候、併通ヒニ而は、外ニ物入等も可有之哉と、気毒存候」(宣長全集:別3-367・来簡69)。 [005-000]

幸順の墓は勝円寺にある。天保2年辛卯冬孫男幸順の再建で、墓石表「南山先生岱川君墓」と大書、裏面「考諱幸順、字建徳、世業医、幼俊邁募豪士風遊於景山屈先生之門、長益励学、執志勇壮、遍続方書深造其旨、遂以童科鳴於海内、明和中徴除東宮侍医進法眼、享保十年正月晦生、安永九年庚子三月念八寿五十六、南山其号也、不肖孤医官幸伯謹建」と記す(『京都名家墳墓録』)。宣長宛畑柳敬書簡には3月27日没とあり。安永9年(1780)4月14日条参照。 [006-000]

堀蘭沢の前妻は宝暦2年(1752)8月11日、出産直後に死去した。 [007-000]

JD2361867.5 宝暦4年5月2日 (1754/6/22)
5月2日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻7の改訓が終わる。
[Y000566-000-000]

奥書「右標註改点等、我景山屈先生所考加也、予以其自筆本写焉云爾、宝暦四年甲戌五月二日畢此一策矣、門生本居栄貞」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2361881.5 宝暦4年5月16日 (1754/7/6)
5月16日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡を、村田伊兵衛、清兵衛の上京の幸便により執筆。文面は、先だって送った帷子が届いたかの確認など。
[Y000567-000-000]

(宣長全集:別3-321・来簡4)。 [001-000]

JD2361884.5 宝暦4年5月19日 (1754/7/9)
5月19日 景山による『易学啓蒙』の講釈始まる。式日は2、7、4、9の日、後、5、10の日に改まる。
[Y000568-000-000]

『在京日記』「十九日、自今日、景山先生易学啓蒙講釈、以後以二七四九為式日、改為五十之日」(宣長全集:16-41)。 [001-000]

JD2361885.5 宝暦4年5月20日 (1754/7/10)
5月20日 伊兵衛、清兵衛、上京。母書簡を届けるか。
[Y000569-000-000]

『在京日記』「廿日、伊兵衛、清兵衛上京」(宣長全集:16-41)。5月16日条参照。 [001-000]

JD2361889.5 宝暦4年5月24日 (1754/7/14)
5月24日 6日からこの日まで二条河東で相撲。東関黒雲。西関源氏ガ滝。霊元院皇女薨去で28、29両日謹慎。
[Y000570-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-41)。源氏ケ滝は8月12日条の浜右衛門と同じか。 [001-000]

JD2361894.5 宝暦4年5月 (1754/7/19)
5月 『竹園抄』を書写する。
[Y000571-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「五月 一、竹園抄 一 同(写)」(宣長全集:20-397)。藤原為顕著。鎌倉時代の歌学書。 [001-000]

JD2361895.5 宝暦4年6月1日 (1754/7/20)
6月1日 日延べになった祇園神輿洗いが行われる。
[Y000572-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-41)。 [001-000]

JD2361897.5 宝暦4年6月3日 (1754/7/22)
6月3日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆し、書簡2通到着、武川氏への精勤、袷、羽織のこと、「まこも」の件、また小泉見庵上京等を報じる。
[Y000573-000-000]

(宣長全集:別3-321・来簡5)。宣長が見庵と対面したのは9月18日である。 [001-000]

JD2361904.5 宝暦4年6月10日 (1754/7/29)
6月中旬 「名所百首」詠み始める。
[Y000574-000-000]

『鈴屋百首歌』第1冊所収。巻首「同年夏 自六月中旬始之 詠名所百首 因用京極黄門名所百首之題」(宣長全集:18-120)。詠み終わったのは翌年8月15日。 [001-000]

JD2361914.5 宝暦4年6月20日 (1754/8/8)
6月下旬 諸国で雨乞いの噂を聞く。
[Y000575-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-41)。 [001-000]

