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JD2362484.5 宝暦6年1月 (1756/2/29)
宝暦6年(1756)丙子 宣長27歳。勝52歳、はん25歳、俊17歳。
[Y000697-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

在京5年目。2月、岩崎栄令肥前に帰る。4月、亡父十七回忌法事のためか一旦帰郷する。5月、再び上京。『日本書紀』対校終わる。7月、『旧事記』『古事記』購入。 [001-001]

JD2362458.5 宝暦6年1月4日 (1756/2/3)
1月4日 夜。伏見にあった淀城で火災。厩から出火と『在京日記』に書き留める。
[Y000698-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-47)。 [001-000]

JD2362459.5 宝暦6年1月5日 (1756/2/4)
1月5日 立春。『在京日記』に、「つく/\おもへは、やつかれか京のすまひもとしかさなりぬ、よはひもいとうかさなり行心地して、三十に程もなく成ぬ、けに一年の過るは程なき物にてそ有ける、春の始のこと、なにくれといそかはしき物から、さすかに長閑やか也」と書くように、思うこと多き中にも長閑な新春であったようで、4日の淀城の火事、また、鴬の初音、芝居の評判を記す。堀蘭沢が草深敬所に贈った狂詩(古詩)、山田孟明と宣長のその和韻を録す。
[Y000699-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-47)この記述に拠れば、草深もこのような狂詩を好んだようで、当時の漢学書生の生活の一側面が窺える。 [001-000]

JD2362462.5 宝暦6年1月8日 (1756/2/7)
1月8日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。内容は賀状。
[Y000700-000-000]

(宣長全集:別3-345・来簡35)。 [001-000]

JD2362463.5 宝暦6年1月9日 (1756/2/8)
1月9日夜 山田孟明宅に行く。先客の堀景山、横関斎と夜の更けるまで平曲や酒を楽しむ。孟明が横関斎に贈った詩に宣長も和韻する。
[Y000701-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-50)。 [001-000]

JD2362465.5 宝暦6年1月11日 (1756/2/10)
1月11日 紫宸殿で後七日御修法壇を拝見。
[Y000702-000-000]

『在京日記』「十一日、詣紫震殿、拝見御〔後〕七日御修法壇矣」(宣長全集:16-51)。当日の様子は、1月13日の記事の後に記載する。この記事における感嘆語の多さについて野崎守英の「本居宣長のうちに住む歴史のかたち」(『講座日本思想 4 時間』P277)に考察がある。 [001-000]

JD2362466.5 宝暦6年1月12日 (1756/2/11)
1月12日 武川幸順の『嬰童百問』、『千金方』の会読始。
[Y000703-000-000]

『在京日記』「十二日、武先生、嬰童百問、千金方会読始」(宣長全集:16-51)。 [001-000]

JD2362467.5 宝暦6年1月13日 (1756/2/12)
1月13日 武川幸順による『本草綱目』会始まる。
[Y000704-000-000]

『在京日記』「十三日、同本艸綱目会始」(宣長全集:16-51)。 [001-000]

この日の記事の後に、11日の紫宸殿の様子、また最近の岩崎栄令と尺牘の往復について記す。 [002-000]

JD2362469.5 宝暦6年1月15日 (1756/2/14)
1月15日 堀景山による『左伝』会始まる。
[Y000705-000-000]

『在京日記』「十五日、屈先生読初左伝会」(宣長全集:16-52)。 [001-000]

JD2362478.5 宝暦6年1月24日 (1756/2/23)
1月24日 堀蘭沢、岩崎栄令と知恩院参詣。
[Y000706-000-000]

『在京日記』によれば、巳の刻頃より雨が上がったので、かねて計画していた知恩院の御忌法要に参詣。師(堀元厚、宝暦4年1月24日没)の命日のため御影堂で回向を済まし、祇園に出る。二間茶屋で食事をし、米沢彦八の落語を聞き、青楼に行く友達の誘いを断る。帰路、友人片岡吾一郎に会い青楼行きを勧められるが否み帰る。(宣長全集:16-52)。 [001-000]

『在京日記』は、24日の記事の後に、追い剥ぎの話、浄瑠璃(筑後の芝居)の噂等を記し、以後2月14日までの分の記事が切断される。 [002-000]

筑後の芝居について『義太夫年表』は外題未詳とする。 [003-000]

JD2362484.5 宝暦6年1月 (1756/2/29)
1月 祖母村田元寿尼八十賀の歌並序を書き松坂に送る。
[Y000707-000-000]

『石上稿』収載の左注に「右二首の歌序そへていせへつかはしける」とある。この時の二首懐紙は記念館所蔵。「とをといひつゝ八かへりの春をむかへていやましに蔭ひろき玉松のかはらぬさかへをいはふとなん聞てこの下草の末葉までよろこびにたへずなむ、宣長、春たちてやそちにみつの浜松やさぞなときはの色もそふらん、行末のなをかぎりなき八十年はやを万世の数にとらなん」。 [001-000]

JD2362484.5 宝暦6年1月 (1756/2/29)
1月某日 岩崎栄令宛書簡執筆。
[Y000708-000-000]

(宣長全集:17-10書簡番号5)。 [001-000]

『在京日記』宝暦6年(1756)1月13日条に最近の岩崎栄令と尺牘の往復について記す(宣長全集:16-51)。 [002-000]

JD2362487.5 宝暦6年2月3日 (1756/3/3)
2月3日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻13の改訓が終わる。
[Y000709-000-000]

奥書「右訓点句読旁註鼇頭者、景山屈先生所校正也、予以其自筆本書附之云爾、宝暦六年二月三日畢此一策、清蕣庵本居宣長謹書」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2362499.5 宝暦6年2月15日 (1756/3/15)
2月15日 有賀氏月次歌会、初出席。
[Y000710-000-000]

『在京日記』「予始出会、当座探得寄田恋詠之 けふは風の心地もよろしくて、会に出ぬ、寄田恋、いとよみにくき物にてこまりしか、からうしてひねり出したりける」(宣長全集:16-54)。この項は日付部分を削除のため『石上稿』から推定した。 [001-000]

『石上稿』詞書「有賀氏月次会兼題 行路春草 二月十五日」「同日当座 寄田恋」(宣長全集:15-228)。 [002-000]

「(敬義斎流)懐紙書様手本」(本居宣長記念館蔵)は、この時の兼題「行路春草」詠3首のひとつ「道のへや野かひかてらに駒とめてしはしなつさふ春の若くさ」で懐紙の書様を示す。 [003-000]

有賀氏は、長川(長因)のこと。松永貞徳の流れを汲む歌人有賀長伯の男。安永7年(1778)没。享年60。宝暦9年(1759)3月頃迄指導を受けるか(宣長全集:18-解題15)。 [004-000]

JD2362501.5 宝暦6年2月17日 (1756/3/17)
2月17日 『在京日記』に、兼ねて念願していた吉野の花見に今年こそはと記す。
[Y000711-000-000]

『在京日記』「今としは、吉野の花見にまいらまほし、年ころねかひに侍れと、今にえまかり侍らす、ことしは、岩崎氏と倶なひてゆかんと、日比やくそくせしかとも、此月の末には、はや国へくたるとて、えまいられす、孟明とまいらんと、此比申しあはせ侍れは、蘭沢子もゆかんといはるゝ、いかてことしはまいらまほしくそ侍る」(宣長全集:16-54)。 [001-000]

JD2362501.5 宝暦6年2月17日 (1756/3/17)
2月17日 夜子の刻、松坂中町で稲懸大平生まれる。幼名、常松。
[Y000712-000-000]

『藤垣内翁略年譜』「二月十七日夜子刻伊勢国飯高郡松坂の里にて生れ給ふ幼名稲懸常松といふ」。 [001-000]

大平の姓は、稲懸、稲掛、稲垣と三通りの表記がある。『本居宣長稿本全集』に拠れば、稲懸でも稲掛でも可。稲垣は誤り。宣長の『授業姓名門人録』はイナガキと呼び誤ることに依る書き誤りとある(宣長全集:1-614)。 [002-000]

