前へ / 次へ / indexへ


JD2362130.5 宝暦5年1月 (1755/3/12)
宝暦5年(1755)乙亥 宣長26歳。勝51歳、はん24歳、しゅん16歳
[Y000627-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

在京4年目。3月、稚髪し名を宣長と改め春庵と号す。医者としての許しをもらったのであろうか。 [001-001]

JD2362105.5 宝暦5年1月5日 (1755/2/15)
1月5日 母、本居健蔵(宣長)、村田与惣兵衛両名宛書簡執筆。文面は賀状。
[Y000628-000-000]

(宣長全集:別3-333・来簡19)。 [001-000]

JD2362106.5 宝暦5年1月6日 (1755/2/16)
1月6日 村田光利(権右衛門)、光阿(清兵衛)連署で、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。賀状と妹縁談の件。
[Y000629-000-000]

(宣長全集:別3-368・来簡71)。 [001-000]

JD2362121.5 宝暦5年1月21日 (1755/3/3)
1月21日 景山塾会始め。『前漢書』会読「霍光伝」より始まる。会日は5、10の日。
[Y000630-000-000]

『在京日記』「廿一日、屈家会読始、前漢書自霍光伝読焉、自今以五十之日期会矣」(宣長全集:16-44)。 [001-000]

JD2362127.5 宝暦5年1月27日 (1755/3/9)
1月27日 『本草綱目』会読始まる。会日は2、7の夜。
[Y000631-000-000]

『在京日記』「廿七日、夜、始本艸会読矣、以二七之夜為期」(宣長全集:16-44)。 [001-000]

JD2362130.5 宝暦5年1月30日 (1755/3/12)
1月晦日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。用事がなければ金もかかることゆえ帰郷しなくてもよいと言う。縁談続報と金の工面をして年を越したことを報ずる。
[Y000632-000-000]

(宣長全集:別3-334・来簡20)。 [001-000]

JD2362133.5 宝暦5年2月3日 (1755/3/15)
2月3日 母宛書翰執筆か。
[Y000633-000-000]

2月10日付母勝差出宣長宛書簡による。 [001-000]

JD2362136.5 宝暦5年2月6日 (1755/3/18)
2月6日 村田伊兵衛、松坂に下向する。
[Y000634-000-000]

『在京日記』「二月六日、村田伊兵衛下向勢州」(宣長全集:16-44)。 [001-000]

JD2362138.5 宝暦5年2月8日 (1755/3/20)
2月8日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻8の改訓が終わる。
[Y000635-000-000]

奥書「右標註改点等、我景山屈先生所考加也、予以其自筆本写之云爾、宝暦四年甲戌五月二日畢此一策矣、門生本居栄貞」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2362140.5 宝暦5年2月10日 (1755/3/22)
2月10日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。文面は着物のこと、縁談続報。
[Y000636-000-000]

(宣長全集:別3-334・来簡21)。 [001-000]

JD2362143.5 宝暦5年2月13日 (1755/3/25)
2月13日 古医法の大家香川太冲が没したことを『在京日記』に書き記す。
[Y000637-000-000]

『在京日記』「去二月十三日、一本堂修徳先生香川太冲没、七十三、同廿五日、葬嵯峨二尊院」(16-44・3月3日条の後)。 [001-000]

香川太冲、修庵と号す。播磨の人。伊藤東涯に儒学を学び、京都における古医方の大家であった。「送藤文輿還肥序」に、「頃者、本邦の医人、往々、素霊陰陽旺相五行生剋の説を以て迂誕と為し、擯けて棄つ。甚しきは、五臓六腑、十二経路の目を廃するに至る。蓋し、後藤氏首めて之を倡へ香川氏之を継ぐ。而して其の論、千古に卓絶する。盛言なるにおいてをや。然れども言ふ所は率ね其の臆に出づれば、則ち未だ必ずしも謬誤無くんばあらず」とある。 [002-000]

JD2362162.5 宝暦5年3月2日 (1755/4/13)
3月2日 母宛、村田清兵衛宛書簡執筆。改名、稚髪を報じるか。
[Y000638-000-000]