JD2361933.5 宝暦4年7月10日 (1754/8/27)
7月10日 『梁塵愚案抄』2冊を購求する。
[Y000576-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「七月十日 一 梁塵愚案抄 二 二匁四分」(宣長全集:20-397)。記念館に師説として真淵説を上巻5箇所、下巻12箇所に書き入れた宣長手沢本が存する。題箋「【新板】梁塵愚案抄」、刊記「元禄二己巳九月中旬書林大坂順慶町一丁目筋田原屋平兵衛梓」。 [001-000]

JD2361941.5 宝暦4年7月18日 (1754/9/4)
7月18日 藤重藤伯、本藩である阿波に下る。
[Y000577-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-41)。2月4日にも下向記事が載る一旦上京していたか。 [001-000]

JD2361946.5 宝暦4年7月23日 (1754/9/9)
7月23日 伏見貞建親王薨去で24日まで3日間謹慎。母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。宣長からの書簡の無いことを詰り、医者の修行に専心するように諭す。また、「盆後ニ成候ハハ、おいしや様方へ越し申され候よし承申候」とあるのは、武川幸順宅への寄宿を指すか。
[Y000578-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-41)。 [001-000]

(宣長全集:別3-322・来簡6)。幸順宅への寄宿は10月10日。 [002-000]

JD2361951.5 宝暦4年7月28日 (1754/9/14)
7月28日 村田清兵衛上京する。
[Y000579-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-41)。 [001-000]

JD2361965.5 宝暦4年8月12日 (1754/9/28)
8月12日 二条河東で相撲始まる。東関は片雄波長大夫、西関は源氏ケ滝浜右衛門。
[Y000580-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-41)。 [001-000]

JD2361968.5 宝暦4年8月15日 (1754/10/1)
8月15日 大月食は大雨で見えなかったがその時間の闇は常に過ぎるものがあった。雷鳴る。
[Y000581-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-42)。 [001-000]

JD2361971.5 宝暦4年8月18日 (1754/10/4)
8月18日 山田孟明、横関斎、草深玄周と三井寺に観月。三井寺の柏木屋に泊まる。
[Y000582-000-000]

『在京日記』「十八日、与山田周蔵、横関斎、草深玄周、如三井寺而見月矣、過山中越而至辛崎観松、然後、至三井寺高観音宿柏木屋、此亭甚便於観月矣」(宣長全集:16-42)。 [001-000]

『石上稿』に当日の詠あり。詞書に「八月十八日に孟明嗣忠玄周なとかひつらねて三井寺へまかりて湖の月見むとてまかりける白河を過て志賀の山路にかかり侍りける」「志賀の山こえのあたりにて」「辛崎の松を」「かくて三井寺にいたりて観音堂の前なる屋に屋とをかり侍る湖にのそみていとおもしろき所也けるとかくするうちに月いとはなやかにさし出たり」「鏡山もいとよう見えたり」「秋のよなからはやく明ぬ朝ほらけのけしきはたいはむかたなし」とある。 [002-000]

JD2361972.5 宝暦4年8月19日 (1754/10/5)
8月19日 帰宅。
[Y000583-000-000]

『在京日記』「由小関越帰郷、両日皆晴天、月殊朗矣」(宣長全集:16-42)。 [001-000]

JD2361974.5 宝暦4年8月21日 (1754/10/7)
8月21日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。母の兄の審誉上人が江戸より松坂に来て、やがて上京のこと、洗濯物のこと、おやつの琴の件、「両家」(堀、武川か)への中元としてうどん粉、かんぴょうを送ったこと、またあられを送ること等を記す。
[Y000584-000-000]

(宣長全集:別3-323・来簡7)。 [001-000]

JD2361976.5 宝暦4年8月23日 (1754/10/9)
8月23日 山村吉右衛門上京。
[Y000585-000-000]