稲懸(掛)の読み方は、森銑三『読書日記』昭和10年(1935)5月4日条に「午後三古会、差支の人多く出席少かりき。三村竹清翁の伊勢の学者の話、興味津々たり、蒔田必眷の氏はマイタ、稲懸大平の氏はイナガキと彼地の人はいへるよし。蒔田をマイタと読むべきことは橋本経亮の随筆の振仮名にもみえたりしかと覚ゆ」とある。また、『草庵集玉箒』序で「いながきの棟隆」とある。 [003-000]

JD2362505.5 宝暦6年2月21日 (1756/3/21)
2月21日 『荘子』会読畢る。
[Y000713-000-000]

開始は宝暦5年(1755)9月15日。 [001-000]

『在京日記』「廿一日、荘子会読畢」(宣長全集:16-55)。 [002-000]

『南華抄』末尾「宝暦六年二月廿一日荘子会読畢、同月廿七日抜書畢」(宣長全集:18-506)。 [003-000]

JD2362507.5 宝暦6年2月23日 (1756/3/23)
2月23日 岡本幸俊、常弥等と清水、祇園参詣。「送巖栄良帰肥前州」成。母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。縮緬小袖は下向の予定もあるので送らないと報じる。
[Y000714-000-000]

『在京日記』「廿三日、幸俊、常弥なとるいして、清水きをんのあたりまうて侍る、いとうらゝなる空にて侍りける、此ころは、こよなう春めきてあたゝか也、岩崎栄令は、年ころしたしくし侍るに、此月の晦日ころには、国へ下り侍るとていそかる、国は、はるはるつくしひせんの人也ける、ことなるわかれに侍れは、やつかれも文つくり詩つくりて送り侍る」(宣長全集:16-55)。 [001-000]

(宣長全集:別3-345・来簡36) [002-000]

JD2362509.5 宝暦6年2月25日 (1756/3/25)
2月25日 景山による『南史』会始まる。定日は5、10の日。
[Y000715-000-000]

『在京日記』「廿五日、屈先生南史会始、以五十之日為定日」(宣長全集:16-55)。 [001-000]

JD2362510.5 宝暦6年2月26日 (1756/3/26)
2月26日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。内容は衣類の事など。
[Y000716-000-000]

(宣長全集:別3-346・来簡37)。 [001-000]

JD2362511.5 宝暦6年2月27日 (1756/3/27)
2月27日 『南華抄』(『荘子』)抄出畢る。
[Y000717-000-000]

開始は宝暦5年(1755)9月、会読は2月21日終わる。各条参照。 [001-000]

JD2362512.5 宝暦6年2月28日 (1756/3/28)
2月28日 29日、流行の福引き京にても禁制となる。
[Y000718-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-55)。 [001-000]

JD2362514.5 宝暦6年2月30日 (1756/3/30)
2月30日 景山、肥前に帰国の岩崎栄令を難波まで送り、住吉の汐干に行く。宣長も勧められるが謝絶。母宛書簡執筆し、近く帰郷のことや、また明年遊学を終え京都から帰郷する心積もりを伝えるか。
[Y000719-000-000]

『在京日記』「晦日の日、景山先生、栄令と友なひて、難波にくたり給ひぬ、来る三日の住吉のしほひ見んとてなりける、やつかれもゆくましやと、いたうすゝめ給ひし、予も潮干見まほしけれと、かの芳野にゆかんと思ふゆへ、いなみ侍る、栄令は、それよりすくにつくしへくたりける、したしき友とちの別れ、いと心くるしきものにてそ有ける、けふは雨つよくふれは、船のうちさこそいふせからんと、心くるしく思ひやらる」(宣長全集:16-56)。 [001-000]

住吉の汐干について、宝暦4年(1754)成立の『日本山海名物図会』巻3に「住吉浦汐干、三月朔日ごろより十日比まで大汐にてさし引多し。取分三月三日は潮干とて貴賎群集する也。堺、住吉浦凡三里ばかりひがたと成、見物の男女沖に出て蛤を取也。叉所の人は多く取て人へも売なり。すべて潮干は入海の分は何方も同し事也。然共堺浦、住吉浦の塩干其名高し。尼崎浦の塩干甚よし。砂海にて貝類を取こと自由也。江戸にては品川の汐干にぎやかなり。此浦には比目魚多くして塩のたまりに居るを見物の人取てたのしみとす」とある。 [002-000]

3月6日付母差出書簡に拠る。 [003-000]

JD2362517.5 宝暦6年3月3日 (1756/4/2)
3月3日 堀景山住吉の汐干を見物か。
[Y000720-000-000]

2月30日条参照。 [001-000]

JD2362520.5 宝暦6年3月6日 (1756/4/5)
3月6日 『源氏装束抄』3冊、『詠歌大概』1冊を購求する。母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。4月の年忌のこと。また来年帰郷とのことだが、自分の心づもりでは後2、3年は在京できるようにしたいと考えているがそれも今度の帰郷の時の相談と言う。
[Y000721-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「子三月六日 一、源氏装束抄 三 一匁五分 同 一、詠歌大概 一 五分」(宣長全集:20-397)。 [001-000]

(宣長全集:別3-346・来簡38)。文中「来年ハ其御地仕舞候て、くたり候様ニ御申こし候、われら心ニハ、今二、三年も其御地ニいられ候やうニ致し度候」とある。 [002-000]

JD2362521.5 宝暦6年3月7日 (1756/4/6)
3月7日 藤伯、大田左膳等と東山長楽寺に花見。
[Y000722-000-000]

『在京日記』「七日、藤重藤伯、大田左膳なと供なひて、東山長楽寺の花見にまかりし、花は今をさかり也けるか、いとう風ふき時雨たちて、冬のそらにことならす、今一時雨せは、ことにうるはし」(宣長全集:16-56)。以下15日の末まで切断される。 [001-000]

翌年2月15日に、昨年の長楽寺の彼岸桜とその後井筒屋に寄ったことを回想するのはこの日のことであろうか。井筒屋と言えば祇園の茶屋が有名だが、あるいは切断と立ち寄りと関係あるか。 [002-000]

JD2362529.5 宝暦6年3月15日 (1756/4/14)
3月15日 有賀氏月次会。
[Y000723-000-000]

『石上稿』に当日詠有り。兼題は「山家春」、当座は「寄檜恋」(宣長全集:15-228)。 [001-000]

『在京日記』「(前半部分欠)侍らず、当座に寄檜恋をとりて、いとなんきし侍る、よみかたき物になん有ける」(宣長全集:16-56)。 [002-000]

JD2362532.5 宝暦6年3月18日 (1756/4/17)
3月18日 早朝より六条門跡にて観能。武川先生のつてで行ったので上で見て料理や酒までいただき宵の内に帰る。
[Y000724-000-000]

『在京日記』「十八日は、つとめてより、六条の能を見にまかりける、そも此度の御能は、よにまれなる見ものになん、(中略)およそ庭上にて見る人まて、のこらす赤飯を給はりぬ、上にて見る人/\は、御料理まて給はり、酒も出ぬ、いく百人ともしらぬ大せいにかくし給ふこと、よにおひたゝしきことなりけらし、およそ関東はしらす、みやこには、此六条の門跡に過る所は、すへて覚へ侍らす、けふの能は、嵐山、八嶋、西行桜、松風、歌占、邯鄲、百万、船弁慶、乱なと、狂言は、花子、業平、餅、唐人すまふ、うつほ猿、喜六太、其外もありし、辰の刻よりはしまりて、夜の九時におはりけるとそ、予も武川先生のつてにてまいりけれは、上にて拝見し侍る、よひのうちにかへりぬ、八幡のうたひに、折ふし三月十八日けふにあたりて候といへるも、おかしく聞えし」(宣長全集:16-57)。 [001-000]

JD2362533.5 宝暦6年3月19日 (1756/4/18)
3月19日 景山先生に同行し東山に花見。知恩院から、長楽寺、円山、双林寺、西行庵、高台寺を巡り、師と歌を詠む。また早春より計画の吉野行きを断念する。
[Y000725-000-000]