3月21日付母差出、3月22日付村田清兵衛差出宣長宛書簡に拠る。 [001-000]

JD2362163.5 宝暦5年3月3日 (1755/4/14)
3月3日 稚髪し、名を宣長と改め、号を春庵と称し、十徳を着用する。
[Y000639-000-000]

『在京日記』「三月三日、為稚髪、更名曰宣長、更号曰春菴常相呼矣」(宣長全集:16-44)。 [001-000]

3月12日付母勝書簡「一、そもじ殿事も、いしや相ぞくの心がけにて、名も御改、十徳、節供より著被申候由。めでたく悦申候」。 [002-000]

『家のむかし物語』「同五年三月、健蔵を改めて春庵と号し、名を宣長とあらたむ」(宣長全集:20-29)。 [003-000]

「春菴」は、「蕣菴」、「舜菴」とも書くが、「蕣」の文字の使用は宝暦5年(1755)から宝暦9年(1759)までの自著に見える(宣長全集:18-解題60)。 [004-000]

「稚髪」は「薙髪」であろう。普通、頭を剃り法体となることを言うが、ここでは髻を切り総髪とした髪型であろう。月代を伸ばし始めたのは宝暦3年(1753)9月中旬。 [005-000]

JD2362172.5 宝暦5年3月12日 (1755/4/23)
3月12日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆し、医者相続を喜ぶ。脇差し羽織のことなど記す。
[Y000640-000-000]

(宣長全集:別3-335・来簡22)。「本居春庵老」と言う宛名の初見。 [001-000]

JD2362174.5 宝暦5年3月14日 (1755/4/25)
3月14日 堀蘭沢の妻男児出産。貞治と命名。
[Y000641-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-44)。 [001-000]

JD2362178.5 宝暦5年3月18日 (1755/4/29)
3月18日 母宛書簡執筆か。
[Y000642-000-000]

3月25日付母勝差出宣長宛書簡による。 [001-000]

JD2362170.5 宝暦5年3月10日 (1755/4/21)
3月中旬 高台寺に花見に行く。
[Y000643-000-000]

『石上稿』に当日詠あり。詞書に「弥生十余日高台寺の花見にまかりけるに空くもり神なり侍けるか程なくはれぬれは」(宣長全集:15-222)。 [001-000]

JD2362181.5 宝暦5年3月21日 (1755/5/2)
3月21日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。
[Y000644-000-000]

(宣長全集:別3-336・来簡23)。 [001-000]

JD2362183.5 宝暦5年3月23日 (1755/5/4)
3月23日 村田清兵衛、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。改名を喜び脇差しを送ったことを報じ、節約を勧める。
[Y000645-000-000]

(宣長全集:別3-368・来簡72)。脇差しについては3月12日母差出書簡に清兵衛にも相談すると見えるのでそれを受けての対応であろう。 [001-000]

JD2362185.5 宝暦5年3月25日 (1755/5/6)
3月25日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。下向についての意見などを伝える。
[Y000646-000-000]

(宣長全集:別3-337・来簡24)。 [001-000]

JD2362188.5 宝暦5年3月28日 (1755/5/9)
3月28日 堀景山、堀蘭澤、山田孟明、嗣忠等と舟で宇治川逍遥。
[Y000647-000-000]

『在京日記』「廿八日、与景山先生、蘭澤公、孟明、嗣忠等、船逍遥于宇治川逍遥」(宣長全集:16-45)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠あり。詞書に「三月末つかたかれこれ舟にて宇治へまかりけるにあしたの程鴨川の高瀬さしくたす程は空うちくもり雨ふりなんけしきなりけれはみな人くちおしう思ひけるに京はなるゝころよりやう/\空はれゆけは」(宣長全集:15-222)とある。 [002-000]

JD2362180.5 宝暦5年3月20日 (1755/5/1)
3月下旬 『武者小路儀同三司謌』を書写する。
[Y000648-000-000]