『在京日記』「先日、山村吉右衛門上京」(16-42・8月24日条)。但し、対面は9月18日。宝暦1年(1752)7月20日死去した山村通庵<寛延1年(1748)閏10月15日条参照>の養子か。通庵の子は「山村吉右衛門 後為医号要軒、有女子二人」(『本居氏系図』「歴代諸妣伝 山村氏略系」20-120)と記される。 [001-000]

JD2361977.5 宝暦4年8月24日 (1754/10/10)
8月24日 審誉上人上京。対面するか。
[Y000586-000-000]

『在京日記』「廿四日、江戸真乗院審誉上人上京」(宣長全集:16-42) [001-000]

審誉上人は母の兄で、幼児より僧となり、詳蓮社審誉上人酉阿直入察然大和尚と称し、江戸増上寺の走誉大僧正の徒弟となり、後、文昭院殿(六代将軍家宣)御霊廟別当真乗院の第一世主となる。宝暦13年(1763)2月隠居し、明和1年(1764)2月28日寂。享年64歳。なお、この上京は、同月25日の知恩院宮尊峯法親王(桜町天皇養子)御入室と関係あるか。 [002-000]

8月21日条、9月3日条参照。 [003-000]

JD2361978.5 宝暦4年8月25日 (1754/10/11)
8月25日 知恩院宮尊峯法親王(桜町天皇養子)御入室。
[Y000587-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-42)。 [001-000]

JD2361985.5 宝暦4年9月3日 (1754/10/18)
9月3日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。書簡2通の礼と審誉上人との対面の件、羽織の件、琴の件の念押し等を書く。
[Y000588-000-000]

(宣長全集:別3-325・来簡8)。 [001-000]

JD2361987.5 宝暦4年9月5日 (1754/10/20)
9月5日 2月18日再上京した草深玄周が再び津に帰る。宣長尺牘、和歌を贈る。「草深玄周帰国九月五日発足送之歌並序」、「送草敬所帰勢州」、「与艸敬所書」はその作か。
[Y000589-000-000]

『在京日記』「九月五日、草深玄周還干勢州矣、以尺牘並和歌送之」(宣長全集:16-42)。 [001-000]

『石上稿』「草深玄周帰国九月五日発足送之歌並序」(宣長全集:15-221)。 [002-000]

『詩文稿』「送草敬所帰勢州」(宣長全集:18-4)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [003-000]

「与艸敬所書」(草深謙光宛書簡)(17-5・書簡1)。 [004-000]

JD2361988.5 宝暦4年9月6日 (1754/10/21)
9月6日 審誉上人伊勢下向。
[Y000590-000-000]

『在京日記』「六日、江戸真乗院審誉上人下向勢州矣〔九月〕上旬、知恩院大僧正遷化」(宣長全集:16-42)。 [001-000]

JD2361995.5 宝暦4年9月13日 (1754/10/28)
9月13日 観月、詠あり。
[Y000591-000-000]

『在京日記』「十三日、月殊清明矣」(宣長全集:16-42)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠有り。詞書に「九月十三夜月いとさやけし」(宣長全集:15-221)。 [002-000]

JD2361999.5 宝暦4年9月17日 (1754/11/1)
9月17日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。昨日審誉上人が松坂を発ったこと、着替えのこと、琴の件の念押しと妹はん、やつ(しゅん)の縁談のことなど報じる。
[Y000592-000-000]

(宣長全集:別3-326・来簡9)。 [001-000]

JD2362000.5 宝暦4年9月18日 (1754/11/2)
9月18日 上京中の小泉見庵が訪問。山村吉右衛門が訪問。
[Y000593-000-000]

『在京日記』「十八日、小泉見庵来見焉、夏以来在京、今日始来也、山村吉右衛門来見矣、是亦八月上京矣、今日始見也」(宣長全集:16-42)。 [001-000]

共に松坂の医者。小泉の上京は6月3日、山村の上京は8月23日各条参照。 [002-000]