『在京日記』「十九日、景山先生と東山の花見にまかりぬ、知恩の花は、馬場ははや青葉に成し、(中略)それより高台寺にまかりて見侍るに、天神のかたはらなる花、盛ちかく見えたり、大かた廿日すぎには盛なるべし、こゝにてしばしやすみ侍る、景山先生の歌よみ給へる、みよし野のおくゆかしさも咲つゝく花をみやこの山にわすれて、やつがれかへし、わするてふ吉野のおくはしらぬみにみやこの山ぞはなはめでたき、吉野をわするとよみ給ひしは、けふ道すがら物語に、往年かの所の花見におはせし折の物語し給ひて、其おりしも、盛の花を見し夜、嵐はげしくふきて、満山の花ちりけるありさまおしき物から、たぐひなきながめ也けるよし、思ひ出てかたり給ひしゆへなりけらし、扨しも、ことしはいかでと思ふ吉野の花も、又かすみならぬさはり多くて、えまかり侍らず、いとくちおしく思ひ侍る。」(宣長全集:16-57)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠あり。詞書「東山のわたりこゝかしこ花見ありきて景山先生の みよし野のおくゆかしさも咲つゝく花をみやこの山にわすれてとよみ給へるこれは道すから吉野の花の物語なとし給ひてよみ給へる也 かへし」(宣長全集:15-228)。 [002-000]

JD2362536.5 宝暦6年3月22日 (1756/4/21)
3月22日 『荀子』会読始まる。参加者は塩野元立、田中允斎、上柳藤五郎、清水吉太郎。定日は2、7の日。
[Y000726-000-000]

『在京日記』「廿二日、荀子会読始、与塩野元立、田中允斎、上柳藤五郎、清水吉太郎会之、此後以二七為定日」(宣長全集:16-58)。 [001-000]

「荀子摘萃」(『荘子摘腴・列子抜萃・荀子摘萃・老子・雑抄』)末尾に、「右荀子全篇以宝暦六年丙子三月二十二日始会業、同七年丁丑五月十四日卒業、及抜萃畢矣、(清)蕣庵」(宣長全集:18-534)。 [002-000]

JD2362537.5 宝暦6年3月23日 (1756/4/22)
3月23日 堀景山、武川幸哲、幸順と高台寺春光院にて花見。歌を詠む。
[Y000727-000-000]

『在京日記』「廿三日、景山先生、武先生父子に供なひて、高台寺の春光院にて花見侍りける(下略)」(宣長全集:16-58)。 [001-000]

「武先生父子」とは幸順とその父幸哲か(『本居宣長稿本全集』)。 [002-000]

『石上稿』に当日詠あり。詞書に「三月廿四日双林寺の花見にまかりけるまさかりなりければ風はけしかりけれとちりもせす」「それより高台寺の春光院にてひねもす花見ける此日は風いとはげしかりける」「くるゝ迄木の下にやすらひけるなをなこりおほし」(宣長全集:15-229)。 [003-000]

JD2362541.5 宝暦6年3月27日 (1756/4/26)
3月27日夜 上月氏にて、安村検校の箏、藤村検校の三味線を聞く。
[Y000728-000-000]

『在京日記』「廿七日のよ、上月氏にて、安村検校の箏、藤村検校の三味線きゝ侍る、いとめてたき物也、安村は、今の世にならひなきことの上手也、藤村の三味線もまた、今の世に而の上手也ける、いつれも/\いとおもしろきことなりし」(宣長全集:16-59)。 [001-000]

JD2362543.5 宝暦6年3月29日 (1756/4/28)
3月29日 しばらく前に祇園で落とした煙草入れが山田孟明により届けられ返歌する。☆『在京日記』(宣長全集:16-19)。
[Y000729-000-000]

JD2362543.5 宝暦6年3月 (1756/4/28)
3月 『列史』抄録始める。
[Y000730-000-000]

巻頭に「列子抄 註ハ林希逸也 丙子季春 本居宣長識」(宣長全集:18-507)。 [001-000]

JD2362543.5 宝暦6年3月 (1756/4/28)
3月 「送藤文輿還肥序」、七言絶句「送藤文輿帰郷」を書き岩崎栄令に贈る。
[Y000731-000-000]

再稿本奥書「宝暦丙子春三月本居宣長草」。「送藤文輿還肥序」は宣長の医学論として知られる。草稿(無題)が『詩文稿』(宣長全集:18-8)に、また「送藤文輿還肥序」と題した再稿が遺る。「本居宣長の医学論-古学との出会い-」高橋俊和(『金沢大学国語国文』9号)参照。 [001-000]

JD2362545.5 宝暦6年4月2日 (1756/4/30)
4月2日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻14の改訓が終わる。
[Y000732-000-000]

奥書「右国読訓点句読旁註皆是景山屈先生所校正也、予以其家蔵自筆本附之雖一字半点不加臆矣謹写云、宝暦六年丙子四月二日 本居宣長書」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2362549.5 宝暦6年4月6日 (1756/5/4)
4月6日 堀蘭澤、田中允斎等と等持院参詣、北野の右近にて乗馬。山田孟明、宣長宛書簡執筆し4月15日有賀会のことを報じる。
[Y000733-000-000]

『在京日記』「六日、いなりまつり也、ひよりよし、けふは蘭沢公、田中允斎なとと等持院へまいり侍りける、日ころ開帳にて、まいらはやとおもひをりし、もはやこの十三日まてとうけ給はる、尊氏将軍の守本尊地蔵菩薩の開帳、其外宝物共あり、一の堂には、夢窓国師の像、足利将軍歴代の木像あり、後の庭、泉水いとふるくおもしろし、此開帳のうち、衣笠山へも人あけ侍れは、のほりて見るに、かけ茶屋おほくにきはしく見ゆ、山上にて、夢合の観音といふをおかませける、此山の上より、京中よく見えて、いとよき風景也、酒のみなとし、休みてかへる、それより道すから馬つれてまかりけれは、のりなとして、北野の右近の馬場にて、又皆々のり侍る、予も久しくのり侍らさりしか、一くら、二くらのり侍る、心いさましくおかしき物也」(宣長全集:16-60)。 [001-000]

(宣長全集:別3-371・来簡75)。 [002-000]

JD2362551.5 宝暦6年4月8日 (1756/5/6)
4月8日 大西周庵と清水参詣、方広寺などを巡る。
[Y000734-000-000]

『在京日記』「八日、大西周庵と清水へまうて侍る、けふは花つみにて、いつかたもにきはし、地主権現のまつりにて、神輿も門へ出おはします、それより大仏へまいり、杜若を見はやと思ひしに、ゆきて見れは、また咲侍らす、三十三間堂のほとり、蔦屋といへるにしはし休みて、酒のみなとし、かへりける」(宣長全集:16-60)。 [001-000]

JD2362552.5 宝暦6年4月9日 (1756/5/7)
4月9日頃か 檀王法林寺に参詣し、祇園すはま屋に遊ぶ。
[Y000735-000-000]

『在京日記』「けふよりまた檀王法林寺の万日主夜神の開帳も始りけるよし聞は、檀王へまいりぬ、いとにきはし、此主夜神と申すは、近きころ人ふかく信し仰く神にてまします、此ころ、山科妙見菩薩も開帳にて、にきはしきよしうけ給はる、それより祇園へまいりけるに、又人にあひ侍りて、すゝめられてさりかたく、夕つかたより、祇園のすはま屋へまかりて、しはし酒のみてかへりぬ」(宣長全集:16-60)。 [001-000]

法林寺(左京区法林寺門前町)は、山号朝陽山、浄土宗。『京羽二重』(貞享2年刊)に「三条大橋東詰上ル。俗にだんのと云」とある。鎮守に主夜神堂があり、『都名所図会』に伝説が載る。又、池大雅が塔頭清光院に寓居し、山口素絢(文政元年没)の墓があることでも知られる。 [002-000]

この条日付不記。8日の条の直後、11日までの間にある。 [003-000]

JD2362557.5 宝暦6年4月14日 (1756/5/12)
4月14日 松坂に下向する予定でいたが、武川幸順、丹後田辺に出立のため延引する。
[Y000736-000-000]

『在京日記』「やつかれいせくたりも、十二日にかしこより人まいりけれは、ともなひて十四日にくたらはやと思ひけれとも、にはかに武川先生の丹後へくたり給ひし故、四五日のはし侍る、十四日、武先生丹後下向」(宣長全集:16-61)。 [001-000]

JD2362558.5 宝暦6年4月15日 (1756/5/13)
4月15日 有賀氏会か。
[Y000737-000-000]