奥書「実蔭卿の歌おほくあつめたる物をよみ侍るに見過しかたきふたつみつ記しをかはやと思ふ程にこれもかれものこしかたく其うへにきゝなれすよにめつらかなる言の葉なと書うつし侍しかはすゝろにふたもゝち余りに成ぬ、ころは宝暦五のとしやよひ末つかたになん侍りける、神風伊勢意須比飯高、清春菴本居宣長記」。 [001-000]

遙か後年、享和1年(1801)4月5日の事だが、武者小路実陰(1661〜1738)の歌論聞書『磯の波』(似雲編)に、宣長は跋を書く。享和1年(1801)4月5日条参照。中に実陰に対する宣長の評あり。実陰については、記念館に「武者小路実陰卿五首詠草」あり。「実陰上」として「寒夜明月、浦鶴千鳥、水鳥多、篠上霰、遠山雪」で詠む(小津茂右衛門旧蔵)。その伝は「武者小路家の人々-実陰を中心に-」鈴木淳『近世堂上和歌論集』(明治書院)参照。 [002-000]

JD2362190.5 宝暦5年4月1日 (1755/5/11)
4月初旬 安井に藤見物に行く。
[Y000649-000-000]

『石上稿』に当日詠あり。詞書に「卯月の始つかた安井の藤の花見にまかりたれは杜若も今をさかりに咲匂ひける」(宣長全集:15-222)とある。安井門跡(東山区毘沙門寺町・下弁天町)の境内は「此前庭、紫藤繁延、花開時、男女群観、世人、不知真性院之号、寺称藤寺」(『雍州府志』)、また「古より藤の名所」(『都花月名所』)であった。 [001-000]

JD2362197.5 宝暦5年4月8日 (1755/5/18)
4月8日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻9の改訓が終わる。
[Y000650-000-000]

奥書「右鼇頭旁註訓点等、皆是景山先生所是正也、予以其自筆本改正之云爾、宝暦五年乙亥四月八日、本居春庵清宣長謹書」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2362203.5 宝暦5年4月14日 (1755/5/24)
4月14日 小津貞正女おげん没。
[Y000651-000-000]

『在京日記』「十四日、夜勢州小津貞正女於源没」(宣長全集:16-45)、貞正等については不詳。翌15日付母書状で知ったのであろうか。 [001-000]

JD2362204.5 宝暦5年4月15日 (1755/5/25)
4月15日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。脇差、帷子のこと、宣長の京住まいについての不平に対する意見、小津貞正女於源没等
[Y000652-000-000]

(宣長全集:別3-338・来簡25)。 [001-000]

『和漢三才図会』「通俗夏月必用の衣を凡そ帷子と名づく、端午より九月朔日に至るまでこれを著る。端午には浅葱を用いて七夕八朔には白帷子を用て近代士庶人の通例也」 [002-000]

JD2362209.5 宝暦5年4月20日 (1755/5/30)
4月20日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。浅黄帷子、白帷子新調のものを送ったので節句に着るよう、また洗濯物を送るように言う。
[Y000653-000-000]

(宣長全集:別3-339・来簡26)。 [001-000]

JD2362212.5 宝暦5年4月23日 (1755/6/2)
4月23日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。20日に飛脚で送った物を山城屋で受け取ったか尋ね、黒縮緬の羽織代はこちらで出すこと、また節約を言う。
[Y000654-000-000]

(宣長全集:別3-339・来簡27)。山城屋は{宝暦4年}10月15日条参照。 [001-000]

JD2362219.5 宝暦5年4月30日 (1755/6/9)
4月30日 『倭語通音』(『日本書紀通証』)を書写する。
[Y000655-000-000]

奥書「右倭語通音図者谷川氏所撰日本書紀通証所載也、頗有発明、故今写之以備後考云、宝暦乙亥孟夏晦日 本居春菴記」(『本居家新規寄贈品目録』・P152)。 [001-000]

『経籍』に本書の名が見える。「行余医言【ワイ香川】、和字大観鈔【二ワ文雄】、日本書紀通証【ワ史卅五谷川士清】」と並んでいるが、『和字大観鈔』が前年の刊行で、『行余医言』の香川がこの年の2月13日に没したことを併せ考えると、これらの書名の記載も同じ頃か。 [002-000]