JD2362009.5 宝暦4年9月27日 (1754/11/11)
9月27日 母宛書簡執筆。景山門人田中常悦の男允斎、難波より上京し寄宿する。
[Y000594-000-000]

10月13日付母差出書簡(宣長全集:別3-328・来簡11)。 [001-000]

『在京日記』「廿七日、田中允斎自難波上京矣、寄宿先生家」(宣長全集:16-42)。宝暦7年(1757)6月30日没。享年20余り。 [002-000]

JD2362010.5 宝暦4年9月28日 (1754/11/12)
9月28日 『日本紀』9冊、『蜻蛉日記』8冊、『藤経衡集』1冊、『為家後撰集』1冊、『馬内侍集』1冊を購求する。
[Y000595-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「九月廿八日 一 日本紀 九 十三匁 同 一、蜻蛉日記 八 十七匁五分 一、藤経衡集 一 五分、同 一、為家後撰集 一 五分、同 一、馬内侍集 一 五分」(宣長全集:20-397)。 [001-000]

『藤経衡集』奥書「這一巻雇達賢書写畢、元文二年巳十月中完、樋口宗武、元文二年丁巳冬十二月以樋口氏本謄了、小重好」、『為家後撰集』内題「中院入道大納言為家卿三代集口伝」「後撰集抄」、奥書「寛保癸亥秋九月二十八日、重好」、『馬内侍集』奥書「天王寺神主松本氏之本、馬内侍相模、康資王母殷富門院大輔、後堀川院民部卿典侍、五人之集を一冊とせり、享保三年戊戌五月下旬、樋口宗武、寛保辛酉六月七日、野重好」。購求5点中の三つが小野田重好本であることは注目に値する。またこの直後10月3日、『蜻蛉日記』を小野田本で校合しているのも関係有るか。樋口宗武は11月条参照。 [002-000]

JD2362011.5 宝暦4年9月29日 (1754/11/13)
9月29日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。村田智芳尼の上京(10月27日まで京都に滞在)時に間に合わなかった品や書簡を送るとあり、琴の件の念押し、羽織のこと。なお、この書簡は1日出の飛脚で出された(10月13日付母差出書簡)。
[Y000596-000-000]

(宣長全集:別3-327・来簡10)。 [001-000]

JD2362012.5 宝暦4年10月1日 (1754/11/14)
10月上旬 村田智芳上京する。
[Y000597-000-000]

智芳は伊兵衛の母、10月27日下向。同日条参照。宝暦5年(1755)7月18日没。 [001-000]

JD2362014.5 宝暦4年10月3日 (1754/11/16)
10月3日 『蜻蛉日記』を小野田重好校合本で校合、書入する。
[Y000598-000-000]

奥書「右日記全篇以野重好本校正之雖一字而不敢加臆断矣唯本之従耳、宝暦四年甲戌十月三日、神風伊勢意須比飯高本居栄貞」。小野田本は元文5年11月既望に海北若冲本(元禄9年4月14日契沖奥書本の写本)で校合したもの。9月28日参照。 [001-000]

JD2362018.5 宝暦4年10月7日 (1754/11/20)
10月7日 堀景山に随行、堀蘭澤、横関斎、田中允斎等と洛東の白川照高院御殿御庭拝見、蘭澤の前妻の父鳥居小路大蔵卿法印同道。
[Y000599-000-000]

『在京日記』「七日、与正大夫、斎、允斎、従先生拝見白川照高院御殿御庭矣、御庭前山有暴布池水、其辺楓樹、紅葉甚美観也、鳥居小路大蔵卿法印亦同道、皆有詩歌」(宣長全集:16-43)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠が載る。詞書「景山先生正亮嗣忠允斎なと倶に白川照高院宮の御殿御庭なと見奉りけるによみて奉りける比は長月になん有ける並序、御前栽に滝おちたるわたりに思ひかけすいと濃なる紅葉の色なと目もあやに見奉る」(宣長全集:15-221)。 [002-000]