4月6日付宣長宛山田孟明差出書簡に、「然者有賀氏会十五日ニ御座候、題卯月郭公之由只今廻状参申候故貴公も点かけ遣申候」とある。 [001-000]

『石上稿』に当日のものと思われる詠有り。兼題は「卯月郭公」、当座は「寄葦恋」(宣長全集:15-229)。 [002-000]

JD2362561.5 宝暦6年4月18日 (1756/5/16)
4月18日 終日雨。但し、明日の出立の変更はない。
[Y000738-000-000]

『在京日記』「十八日、ひねもす雨ふり侍る、明日はいせへくたらんと思ふに、かく日よりあしくて、いと心くるし、あすは、ふるとてもたゝむと思ふ」(宣長全集:16-62)。 [001-000]

JD2362562.5 宝暦6年4月19日 (1756/5/17)
4月19日 好天。松坂帰省のため京出立、東海道を下り、大津打ち出の浜から矢橋まで船で渡り、草津を越え、目川で名物の菜飯田楽を食べ、水口泊。宿は小まつ屋何某。水口家中岩谷順蔵を訪う。
[Y000739-000-000]

岩谷氏訪問は薬の事による。『在京日記』「くすりの事にて、水口の家中岩谷順蔵といへる人のかりまかり侍る」(宣長全集:16-62)。 [001-000]

JD2362563.5 宝暦6年4月20日 (1756/5/18)
4月20日 鈴鹿峠を駕篭で越え、関で南禅寺豆腐によく似たものを食べ、津の佐々木屋に宿を取る。食事湯浴みの後、草深玄周を訪い、結局草深に泊まる。堀家で一緒だった松田東三郎も同席。丑の刻まで物語。
[Y000740-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-62)。 [001-000]

松田東三郎については不詳。『詩文稿』七言律詩「送松田氏帰郷」1篇が載る(宣長全集:18-5)。 [002-000]

JD2362564.5 宝暦6年4月21日 (1756/5/19)
4月21日 巳の刻起床、松田氏を訪う。松田、佐々木屋まで来て物語、午の刻前出立、六軒茶屋で迎えの茂八に会い、未の刻に松坂帰着。
[Y000741-000-000]

『在京日記』より、母との再会の所を引く。「四年をへたてて、けふ母君のかはらぬおもてを見まいらせて、うれしさいはむかたなし、其外、はらから親族にも、久しくてあひ侍る」(宣長全集:16-63)。 [001-000]

JD2362565.5 宝暦6年4月22日 (1756/5/20)
4月22日 諸家挨拶廻り。
[Y000742-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-63)。 [001-000]

JD2362566.5 宝暦6年4月23日 (1756/5/21)
4月23日 亡父十七回忌法事。
[Y000743-000-000]

『在京日記』「廿三日、けふあすは、亡父君の十七回忌をつとめ侍る、七月なれと、此月、とりこしてとふらひ侍る也、けふは非時をして、かれこれまねき侍る、こよひは又、樹敬寺にて法事をして、みな/\まうて侍る、雨いとつよくふりぬ」(宣長全集:16-63)。 [001-000]

JD2362567.5 宝暦6年4月24日 (1756/5/22)
4月24日 亡父十七回忌法事。
[Y000744-000-000]

『在京日記』「廿四日には、墓まいりし侍る、樹敬寺方丈へもまいりて、住持の僧謙誉上人にもあひ侍りぬ」(宣長全集:16-64)。 [001-000]

JD2362576.5 宝暦6年5月3日 (1756/5/31)
5月3日 参宮。供茂八。内宮に行き僧尼拝所より参拝、中の地蔵で食事、外宮に行き僧尼拝所より参拝する。浦口町、中嶋町に寄り帰宅。
[Y000745-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-64)。浦口町は母の姉ちかの婚家古森金右衛門家、中嶋町は、母の長姉はつの婚家林三郎右衛門家であろう。 [001-000]

JD2362581.5 宝暦6年5月8日 (1756/6/5)
5月8日 村田伊兵衛夫婦上京、松坂出立。
[Y000746-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-64)。 [001-000]

JD2362583.5 宝暦6年5月10日 (1756/6/7)
5月10日 上京、松坂出立、津の草深氏を訪い、酒吸物をよばれる。坂ノ下泊。宿は日野屋。同伴、善四郎。母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。道中や京都にいる親次の無事を推察し喜ぶ。
[Y000747-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-64)。 [001-000]

(宣長全集:別3-347・来簡39)。 [002-000]

JD2362584.5 宝暦6年5月11日 (1756/6/8)
5月11日 水口の岩谷氏を訪う、草津泊。宿は桔梗屋。
[Y000748-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-65)。 [001-000]

JD2362585.5 宝暦6年5月12日 (1756/6/9)
5月12日 蹴上の井筒屋で衣服を改め、入京。
[Y000749-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-65)。 [001-000]

JD2362596.5 宝暦6年5月23日 (1756/6/20)
5月23日 蘭澤と清閑寺参詣。泉岳寺開帳。五文で四十七士の遺物や泉岳寺墓の模造を見物。眼下に広がる山科や下京の景色を楽しみ、土器投げをして帰る。
[Y000750-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-66)。清閑寺については、5月12日の条にも出る。赤穂義士と宣長については延享1年(1744)9月条参照。 [001-000]

JD2362598.5 宝暦6年5月25日 (1756/6/22)
5月25日 『南史』会読。場所は景山が安芸侯下命『唐律』の校訂作業に専念するため借りた鴨川沿い(木屋町松原上ル二町目)の座敷。始まるまで河原で遊ぶ。
[Y000751-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-67)。 [001-000]

JD2362599.5 宝暦6年5月26日 (1756/6/23)
5月26日 有賀氏月次会。
[Y000752-000-000]

『在京日記』「廿六日、有賀氏月次会、兼題瞿麦露、当座探得寄芝恋、並詠之」(宣長全集:16-67)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠あり。兼題は「瞿麦露」、当座は「寄芝恋」(宣長全集:15-229) [002-000]

JD2362602.5 宝暦6年5月29日 (1756/6/26)
5月29日 神輿洗いの見物を予定していたが、雨で中止。この年、祇園会の諸行事を『在京日記』に記す。
[Y000753-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-67)。 [001-000]

JD2362604.5 宝暦6年6月2日 (1756/6/28)
6月2日 堀景山改訓本で『春秋経伝集解』巻15の改訓が終わる。全巻終業。
[Y000754-000-000]

奥書「右春秋左氏伝全十五本訓点国読旁註句読是景山屈先生所校正也、予以其自筆之本写之全部正畢矣 時宝暦六年丙子年六月二日 伊勢飯高春庵本居宣長謹書乎平安寓居」。 [001-000]

開始宝暦3年(1753)頃。宝暦3年(1753)10月30日条参照。 [002-000]

JD2362609.5 宝暦6年6月7日 (1756/7/3)
6月7日 天気良く涼し。祇園祭。山鉾巡行が終わり未の刻より雨。連日の増水と雨で四条河原の涼みなし。
[Y000755-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-68)。 [001-000]

JD2362610.5 宝暦6年6月8日 (1756/7/4)
6月8日 雨で四条河原の涼みなし。母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆、蔵の修理の入札結果など報告する。
[Y000756-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-68)。 [001-000]

(宣長全集:別3-347・来簡40) [002-000]

JD2362611.5 宝暦6年6月9日 (1756/7/5)
6月9日 泉岳寺開帳の評判が悪いと言う噂を聞いたが、その後は音沙汰もなし。四条河原の涼みなし。
[Y000757-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-68)。 [001-000]

JD2362612.5 宝暦6年6月10日 (1756/7/6)
6月10日 雨。涼みの約束をしていたが、都合で遅れ、その上、村田伊兵衛に招かれたのでそちらに行く。木屋町の座敷で嘉大夫浄瑠璃、豊山大和の弟子縫殿の「阿部の安名が小袖物くるひの段」、彦六演じる上り船そろま物まねを楽しむ。
[Y000758-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-69)※この段の後半部削除。 [001-000]

JD2362613.5 宝暦6年6月11日 (1756/7/7)
6月11日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。蔵の修理の続報で、世話になった茂八への礼を相談する。
[Y000759-000-000]