『日本書紀通証』を『本居宣長随筆』第2冊に抜書したのもこの頃か。この推測により『本居宣長随筆』第2冊のそれまでの引用書目の概略を挙げる。『王維詩集』・「林道春作阿部仲麻呂伝」、以上2点が人見ト幽著『土佐日記附註』からの転載であることは{宝暦3年}2月2日条参照。『小補韻会』・『宋史日本伝』・『不尽言』・『説郛』・『兼明書』・『希通録』・「唐書東夷列伝」・「同西域列伝」・『漢書』・『荘子』・『老子』・『淮南子』・『(荻生徂徠)答問書』・『晋書』・『明霞遺稿』・『揚子法言』・『後漢書』・『孔子家語』・『円機活法』・『遊仙窟』・『和字大観抄』・『朝鮮太平記』・『帝城景物略』・『日本書紀通証』となる。雑多なようであるが、一つの傾向として「日本伝」つまり海外から見た日本という視点がある。『淮南子』・『揚子法言』・『孔子家語』・『遊仙窟』は『荘子摘腴、列史抜萃、筍子摘萃、老子、雑抄』の中に引かれる書目でもあるし、それに『円機活法』を加えると『和歌の浦』第5冊41丁から50丁までの引用書目となる。この時期の読書の領域と見てよいのではないか。 [003-000]

JD2362229.5 宝暦5年5月10日 (1755/6/19)
5月中旬 村田伊兵衛上京する。
[Y000656-000-000]

『在京日記』「中旬、村田伊兵衛上京」(宣長全集:16-45)。 [001-000]

JD2362248.5 宝暦5年5月 (1755/7/8)
5月 月が改まっても余寒なお厳しく、朝や暮れには綿入衣を着すほどである。
[Y000657-000-000]

『在京日記』「五月、至今月余寒猶厳而、朝暮則綿入衣著之」(宣長全集:16-45)。 [001-000]

JD2362249.5 宝暦5年6月1日 (1755/7/9)
6月1日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻10の改訓が終わる。
[Y000658-000-000]

奥書「右訓点句解旁註等、皆是景山屈先生所考正也、以其自筆本写之矣、宝暦五年乙亥四月八日、本居春庵清宣長謹書」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2362249.5 宝暦5年6月1日 (1755/7/9)
6月上旬 雨が多く鴨川増水し四条河原の納涼がない日が多かったので延長を願い出て受理される。この頃、宣長は糺の森の納涼に出かけるか。
[Y000659-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-45)。『在京日記』宝暦6年(1756)6月24日条に「鴨の糺のすゝみ也、去年はまいりしが、ことしはいかゝあらん」とある。 [001-000]

JD2362277.5 宝暦5年6月29日 (1755/8/6)
6月29日 母宛書簡執筆。
[Y000660-000-000]

(17-7・書簡3)。同年9月20日付母勝書簡より推定。文面は、綿入れ羽織の寸法、木綿綿入れ等の依頼。この年は5月まで余寒が続いたので、早めに準備を依頼したのかもしれない。 [001-000]

JD2362278.5 宝暦5年6月 (1755/8/7)
6月 村田清兵衛上京する。
[Y000661-000-000]

『在京日記』「今月、村田清兵衛上京」(宣長全集:16-45)。 [001-000]

JD2362279.5 宝暦5年7月1日 (1755/8/8)
7月上旬 伊兵衛、母の病気のため松坂に下向する。
[Y000662-000-000]

『在京日記』「上旬、伊兵衛下勢州、其母知芳尼病故也」(宣長全集:16-46)。 [001-000]

JD2362280.5 宝暦5年7月2日 (1755/8/9)
7月2日 村田清兵衛、松坂に下向する。   
[Y000663-000-000]

『在京日記』「七月二日、清兵衛下向勢州矣」(宣長全集:16-45)。 [001-000]

JD2362296.5 宝暦5年7月18日 (1755/8/25)
7月18日 伊兵衛母村田智芳尼が死去、享年67歳。
[Y000664-000-000]

『在京日記』「十八日、村田氏智芳死、六十七歳」(宣長全集:16-46)、宝暦4年(1754)10月上京したことが『在京日記』に見える。 [001-000]