『詩文稿』「題照高大王台池」(宣長全集:18-4)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [003-000]

照高院は洛東白川に興意法親王(1576〜1620・陽光院太上天皇の御子)が寺領千石を賜り創建した寺。道晃法親王(1612〜79)遷化の後、聖護院の兼帯となる。 [004-000]

JD2362021.5 宝暦4年10月10日 (1754/11/23)
10月10日 武川幸順塾に寄宿する。
[Y000600-000-000]

『在京日記』「十月十日、寄宿武川法橋所矣」(宣長全集:16-43)。寄宿の規約は5月1日条参照。 [001-000]

JD2362024.5 宝暦4年10月13日 (1754/11/26)
10月13日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆し、27日付書簡到着のこと、琴の件、綿入れのこと、与三兵入り用の綿入れのことを報ずる。
[Y000601-000-000]

(宣長全集:別3-328・来簡11)。 [001-000]

JD2362026.5 宝暦4年10月15日 (1754/11/28)
10月15日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。琴代金送金のこと、与三兵入り用の紬の綿入れのことで伊兵衛や手代のことを考え苦慮することを伝える。
[Y000602-000-000]

(宣長全集:別3-329・来簡12)。文中、荷物が未着なら山城屋に確認するよう伝えるが、この飛脚屋はその後も名前が見える。『宝暦咄し』地図「西町二丁目」に、「飛脚屋、山城源右衛門」が見える(『松阪市史』・9-178)。その京における関係であろう。 [001-000]

JD2362026.5 宝暦4年10月15日 (1754/11/28)
10月15日頃 藤重藤俊一周忌の追慕歌を阿波の藤伯に送るか。
[Y000603-000-000]

『石上稿』に詠あり。詞書に「藤重藤俊一周忌に藤伯の阿波国にありけるかもとへよんて遣しける」(宣長全集:15-221)。 [001-000]

JD2362027.5 宝暦4年10月16日 (1754/11/29)
10月16日 母宛書簡執筆。
[Y000604-000-000]

10月22日付母差出書簡(宣長全集:別3-330・来簡13)に拠る。 [001-000]

JD2362031.5 宝暦4年10月20日 (1754/12/3)
10月20日 この日から嶋原廓内に芝居小屋が出来た。
[Y000605-000-000]

『在京日記』「自廿日、於嶋原廓中有戯場」(宣長全集:16-43)。 [001-000]

JD2362033.5 宝暦4年10月22日 (1754/12/5)
10月22日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。尚々書のみ現存する。文面は、16日付書簡到着のこと、琴代金送金のこと。
[Y000606-000-000]

(宣長全集:別3-330・来簡13)。 [001-000]

JD2362033.5 宝暦4年10月22日 (1754/12/5)
某月某日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。
[Y000607-000-000]

(宣長全集:別3-330・来簡14)。全集補注では「したいニひやゝかに成候間」云々とあるので、初冬十月か、また「いしや衆方へ参候て、間もなく下り候もいかゝのよし申され候」とあるので、宝暦4年(1754)10月10日に武川幸順宅に寄宿後、間もない頃と推定する。 [001-000]

JD2362038.5 宝暦4年10月27日 (1754/12/10)
10月27日 村田氏智芳尼と清兵衛松坂に下向する。
[Y000608-000-000]

『在京日記』「廿七日、村田氏智芳、清兵衛下向勢州、智芳尼、此月上旬上京也」(宣長全集:16-43) [001-000]

JD2362045.5 宝暦4年11月4日 (1754/12/17)
11月4日 大西庸軒、田中允斎と『本草綱目』(李時珍)会読を始める。戒日は2、7、4、9の夜。
[Y000609-000-000]

『在京日記』「十一月、自四日夜、与大西庸軒、田中允斎、会読本草綱目、以二七四九之夜、為戒日矣」(宣長全集:16-43) [001-000]