(宣長全集:別3-348・来簡41)。 [001-000]

JD2362616.5 宝暦6年6月14日 (1756/7/10)
6月14日 祇園祭。大夕立有るが暮れ方には上がる。はじめて涼み有り。三条での用事の帰り「大橋へ出て、川原のけしき見侍るに、星の如くにともしひ見えて、いとにきはゝし、かゝる事は、江戸難波にもあらしと思ふ、ましてさらぬゐなかなとはさら也」と感動する。四条川で水死者との噂を聞く。母宛書簡執筆する。
[Y000760-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-70)。 [001-000]

6月23日付母差出書簡。 [002-000]

JD2362618.5 宝暦6年6月16日 (1756/7/12)
6月16日 夜、壬生で火事。『在京日記』第1冊はこの記事で終わる。
[Y000761-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-70)。 [001-000]

この頃までに『在京日記』第1冊裏から「新話録」という題で48語を載せる。漢学書生の間の洒落詞か。中に、「香川多中地獄、黒鬼白墨テ点スル」とあるのは宝暦5年(1755)2月13日に没した香川太冲のことであろう。 [002-000]

JD2362620.5 宝暦6年6月18日 (1756/7/14)
6月18日 伊兵衛、高木利兵衛等と安井前の藤代屋別宅で神輿洗いの練物見物。この日は、祇園と祇園新地の日であった。
[Y000762-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-75)。 [001-000]

JD2362625.5 宝暦6年6月23日 (1756/7/19)
6月23日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆、14日の手紙の礼、蔵修理の続報等。
[Y000763-000-000]

(宣長全集:別3-349・来簡42)。 [001-000]

JD2362626.5 宝暦6年6月24日 (1756/7/20)
6月24日 丸山の也阿彌で有賀氏月次会。夜、初更過ぎ、孟明と河原を見て帰る。
[Y000764-000-000]

『在京日記』「廿四日、長川子の月次の会、この月は、丸山の也阿彌にて、けふなんせられける、兼題は河夕立なりけり、有賀氏の月次の会、年比二度にわけて、継塵講、感生講といへる、やつかれなとは、けいぢんかうの内なり、さるを此月は、両講の連中ひとつにせられけれは、廿人あまりもありける、兼題の歌披講あり、いつの年も、此月はかゝるとなん、当座に霞中滝をえてよみ侍る、夜にいり、初更過てかへりける、丸山のあたり、いつれも西むきにて、夕日かけあつけれとも、さすかにすゝしかりし、かへるさに、孟明と河原見てかへりぬ」(宣長全集:16-75)。 [001-000]

JD2362629.5 宝暦6年6月27日 (1756/7/23)
6月27日 村田伊兵衛夫婦帰郷。
[Y000765-000-000]

『在京日記』「廿七日、村田伊兵衛夫婦、いせへかへりける」(宣長全集:16-76)。帰った伊兵衛の話が母の怒りを招いた。7月19日条参照。 [001-000]

JD2362633.5 宝暦6年7月1日 (1756/7/27)
7月1日 母宛書簡執筆か。
[Y000766-000-000]

7月10日付母差出書簡。 [001-000]

JD2362636.5 宝暦6年7月4日 (1756/7/30)
7月4日・5日 夕立で西洞院の河増水。子供犠牲となる。
[Y000767-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-76)。その中に、この河が大雨で氾濫しやすい事を述べ、「西東の家の内まて、水一はいに成て入り侍る也」と書く。あるいは、近くにあった景山宅も被害にあったことがあるか。 [001-000]

JD2362639.5 宝暦6年7月7日 (1756/8/2)
7月7日 某人の所望で、景山の東方朔の画と竹の画への賛詩2首を頂く。仲介は宣長。画は僧◎(敝の下に魚)山。
[Y000768-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-76) [001-000]

JD2362639.5 宝暦6年7月7日 (1756/8/2)
7月7日頃 四条河原の事や、米沢彦八の事など『在京日記』に記す。
[Y000769-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-77) [001-000]

JD2362642.5 宝暦6年7月10日 (1756/8/5)
7月10日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。蔵修理の報告をし、盆前の支払い分を清兵衛に工面してもらう予定であることを告げる。帰宅した小泉見庵から様子を聞き安心していると告げる。
[Y000770-000-000]

(宣長全集:別3-349・来簡43) [001-000]

JD2362647.5 宝暦6年7月15日 (1756/8/10)
7月15日 芝居三軒共に盆狂言を始める。
[Y000771-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-79)。 [001-000]

JD2362648.5 宝暦6年7月16日 (1756/8/11)
7月16日夕刻 大文字の送り火を見ながら鴨川筋を歩き、木屋町の景山を訪う。夜更けまで孟明と和歌、詩などについて語る。
[Y000772-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-78)。 [001-000]

JD2362651.5 宝暦6年7月19日 (1756/8/14)
7月19日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。村田伊平衛からの話として大酒の噂を聞き盃三つ以上の飲酒を禁ずる。
[Y000773-000-000]

(宣長全集:別3-350・来簡44)。 [001-000]

JD2362652.5 宝暦6年7月20日 (1756/8/15)
7月20日頃 町々で踊り始まる。
[Y000774-000-000]

『在京日記』「廿日過より、あそここゝ、町/\にておとり侍る、いとにきはしきこと也、京のおとりは、みやこにはすこし似あはぬおとりなり、されとも、いといさましくおかしきもの也、祇園町八坂なとにもおとり侍り、させることなし、嶋原揚屋町にもある也、すへて京にては、晦日迄を盆のうちとし侍りて、家ことに軒にあんとんをともし、町/\はいとにきはしきこと也、おとり子共、風流の出立にて、てふちんともし、さま/\の今様なとうたひつゝありく」(宣長全集:16-79)。 [001-000]

JD2362655.5 宝暦6年7月23日 (1756/8/18)
7月23日 地蔵盆。
[Y000775-000-000]

『在京日記』「廿三日、四日両夜は、地蔵まつりとて、町/\辻々なとにある地蔵尊の、此折にはことなう時めき給ふて、供物香花山をなすことし」(宣長全集:16-79) [001-000]

JD2362656.5 宝暦6年7月24日 (1756/8/19)
7月24日 地蔵盆。
[Y000776-000-000]

前日条参照。 [001-000]

JD2362657.5 宝暦6年7月25日 (1756/8/20)
7月25日 有賀氏月次会。兼題「初秋朝風」当座「寄糸恋」。
[Y000777-000-000]

『在京日記』「廿五日、有賀氏月次会、兼題初秋朝風、当座寄糸恋、並詠之」(宣長全集:16-79) [001-000]

JD2362658.5 宝暦6年7月26日 (1756/8/21)
7月26日 景山より伝与せられた『日本書紀』30巻9冊の内、巻18安閑帝以下の諸巻を小野田重好本を以て対校を終える。この本の巻17までは景山自ら対校し、歌謡については契沖の厚顔抄説を増註していたが、経業に暇なく中絶していた。
[Y000778-000-000]

巻7(第3冊)巻末識語「此日本紀者景山堀先生所蔵本也、自神代巻至安閑帝元年紀先生親以小野田重好本校讐訂正、如歌詠引契冲厚顔抄増註之、然以経業不暇故弗能終其功、深以為憾、則以此本伝与乎予続其緒業、予謹領之重以小野田氏本校之、其本有青朱墨之別為識詳見奥書矣、今此本則無復別之朱墨従便附焉、冠註訓点不遺一字亦不加管見唯旧是従以竣其功、聊充先生之素志云爾、宝暦六年丙子七月念六日、神風伊勢意須比飯高本居春庵清宣長題」。 [001-000]

JD2362659.5 宝暦6年7月27日 (1756/8/22)
7月27日 『古今余材抄』の書写を再開する。
[Y000779-000-000]

『経籍』「▲丙子七月廿七日 余材抄写始。○八月七日 一冊了。○同十七日 一冊了。○同廿五日 一冊了。○九月二日 一冊了。○同十一日 一冊了。○同十七日 一冊了。○十月二日 一冊了。」(宣長全集:20-627)。 [001-000]