JD2362302.5 宝暦5年7月24日 (1755/8/31)
7月24日 塩野元立、武川塾に入門。
[Y000665-000-000]

『在京日記』「廿四日、塩野元立入門乎武氏」(宣長全集:16-46)。 [001-000]

JD2362322.5 宝暦5年8月15日 (1755/9/20)
8月15日 昨年6月から詠み始めた「名所百首」、苦労の末詠み終わる。この体験を通して定家への尊敬の念が益々強まる。
[Y000666-000-000]

『鈴屋百首歌』第1冊所収(宣長全集:18-120)。8月16日条参照。 [001-000]

JD2362323.5 宝暦5年8月16日 (1755/9/21)
8月16日 前日詠み終えた「名所百首」清書。
[Y000667-000-000]

『鈴屋百首歌』第1冊奥書「右百(首)、亥の年の八月十五夜になん、よみおはりぬる、こその六月よりよみそめて、ひととせあまりして、やう/\と百首出来しは、いたくおこたりにたるわさかな、そもよき歌多くもあらは、さもあるへけれと、歌さへはか/\しくもあらぬに、かく月をへぬるは、我なからいたうはち思ふから、かくことはりをき侍る、扨も名所の歌は、よみかたき物にて有ける一首ことに案しわつらふに付ても、かのより所とせる京極黄門の御百首をつら/\見侍るに、よにめてたき物にてそ有ける、他人のをよはぬ所いよ/\見え侍る、まことに此道の聖人にておはしける、あふくへし/\、やつかれ年ころことに、彼卿の御歌を、又なき物とたうとひ侍るうへ、いよ/\あふき奉る心まし侍る、宝暦五年乙亥八月十六日 清舜庵艸/おはりの御津浜松の歌も、かの黄門の、まちこひしむかしを、忍ひ給ひし歌の、あまりに哀におかしく侍りし上、かつは百首いつれも、かのあとをしたひならひ侍るといふこゝろにて、つゝけ侍りし也」(宣長全集:18-124)。 [001-000]

JD2362341.5 宝暦5年9月4日 (1755/10/9)
9月4日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻11の改訓が終わる。
[Y000668-000-000]

奥書「右句読訓点旁註鼇頭、是景山先生所考校也、以其自筆本瀉之畢、宝暦五年乙亥九月四日、清舜庵宣長謹書」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2362349.5 宝暦5年9月12日 (1755/10/17)
9月12日 母宛書簡執筆か。
[Y000669-000-000]

母差出、9月20日付書簡による。 [001-000]

JD2362350.5 宝暦5年9月13日 (1755/10/18)
9月13日 武川幸順の『本草綱目』会読始まる。参会者は幸順、直海元周、高村好節、塩野元立等。会日は3の夜。
[Y000670-000-000]

『在京日記』「十三日、夜、武先生本艸会読始、先生、直海元周、高村好節、塩野元立等也、以後以三之夜会矣」(宣長全集:16-46)。 [001-000]

直海について『国書人名辞典』は、本草家。越中の人、京都、大坂に住し、のち故郷に帰った。松岡恕庵門で戸田旭山とも親しく交わった。著書に『衡斎本草』、『広倭本草』(宝暦5年)、『産物筆談』、『班荊間譚』(寛延元年刊)、原本の確認が出来なかった物として『鸚哥譜』、『分量則』を挙げる。生没年は未詳とするが著作より宣長より年輩者であることは確実。また『平安人物志』(明和5年版)には、「武川順、字建徳、号黄山、、室町四条下ル丁、武川幸順」と並んで「直海龍、字元周、号衡斎、両替丁二条下ル丁、直海元周」と見える(『近世人名録集成』1-4)。『森銑三著作集』に拠れば、雪舟画富士図を所蔵(同書・4-298)し、戸田旭山が宝暦10年(1760)4月15日浄安寺で開催した薬物会の記録『文会録』に武林尚白と序文を寄せる。因みに跋文は平賀源内と坂本蜂房である(同書・5-148)。また、直海龍は評判の良くない学者で、その著『広大和本草』も評判が悪いが、この書は、娘の婚礼で金子入用になった直海が、兼ねて本屋より依頼のあった本書を一夜にして書いたと言う一奇談があることを『典籍作者便覧』に載せると言う(同書・10-505)。宣長の『雑鈔』第1冊(宣長全集:18-592)に「日用食物物産」を、『本居宣長随筆』第2冊(宣長全集:13-79)にも「直海氏考」を引く。また『在京日記』宝暦7年(1757)3月3日条にも出る。『経籍』に「広大和本草【ワ、直海元周】」(宣長全集:20-625)が載る。木村蒹葭堂と交友のあったこと『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎著に載る。 [002-000]