JD2362047.5 宝暦4年11月6日 (1754/12/19)
11月6日 中川升平宅にて『歴史綱鑑補』会読開始。参加者、升平、高村好節、秋岡貞蔵、清水吉太郎等。戒日は5、10の日。
[Y000610-000-000]

『在京日記』「自六日、於中川升平宅会読袁氏歴史綱鑑、戒日則五十之日也、会人者、升平、高村好節、秋岡貞蔵、清水吉太郎等」(宣長全集:16-43) [001-000]

あるいは再開か。閏2月4日参照。 [002-000]

中川は宝暦2年11月24日条に見える。 [003-000]

JD2362050.5 宝暦4年11月9日 (1754/12/22)
11月9日 河東の娼妓の華美な服装禁止令が出たが数日で元に戻ったことを記し、また芝居が不評なこと、一方、竹本座は評判であることを記す。
[Y000611-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-43) [001-000]

この時の竹本座の興行を『義太夫年表』では、「恋女房染分手綱」かと推定する。 [002-000]

JD2362060.5 宝暦4年11月19日 (1755/1/1)
11月19日 母宛書簡執筆か。
[Y000612-000-000]

12月6日付母勝差出宣長宛書簡による。 [001-000]

JD2362061.5 宝暦4年11月20日 (1755/1/2)
11月下旬 来年亥の年から土御門泰邦による新暦を用いるという改暦の令がある。
[Y000613-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-43)。宝暦の改暦については『日本の天文学-占い・暦・宇宙観-』中山茂(朝日文庫・P80) [001-000]

JD2362061.5 宝暦4年11月20日 (1755/1/2)
11月下旬 小泉見庵、松坂に帰る。
[Y000614-000-000]

『在京日記』「下旬、小泉見菴下向勢州」(宣長全集:16-43)。 [001-000]

JD2362070.5 宝暦4年11月 (1755/1/11)
11月 樋口宗武死去。享年81歳。
[Y000615-000-000]

『契沖全集』「契沖年譜」。また『近世畸人伝』「契沖」の項に「京師に樋口主水といへるは、似閑門人なるよし。此家に代匠記の善本、又講説を書入し万葉集など蔵せるよし。二十年前に自火に焼亡す。惜むべし。印行の改観抄は此樋口氏、屈景山子にはかりて校合せる所なり。写本に合せては其功見ゆ」(東洋文庫本・P115)とある。同書後注に「国学者。名、宗武。号、花月堂。延宝二年(一六七四)生。京都の人。公卿千種有敬の家来。青蓮院流の書家。今井似閑蔵本を上賀茂社に納入するに尽力。宝暦四年(一七五四)十一月没。年八十一。著書『花月堂文』」と記す。 [001-000]

JD2362076.5 宝暦4年12月6日 (1755/1/17)
12月6日 母、村田光阿(清兵衛)それぞれ別に本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。清兵衛は金子が届いたかを尋ね倹約を勧める。母は隠居家縁談の件を報ずる。
[Y000616-000-000]

(宣長全集:別3-331・来簡15・別3-368・来簡70)。 [001-000]

JD2362077.5 宝暦4年12月7日 (1755/1/18)
12月7日 下河原佐野屋に参会する。詩会であろうか。集まったのは堀景山、堀蘭澤、山田孟明、福永源兵衛、横関斎、片岡吾一郎、岡本知安、岡本幸俊、岡本幸治、僧恵雲、上柳藤五郎、高村好節、宣長等。
[Y000617-000-000]

『在京日記』「十二月七日、参会下河原佐野屋、景山先生、正大夫、山田周蔵、福永源兵衛、横関斉、片岡吾一郎、岡本知安、岡本幸俊、岡本幸治、僧恵雲、上柳藤五郎、高村好節、余等也」(宣長全集:16-43)。 [001-000]

片岡吾一郎、宝暦6年(1756)1月24日条に、紀州藩京留守居役の子息で、年頃心やすく交わる。また青楼を好むと書かれる。 [002-000]