巻1は既に宝暦4年(1754)3月2日に書写終業、『経籍』の終了日は巻数表記がないが巻2から8までと推測した。終業は11月、これが巻10の書写終了であるから、結局巻9の書写年次だけが不明である。1巻約10日の進捗状況から考えると、10月中旬頃と推察される。宝暦6年(1756)11月全巻終業、宝暦7年(1757)2月具備、各条参照。 [002-000]

JD2362662.5 宝暦6年7月 (1756/8/25)
7月 『先代旧事本紀』『古事記』を購求する。
[Y000780-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「七月 一、旧事記 一、古事記  十匁二分」(宣長全集:20-397)。 [001-000]

この両書は大山為起手沢本であったか。「為起は古事記と旧事紀の二つを寛永版本を底本として校訂したが、彼の死後、それらの本は松尾大社の社司、山田氏のもとに入る。その山田氏所蔵本を松岡玄達が写し、玄達の写した本を桂氏頼が写す。為起の自筆校訂本はいつか山田氏から市中に流出し、京都遊学中の本居宣長が購入することになる。宣長は為起旧蔵の二部の寛永版本、とくに古事記に対して詳細な書込などを施し、その古事記研究の基盤とする」(「本居宣長手沢本旧事紀または大山為起校訂本旧事紀について」千葉真也『朱』36号) [002-000]

JD2362669.5 宝暦6年8月7日 (1756/9/1)
8月7日 『古今余材抄』巻2冊の書写終わる。
[Y000781-000-000]

宝暦6年(1756)7月27日条参照。 [001-000]

JD2362671.5 宝暦6年8月9日 (1756/9/3)
8月9日 芝居の噂を『在京日記』に記す。また、師景山は数年来妙法院宮に召されて会読や講釈をしてきたが、今度はその仰せにより「方広大王教詠茉莉花」という題で五言律詩を作る。
[Y000782-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-80)。芝居は、南で夏以来「夏祭難波鑑」流行、北は頂妙寺新地での遊女殺しは不評、筑後の「小野道風青柳硯」は道具立てがよく、政太夫が語ること。また、景山は年ごろ妙法院宮の師として会読講釈をしていた事が記される。 [001-000]

「夏祭難波鑑」や、頂妙寺新地での遊女殺しの芝居については『在京日記』以外に記録無く、『歌舞伎年表』もこの日の記事を引用するのみ。「小野道風青柳硯」は、『義太夫年表』に「子ノ七月十六日より 竹本座 京」として番付が載り、『古今外題年代記』等の「政太夫上京」、また『女大名東西評林』の竹本政太夫の条に「去ル子年の秋よりは京都の座へ」と合致すると云う。 [002-000]

「茉莉花」はジャスミン。 [003-000]

JD2362674.5 宝暦6年8月12日 (1756/9/6)
8月12日 夕刻、堀蘭沢と西廓の灯篭見物に行く。
[Y000783-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-80)。 [001-000]

嶋原の灯篭、前年より始まった事などこの日の条に詳しい。 [002-000]

JD2362676.5 宝暦6年8月14日 (1756/9/8)
8月14日 待つ宵、月清かなり。
[Y000784-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-81)。 [001-000]

JD2362677.5 宝暦6年8月15日 (1756/9/9)
8月15日 石清水の放生会。有賀氏月次会兼題「野月」「偽恋」当座「叢祠月」。夜、景山を訪れ月見。堀蘭澤、山田孟明、横関斎、恆亮等と集い、和歌、詩などを作る。少し雲の懸かった月を見て兼好法師の故事と唐の微雲の点てつするにしかずという『晋書』の故事を思いだし興を覚える。
[Y000785-000-000]

『在京日記』「けふは有賀氏の月次会にてまいりける、兼題は野月、偽恋、当座は叢祠月をとりてよみ侍る、夕つかたより、景山公の、寓居にて月見よとかねての給ひをかれしかは、かしこへまかり侍る、道すから思ひ侍るは、月ははやとく出やしぬらむ、あたらよをとあしはやにゆく(下略)」(宣長全集:16-81)。 [001-000]

『在京日記』に同夜の歌2首と七言絶句1篇を載せる(宣長全集:16-81)。 [002-000]

『石上稿』に当日詠あり。詞書に「有賀氏八月兼題 野月」「同兼題 偽恋」「同月当座 叢祠月」「八月十五夜月やゝをそく出侍る」「同夜かも川にのそみて東山の月をまち出侍る」(宣長全集:15-231)。 [003-000]

『詩文稿』「八月十五夜侍屈先生樵亭得平字」七言絶句(宣長全集:18-6)。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [004-000]

兼題「野月」「偽恋」の詠を記した二首懐紙あり。箱書「宝暦六年八月十五日有賀家月次歌会兼題をよめるにて当時の筆なり、但し野月の第二句を歌稿には萩の花野とせり、清造しるす」。懐紙「詠二首和歌、春庵、野月、月もさそ萩咲のへをなつかしみゆかりの露にやとはとふらし、偽月、まことゝはおもはぬ物の頼みきて今さら人を何うらむらん」 [005-000]

JD2362678.5 宝暦6年8月16日 (1756/9/10)
8月16日 京の渇水対策、広東人参等薬種抜け荷発覚の影響、鴻池改宗の噂を聞く。
[Y000786-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-82)。 [001-000]

『新長崎年表』上巻に、「八月 西国・中国諸大名に密貿易取締令を命じ、長崎奉行を通じて在港の唐船に諭告〔大成令続集〕」また、翌年の項に「この年 広東人参の輸入を禁止する」とある。 [002-000]

JD2362679.5 宝暦6年8月17日 (1756/9/11)
8月17日 『古今余材抄』巻3の書写終わる。
[Y000787-000-000]

宝暦6年7月27日条。 [001-000]

JD2362682.5 宝暦6年8月20日 (1756/9/14)
8月20日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は衣類のことなど。
[Y000788-000-000]

(宣長全集:別3-351・来簡45) [001-000]

JD2362685.5 宝暦6年8月23日 (1756/9/17)
8月23日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は衣類のことと白粉の依頼。また21日に荷物を送ったことを報じる。
[Y000789-000-000]

(宣長全集:別3-352・来簡46) [001-000]

JD2362687.5 宝暦6年8月25日 (1756/9/19)
8月25日 『古今余材抄』巻4の書写終わる。
[Y000790-000-000]

宝暦6年(1756)7月27日条。 [001-000]

JD2362692.5 宝暦6年9月1日 (1756/9/24)
9月1日 月が改まっても袷が着られないほど残暑厳し。
[Y000791-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-83)。 [001-000]

JD2362693.5 宝暦6年9月2日 (1756/9/25)
9月2日 『古今余材抄』巻5の書写終わる。
[Y000792-000-000]

宝暦6年(1756)7月27日条。 [001-000]

JD2362696.5 宝暦6年9月5日 (1756/9/28)
9月5日夜 上京安居院付近の火事を屋上の火の見より見る。
[Y000793-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-83)。 [001-000]

JD2362702.5 宝暦6年9月11日 (1756/10/4)
9月11日 『古今余材抄』巻6の書写終わる。
[Y000794-000-000]

宝暦6年(1756)7月27日条。 [001-000]

JD2362704.5 宝暦6年9月13日 (1756/10/6)
9月13日 悪天のため月見出来ず。
[Y000795-000-000]

『在京日記』「十三日のよは、大雨にてかみなり、空ひかりなとして、月見るへうもなし、十五夜思ひ出らる」(宣長全集:16-84)。 [001-000]

JD2362707.5 宝暦6年9月16日 (1756/10/9)
9月16日 桃園天皇、有栖川宮職仁親王より「てにをは伝授」。節句から雨が続いていたがこの日はことに風雨激しく、近江で被害甚だしく宇治橋も流れ、また淀川、難波、紀ノ川流域も被害多しと言う噂を聞く。松坂の宣長宅も少々水が入ったらしいが鴨川は水量はさほど多くはない。またこの頃、知恩寺の入仏供養や、真如堂辺りでも開帳があり見物が多いようだが行けない。
[Y000796-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-84)。てにをは伝授は、古今伝授の第一段階。 [001-000]

JD2362708.5 宝暦6年9月17日 (1756/10/10)
9月17日 『古今余材抄』巻7の書写終わる。
[Y000797-000-000]

宝暦6年(1756)7月27日条参照。 [001-000]