JD2362352.5 宝暦5年9月15日 (1755/10/20)
9月15日 『荘子』会読始まる。参加者は、岩崎栄令、田中允斎、塩野元立、清水吉太郎等。会日は5、10の日。
[Y000671-000-000]

『在京日記』「十五日、荘子会読始矣、岩崎栄良、田中允斎、塩野元立、清水吉太郎等也、以後以五十之日会焉」(宣長全集:16-46)。この会読は宝暦6年(1756)2月21日に終った。 [001-000]

JD2362357.5 宝暦5年9月20日 (1755/10/25)
9月20日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は、羽織の事など。
[Y000672-000-000]

(宣長全集:別3-340・来簡28)。 [001-000]

JD2362366.5 宝暦5年9月 (1755/11/3)
9月 『南華抄』(『荘子』抄出)起稿する。
[Y000673-000-000]

内題の下に「乙亥季秋 蕣庵」(宣長全集:18-479)。翌6年2月21日終了。 [001-000]

JD2362366.5 宝暦5年9月 (1755/11/3)
9月 「百首和歌」詠。述懐と題した歌で和歌に対する思いを詠む。
[Y000674-000-000]

『鈴屋百首歌』第2冊所収。巻首「宝暦五年乙亥季秋 詠百首和歌 清蕣庵 宣長稿」(宣長全集:18-127)。「述懐」詠から一首引く。「朝な夕なみちくるしほのいやましに心をよする和歌のうら浪」。次の百首歌は宝暦9年(1759)春である。 [001-000]

JD2362382.5 宝暦5年10月16日 (1755/11/19)
10月16日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。本町おあさの婚約成立につき、祝いの状を送ることなど依頼する。
[Y000675-000-000]

(宣長全集:別3-341・来簡29)。 [001-000]

『在京日記』宝暦7年(1757)2月27日条に、「廿七日、与三兵衛、いせよりかへりぬ、本町おあさも、今月十三日に須川池田氏へ婚礼ありしときゝ侍る」(宣長全集:16-100)。 [002-000]

おあさは隠居家小津源四郎躬充の末女。須川村郷士池田七郎兵衛妻。 [003-000]

JD2362390.5 宝暦5年10月24日 (1755/11/27)
10月24日夜 藤重宅で歌を詠む。
[Y000676-000-000]

『石上稿』に当日詠有り。詞書「十月廿四日夜藤重氏にてきのえねまちといふことを頭にをきて六首の歌よみ侍けるにちとねをとり侍てよめる【其夜甲子日になんありける】」(宣長全集:15-224)。 [001-000]

JD2362399.5 宝暦5年11月4日 (1755/12/6)
11月4日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は衣類のことなど。
[Y000677-000-000]

(宣長全集:別3-341・来簡30)。 [001-000]

JD2362400.5 宝暦5年11月5日 (1755/12/7)
11月5日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻12の改訓が終わる。
[Y000678-000-000]

奥書「右鼇頭旁註訓点者、景山先生所集識考正也、予今以其家蔵自筆之本書写之、宝暦五年十一月五日畢此一策矣、蕣庵清宣長謹書」。 [001-000]

開始{宝暦3年}頃。{宝暦3年}10月30日条参照。 [002-000]

JD2362408.5 宝暦5年11月13日 (1755/12/15)
11月13日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。衣類、キセル筒送付の件等報ず。
[Y000679-000-000]