上柳藤五郎。名は敬基。字は公簡。号は牧斎。朱子学者上柳敬、号四明の子。寛政4年(1792)1月11日没。享年56歳。『京都名家墳墓録』に上柳四明の墓誌に「先考四十八年、以寛保三年癸亥八月十三日終、生一男、不肖即是也、考晩年単称啓四明其号也、不肖孤敬基謹誌」とあるという。没年が正確ならば弱冠7歳の筆となる。なお墓は勝円寺で武川幸順墓の北に並び東面していると書かれている。 [003-000]

JD2362078.5 宝暦4年12月8日 (1755/1/19)
12月8日 景山による『史記』会読が終わる。
[Y000618-000-000]

開始は宝暦2年(1752)5月1日。 [001-000]

『在京日記』「八日、屈先生史記会読功畢」(宣長全集:16-43)。 [002-000]

JD2362080.5 宝暦4年12月10日 (1755/1/21)
12月10日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。歳暮であろうか、肴いな30を送るので両家に遣わすよう伝える。
[Y000619-000-000]

(宣長全集:別3-332・来簡16)。「いな」は鯔の幼魚か。 [001-000]

JD2362082.5 宝暦4年12月12日 (1755/1/23)
12月12日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。11日差出(10日付書簡か)の薦包到着の伺いと衣類送付などのことを記す。
[Y000620-000-000]

(宣長全集:別3-332・来簡17)。 [001-000]

JD2362083.5 宝暦4年12月13日 (1755/1/24)
12月13日 母宛書簡執筆。妹しゅん、本町隠居家小津英昌との縁談につき、その姉はんの立場を察し、意見を述ぶ。
[Y000621-000-000]

(17-5・書簡2)。 [001-000]

JD2362086.5 宝暦4年12月16日 (1755/1/27)
12月16日 堀景山、蘭沢、横関斎と内侍所御神楽拝見。母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。衣類等送ったことと縁談のことで苦慮することを伝える。
[Y000622-000-000]

『在京日記』「夜、与屈先生、正大夫、斎供拝見内侍所御神楽」(宣長全集:16-44)。 [001-000]

(宣長全集:別3-333・来簡18)。 [002-000]

JD2362096.5 宝暦4年12月26日 (1755/2/6)
12月26日 母宛書翰執筆か。
[Y000623-000-000]

1月5日付母勝差出宣長、与惣兵衛両名宛書簡による。 [001-000]

JD2362100.5 宝暦4年 (1755/2/10)
宝暦4年 『和字大観抄』(2巻2冊・文雄著)刊。
[Y000624-000-000]

文雄(1700〜63)は、『磨光韻鏡』等で知られる『韻鏡』学者。 [001-000]

宣長による本書からの引用は、 [002-000]

1,「日本音韻開合仮名反図」書写。奥書「右五十字音図者無相子所著和字大観鈔所載也 芝蘭写」(『本居家新規寄贈品目録』・P149)。「芝蘭」は宝暦3年(1753)11月条参照。 [002-001]
2,『かなつかひ』(宝暦元年11月中旬執筆)の欄外に『和字大観抄』説を書き写す。 [002-002]
3,『本居宣長随筆』第2冊に、『和字大観抄』説を書き写す(宣長全集:13-77)。 [002-003]
4,『経籍』に「和字大観鈔【二ワ文雄】」(宣長全集:20-624)。本文には余り知られていないと言う印が付く。 [002-004]

JD2362100.5 宝暦4年 (1755/2/10)
宝暦4年 『和歌の浦』第4冊に「宝暦四年戌四月十日冷泉家ニ而当座歌合」書き写すか。
[Y000625-000-000]

(宣長全集:14-623)。 [001-000]

JD2362100.5 宝暦4年 (1755/2/10)
宝暦4年 同年詠として『石上稿』に110首載せる。他に「名所百首」の内冒頭23首、「恋百首」末64首、「百首」歌を一度詠む。
[Y000626-000-000]


前へ / 次へ / indexへ