JD2362718.5 宝暦6年9月27日 (1756/10/20)
9月27日 有賀氏月次会の日であるが欠席。
[Y000798-000-000]

『在京日記』「廿七日、有賀氏月次会、この月はのひ侍て、けふに成ぬ、さはることありて、えまいり侍らす、兼題は虫声惜秋といふこと也」(宣長全集:16-84)。 [001-000]

JD2362722.5 宝暦6年10月1日 (1756/10/24)
冬 『本居宣長随筆』第5巻(『群書摘抄』)を書き始める。
[Y000799-000-000]

同書巻頭「群書摘抄 丙子冬 舜庵本居宣長識」(宣長全集:13-187)。本書は『武経七書』からの抜粋で始まる。11月17日に始まる同書会読と関係があるか。また宝暦7年に刊行された『南嶺遺稿』までを一区切りとして見ると、その間に引用されたのは次の書目である。『武経七書』(『孫子』『呉子』『司馬法』『太宗問対』『尉繚子』『三略』『六韜』)、『秉燭談』、『徂徠集』、『独語』、「(李夢陽の詩)」、『維摩詰所説経』、『文公家礼』、『康煕字典』、『元明軍談』、『南嶺遺稿』『広益俗説弁』となる。『経籍』(宣長全集:20-625)でもやはり重なる書名がある。ほぼこの時期の読書と見てよいか。 [001-000]

本居清造は、本書の記載期間を「宝暦六年冬以降明和二三年頃ニ至ル」と推定している(宣長全集:13-解題23)。 [002-000]

『本居宣長随筆』第2巻はこの頃まで書き継がれるか。 [003-000]

JD2362722.5 宝暦6年10月1日 (1756/10/24)
10月1日 母宛書簡執筆か。
[Y000800-000-000]

11月3日付母勝差出宣長宛書簡による。 [001-000]

JD2362723.5 宝暦6年10月2日 (1756/10/25)
10月2日 『余材抄』巻8の書写終わる。
[Y000801-000-000]

宝暦6年(1756)7月27日条。 [001-000]

JD2362726.5 宝暦6年10月5日 (1756/10/28)
10月5日 俄に冬めく。亥の子荒れ。
[Y000802-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-84)。 [001-000]

JD2362728.5 宝暦6年10月7日 (1756/10/30)
10月7日 『列子』会読始まる。定日は2、7の日。参加者は上柳藤五郎、清水吉太郎、田中允斎。夕方、祇園に行きその帰り芝居を見る。また噂数々を記す。
[Y000803-000-000]

『在京日記』「十月七日より、上柳藤五郎、清水吉太郎、田中允斎なとあつまりて、列子の会読を始め侍る、けふより二七の日を定めてし侍る也、けふ夕かた、祇園へまいり侍りて、暮過にかへさに、芝居のまへをすき侍るに、北かは、こよひはかはり狂言のしくみとて、ひともしにきはしく見えたり、しくみといふこと聞をれと、また見ねは、ふと入て見ける、富之物(助)か東へくたる御暇乞とて、信田妻によく似たる狂言しける、つねみるとはかはりて、いしやうなともいたくやつして、かしらは、男の髪に野郎帽子といふ物、ひたいにあてたるはかりなれは、中/\さまかはりてめつらし、其外、染松七三郎、小野川弁弥なといふ役者いてて、あひてに成侍る、三線浄瑠璃なともあり、しはし見侍るに、手なとうちよははりてやみぬ、なにこともつねとはたかひ、うちとけたるさま也し」(宣長全集:16-85)。 [001-000]

記された噂の概略は、先達ての宇治川洪水の続報として、住吉社が流れ傍らの橋姫社は流れなかったこと。浮島の石塔が流れそこからでた真鍮の箱が有ったこと。また去年からの凶作で世上困窮し、京都でも各町から拝借米の願いが出されたこと。醍醐前左府が没したが謹慎が2日であること。春日神木が千余本の枯れたなど。 [002-000]

JD2362732.5 宝暦6年10月11日 (1756/11/3)
10月11日 母宛書簡執筆か。
[Y000804-000-000]

11月3日付母勝差出宣長宛書簡による。 [001-000]

JD2362734.5 宝暦6年10月13日 (1756/11/5)
10月13日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。おしげの病気、また京の抜け荷の噂など記す。荷物の発送に添えるか。
[Y000805-000-000]

(宣長全集:別3-353・来簡47)。抜け荷は8月16日条参照。荷物発送は10月16日条参照。 [001-000]

JD2362737.5 宝暦6年10月16日 (1756/11/8)
10月16日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。13日発送の品の到着などを問う。
[Y000806-000-000]

(宣長全集:別3-353・来簡48)。 [001-000]

JD2362738.5 宝暦6年10月17日 (1756/11/9)
10月17日 『てにをは口伝』を写す。『天爾波大概抄之抄』は宝暦7年(1757)6月24日にす。
[Y000807-000-000]

奥書「右之奥書歌道秘蔵録と題号したる本にあり右此書堅く他見惜へきもの也神文恐るへし/\、宝暦六年丙子神無月十七日、本居宣長」。烏丸光広著、墨付21丁。 [001-000]

JD2362741.5 宝暦6年10月20日 (1756/11/12)
10月20日 堀景山、講学励精の功により禄30石を加賜される。また蘭沢も歳棒20石と月額三人扶持とを与えられ側儒となり景山と同職となる。
[Y000808-000-000]

『広島市史』『芸儒堀家略譜』(「堀景山略年譜」高橋俊和『秋桜』第13号に拠る)。 [001-000]

JD2362744.5 宝暦6年10月23日 (1756/11/15)
10月23日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。白粉、琴の爪の依頼。妹縁談の件。
[Y000809-000-000]

(宣長全集:別3-353・来簡49)。 [001-000]

JD2362746.5 宝暦6年10月25日 (1756/11/17)
10月25日 初雪。顔見せ前の芝居の噂を『在京日記』に書き記す。
[Y000810-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-86)。 [001-000]

JD2362750.5 宝暦6年10月 (1756/11/21)
10月 『万葉集』20巻20冊(寛永版本)を購求する。
[Y000811-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「十月 一、万葉集 廿 三十五匁」(宣長全集:20-397)。 [001-000]

JD2362751.5 宝暦6年11月1日 (1756/11/22)
11月1日 顔見せ始まる。孟明と東福寺通天橋に紅葉を見、西石垣の池洲で貝焼きを食べ帰る。霊山と長楽寺の争いの噂を聞く。
[Y000812-000-000]

『在京日記』「孟明とともなひて、東福寺の通天の紅葉見んとてまかりける、さはることありて、えはやくも出侍らす、未の時はかりに成ぬ」(宣長全集:16-86)。 [001-000]

JD2362753.5 宝暦6年11月3日 (1756/11/24)
11月3日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は、衣類の件、白粉の依頼、おしげ、おりんの病気等。
[Y000813-000-000]

(宣長全集:別3-355・来簡50)。 [001-000]

JD2362754.5 宝暦6年11月4日 (1756/11/25)
11月4日 「仮名手本忠臣蔵」など多くの傑作を生みだした浄瑠璃作者の竹田出雲没、享年66歳。
[Y000814-000-000]

JD2362755.5 宝暦6年11月5日 (1756/11/26)
11月5日 夜、大雨風。雷鳴る。この頃、稲荷で曲馬興行。女も乗ると言う噂である。見物人多し。
[Y000815-000-000]

『在京日記』(宣長全集:20-88)。 [001-000]

JD2362762.5 宝暦6年11月12日 (1756/12/3)
11月12日 『列子』会読が終る。甲子の日で今日より7日間東寺で大黒天の開帳始まる。
[Y000816-000-000]

『在京日記』「(十一月十七日)十二日に列子の会おはりぬれば」(宣長全集:16-88)。 [001-000]

「列子抄」(『荘子摘腴・列子抜萃・荀子摘萃・老子・雑抄』)の末尾に「宝暦六年丙子十一月十二日列子会業卒焉、十三日抜萃畢、勢州後学舜庵本居宣長書干平安寓居」(宣長全集:18-516)。 [002-000]

『在京日記』(宣長全集:16-88)。 [003-000]