(宣長全集:別3-342・来簡31)。 [001-000]

JD2362414.5 宝暦5年11月19日 (1755/12/21)
11月19日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。村田元寿尼八十賀の件等依頼する。
[Y000680-000-000]

(宣長全集:別3-343・来簡32)。文中「事多中なから八十ノが御祝候て、一首進しまし被下候、七十ノ節われら一首致し、八十ノかの事祝進し候、又八十八まての事ニ御よみ、一首被成進し被下候」とある。宣長の母も歌を詠み、祖母が祝いの歌を贈られる環境であったことは注目される。 [001-000]

JD2362415.5 宝暦5年11月20日 (1755/12/22)
11月下旬 「紀平重盛切父浄海事」成る、
[Y000681-000-000]

『詩文稿』、奥書「乙亥仲冬下澣 蕣庵本居宣長草」(宣長全集:18-15)。 [001-000]

JD2362420.5 宝暦5年11月25日 (1755/12/27)
11月25日 景山による『漢書』会読終わる。
[Y000682-000-000]

開始は宝暦5年(1755)1月21日。 [001-000]

『在京日記』「十一月廿五日、屈氏漢書会読畢矣」(宣長全集:16-46)。 [002-000]

JD2362425.5 宝暦5年11月 (1756/1/1)
11月 『班史摘腴』脱稿するか。
[Y000683-000-000]

表紙「班史摘腴 清蕣菴識」。本書は『漢書』からの抜書。奥書はないが、会読の終了から推測した(宣長全集:18-解題57)。 [001-000]

本文8丁裏に「栄貞云」とあり、14丁裏に「宣長云」とある。栄貞から宣長へ改名は、本年3月3日である。その前後から書き継いだと推定できる。 [002-000]

JD2362425.5 宝暦5年11月 (1756/1/1)
11月 太宰春台(純)作「紀平敦盛事」書写、短評す。
[Y000684-000-000]

『詩文稿』、奥書「乙亥冬 清(ミセケチ)宣長稿」(宣長全集:18-12)。出典は『紫芝園稿』。 [001-000]

『紫芝園稿』から『和歌の浦』第5冊は「八橋故地」、「雑抄」(『荘子摘腴・列子抜萃・荀子摘萃・老子・雑抄』)は「平安四時楽」を引く。 [002-000]

JD2362425.5 宝暦5年11月 (1756/1/1)
11月 「紀平敦盛事」稿成る。
[Y000685-000-000]

『詩文稿』、奥書「乙亥仲冬 蕣庵本居宣長稿」(宣長全集:18-11)。 [001-000]

JD2362425.5 宝暦5年11月 (1756/1/1)
11月この頃 祖母村田元寿尼八十賀の歌並序を書くか。
[Y000686-000-000]

12月23日付母差出書簡に、12月2日付書簡到着と、歌の礼が書かれる。歌は『石上稿』収載の左注に「右二首の歌序そへていせへつかはしける」とある。この時の二首懐紙が現存する。 [001-000]

JD2362427.5 宝暦5年12月2日 (1756/1/3)
12月2日 母宛書簡執筆か。
[Y000687-000-000]

母差出12月23日書簡による。 [001-000]

JD2362445.5 宝暦5年12月20日 (1756/1/21)
12月20日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。寒中見舞いに鯨肉送付の件等報ず。
[Y000688-000-000]

(宣長全集:別3-343・来簡33)。 [001-000]

JD2362448.5 宝暦5年12月23日 (1756/1/24)
12月23日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。祖母村田元寿尼八十賀の歌並序の礼など報ず。
[Y000689-000-000]

(宣長全集:別3-344・来簡34)。 [001-000]

JD2362454.5 宝暦5年 (1756/1/30)
宝暦5年 『雑鈔』第1冊起筆か。
[Y000690-000-000]

この頃から帰郷までの間に書かれたか。「署名にある「蕣菴」の「蕣」の文字は、宣長が宝暦5年(1755)3月に号を「春菴」(「蕣菴」または「舜菴」とも書く)と改めて以後、宝暦9年までの自署に見える字面であること、本草等についての抄録が、武川幸順のもとで『本草綱目』を学んだ頃のものと考えられること、また、『荘子』以下の漢籍の表現の型を学習したのも堀景山の塾にあった頃と見るのがふさわしいことなどから見て、宝暦五年以後、同七年松坂帰郷までの京都遊学中に執筆されたものと考えられる」(宣長全集:20-解題60)。 [001-000]

全集解題説をもとにもう少し詳しく述べる。『雑鈔』第1冊は本草関係の事物の名称で始まるが、その中に『胡雲客雑記』という見慣れぬ本を引くところから、やはり同書を引用(『本居宣長随筆』第2冊)する直海の名前が浮かんでくる。またその後には「日用食物物産、直海元周考」と直海名が明示される。彼との出会いは記録に残る限りではこの年である。「荘子文格」が載るが『荘子』の会読が始まったのはやはり同年9月15日である。『本居宣長随筆』第2冊に直海説が引かれるが、その直後は『日本書紀通証』からの引用である。「通証」の一部を写したのはこの年4月30日である。このように考えると26歳、本草学を本格的に習い始めた時期の作とすることは充分に考えられる。 [002-000]

JD2362454.5 宝暦5年 (1756/1/30)
宝暦5年 『雑鈔』第2冊起筆か。
[Y000691-000-000]

この頃から、松坂帰郷後間もなくの頃の執筆か。「蕣菴」の署名や、病名や『源氏物語』についての内容であることから推定(宣長全集:18-解題60)。 [001-000]

JD2362454.5 宝暦5年 (1756/1/30)
宝暦5年 『漫識』起筆か。
[Y000692-000-000]

この頃から天明2年(1782)頃にまでわたって書き継がれたか(宣長全集:18-解題62)。 [001-000]

JD2362454.5 宝暦5年 (1756/1/30)
宝暦5年 同年詠として『石上稿』に88首載せる。他に「名所百首」の末77首、「百首」歌を詠んでいる。また、年末頃であろうか、某人より歌を批評される。
[Y000693-000-000]

『石上稿』所収の歌の詞書に、「やつかれ此ころよめる歌共を見てある人のあやなきといふ詞のよにもおほく侍る物かなととかめけれは」とある。「あやなき」と言う詞の頻出を咎めた評だが、この詞の使用例は、同集所収の詠では2首。例えば8首前の「月前送別」という題の歌に「行人のかへりみもせぬ別路にあやなく残る有明の月」とある。 [001-000]

JD2362454.5 宝暦5年 (1756/1/30)
宝暦5年 『石上稿』に載せる歌は88首。また「名所百首」の内77首、百首歌1回で合計265首。
[Y000694-000-000]

『石上稿』「以上乙亥詠八十八首又名所百首之末七十七首又百首一度通計二百六十五首、酉戌亥三箇年之詠歌総八百七十三首」(宣長全集:15-226)。 [001-000]

宝暦2年(1752)の上京以来の歌の数が、2年354首、3年311首、4年297首、5年265首、6年162首、7年46首と5年までと6、7年で格差があることについて岩田隆は「それが何に起因するのかは必ずしも明らかではない。ただあえて言えば、この宝暦六年を境にして宣長の心境にある種の変化が生じたらしいと言うことである。それを具体的に示唆するのは『在京日記』における表記の変化である」と言い、宝暦6年(1756)1月5日以降『在京日記』が和文体に変わった事との関係を考える(『本居宣長の生涯』・P56)。 [002-000]

JD2362454.5 宝暦5年 (1756/1/30)
宝暦5年 岩崎栄令宛書簡執筆。文面は、小松内府平重盛、大夫敦盛についての作文のこと。景山門で行われた企てで、宣長は「紀平重盛切父浄海事」(11月下旬奥書)、「紀平敦盛事」(11月奥書)を執筆している。(17-7・書簡4)。
[Y000695-000-000]

JD2362454.5 宝暦5年 (1756/1/30)
宝暦5年 清水吉太郎(14歳)入門か。
[Y000696-000-000]

『在京日記』宝暦7年(1757)3月15日条参照。 [001-000]


前へ / 次へ / indexへ