JD2362763.5 宝暦6年11月13日 (1756/12/4)
11月13日 『列子抄』抜粋終わる。噂として、南側顔見せ評判で4、5日前から言っても席が取れないらしいと記し、不景気と言ってもさほどではないかと感慨を述べる。東寺開帳評判よい。夜、西堀川丸太町南で失火。
[Y000817-000-000]

11月12日条参照。 [001-000]

『在京日記』「南かわかほみせいとうあたり侍る、大かたたやすく、四五日まへなとよりいへと、桟敷なきほとなり、穀価たふとくて、世の中いたみけるとはいへと、かゝることを思へば、さるけしきもなし、東寺の開帳は、主福の神にてませはにや、いと参詣多かりし(下略)」(宣長全集:16-88)。 [002-000]

JD2362765.5 宝暦6年11月15日 (1756/12/6)
11月15日 有賀氏月次会。
[Y000818-000-000]

『在京日記』「十五日、有賀氏月次、いつものことく会あり」(宣長全集:16-88)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠有り。兼題「旅宿冬夜」、当座「寄月恋」「寄布恋」(宣長全集:15-233)。 [002-000]

JD2362766.5 宝暦6年11月16日 (1756/12/7)
11月16日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。
[Y000819-000-000]

(宣長全集:別3-356・来簡51)。 [001-000]

JD2362767.5 宝暦6年11月17日 (1756/12/8)
11月17日 『武経七書』の会読始まる。
[Y000820-000-000]

『在京日記』「十七日、十二日に列子の会おはりぬれば、今日より又、武経七書の会読し侍る、やうかはりて又おかし」(宣長全集:16-88) [001-000]

この年の冬起筆の『本居宣長随筆』第5冊(群書摘抄)の最初は『武経七書』からの抜書である。冬条参照。 [002-000]

JD2362769.5 宝暦6年11月19日 (1756/12/10)
11月19日夜 藤村検校の月次三線会に聞きに行く。
[Y000821-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-89)。 [001-000]

JD2362773.5 宝暦6年11月23日 (1756/12/14)
11月23日 堀蘭澤、高村好節、秋岡貞蔵等と南側顔見世芝居見物。江戸で大火との噂を聞く。
[Y000822-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-89)。 [001-000]

JD2362780.5 宝暦6年11月 (1756/12/21)
11月 『古今余材抄』10冊の書写全部終業。第10冊巻末に「跋余材抄」を識す。
[Y000823-000-000]

跋余材抄

盛哉貫之氏之選也。彬彬乎千載詞林之宗主者也。而如微旨奥趣匪有註解不能融貫通暁也。則清輔、俊成、顕昭、定家諸大家皆取而抄註之。美則美矣。而 略簡不悉焉。人猶不得無憾於難解矣。自是以降迄東常縁、細川玄旨輩、設怪誕奇癖之説、会儒牽仏、高妙其言而駭世聴聞焉。動称☆(革斤)秘隠見微顕、其解愈 繁愈惑。而耳食之徒相従唱和、雖有出入齟齬者、深信不疑。流風一成滔々不反。自是之後風流英才寸皆墜其圏套、莫復能出焉。会文明之運、諸子百家之士儁傑競 起。此道独無其人乎哉。乃浪華有契沖師者。翔泳風雅、殊長乎訓詁。所説率徴拠日本紀、万葉集、而大首倡古義、破数百年詞家成説之惑矣。嘗著万葉代匠記剖蚕 糸折牛毛、精確詳明莫以尚焉。其有功斯文也広且大矣。尋有余材抄之作以註古今。蓋代匠輯採之余材所成也。以故名云爾。宣長受而読之。則深切懇至、而集中微旨奥趣掲焉乎著明矣。固非近世俗学諸註家之所能☆(オヨブ)也。夫亦千載詞林之良佐者也。 而人皆慣浅近浮靡之説也、一披之見其沈雄整密夐異乎尋常、以為迂遠亡補於事、莫敢復取焉者矣。嗟乎卞和氏之璧可不抱而泣乎。因私淑而手写之、蔵巾笥俟同志 云。余其雖不為彼之忠臣、然又免乎為風雅之罪人則庶幾乎。時、宝暦丙子仲冬舜庵本居宣長題 [001-000]

宝暦6年(1756)7月27日条参照。 [002-000]

JD2362784.5 宝暦6年閏11月4日 (1756/12/25)
閏11月4日 浄瑠璃(筑後の芝居)が始まる。
[Y000824-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-89)。 [001-000]

筑後の芝居について『義太夫年表』は、外題未詳とする。 [002-000]

JD2362786.5 宝暦6年閏11月6日 (1756/12/27)
閏11月6日 『万葉集』巻8に、景山本によって『代匠記』説等の書入を始める。
[Y000825-000-000]

『経籍』「▲閏月六日 万八始 ○同卅日 万九始 ○十二ノ十二 万十一始 ○同十七 十一了 ○同廿二 十二了 ○丑二ノ廿二 同十四了」(宣長全集:20-627)。 [001-000]

『経籍』には詳しい記事はないが、翌7年5月9日に終業した堀景山本(『万葉代匠記』説などを書き入れた本)との校合作業の一環であろう。 [002-000]

JD2362795.5 宝暦6年閏11月15日 (1757/1/5)
閏11月15日 有賀氏月次会。
[Y000826-000-000]

『在京日記』「十五日、有賀氏月次会、兼題海辺雪、当座に、寄貝恋をとり侍る」(宣長全集:16-90)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠有り(宣長全集:15-233)。 [002-000]

JD2362797.5 宝暦6年閏11月17日 (1757/1/7)
閏11月17日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡を書く。やつの婚礼道具か櫛箱などの依頼状。
[Y000827-000-000]

(宣長全集:別)3-356・来簡52)。 [001-000]

JD2362800.5 宝暦6年閏11月20日 (1757/1/10)
閏11月20日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡を書く。やつの婚礼の件、櫛箱、水引の依頼、歳暮用に塩肴送付のこと。
[Y000828-000-000]

(宣長全集:別3-357・来簡53)。 [001-000]

JD2362802.5 宝暦6年閏11月22日 (1757/1/12)
閏11月22日 妹やつ、大口村宮崎氏より納采、「やつ」を「しゅん」と改名。
[Y000829-000-000]

12月3日付母書簡(宣長全集:別3-358・来簡54)。本年譜では凡例にも記したが「俊」と書く。 [001-000]

JD2362810.5 宝暦6年12月1日 (1757/1/20)
閏11月30日(但し、閏11月は小の月ゆえ20日の誤りか) 『万葉集』巻9に、景山本によって『代匠記』説等の書入を始める。
[Y000830-000-000]

宝暦6年(1756)閏11月6日条参照。 [001-000]

JD2362800.5 宝暦6年閏11月20日 (1757/1/10)
閏11月某日 母書簡到着。
[Y000831-000-000]

『在京日記』「母君の御消息来たりて、拝し侍るに、妹やつ、同じ国大口の津にすみける池田氏といふ家へとつかしめむとて、定められけるよし、今月廿二日に、しるしの物うけ侍るになりぬ、来る月の十二日には、かのかたへ引うつり侍るにさたまりぬと、仰せこされし」(宣長全集:16-90)。内容から閏11月20日付書簡であろう。 [001-000]

JD2362812.5 宝暦6年12月3日 (1757/1/22)
12月3日 母、本居健蔵(宣長)宛書簡執筆。文面は、閏11月16、26日付書簡到着のこと、やつの改名、婚礼のこと、櫛箱の礼と代金送付のこと等。
[Y000832-000-000]

(宣長全集:別3-357・来簡54)。 [001-000]

JD2362817.5 宝暦6年12月8日 (1757/1/27)
12月8日 有賀氏月次会。母書簡到着。
[Y000833-000-000]

『在京日記』「十二月八日、有賀氏月次の会、年内立春、当座祈逢恋、ともに詠し侍る、けふなん母君の御文まいる、去廿二日に、かの池田氏より納采ありしよし、やつの名も改めて、しゆんとつけられけるよし」(宣長全集:16-90)。 [001-000]

JD2362821.5 宝暦6年12月12日 (1757/1/31)
12月12日 『万葉集』巻11に、景山本によって『代匠記』説等の書入を始める。
[Y000834-000-000]

宝暦6年(1756)閏11月6日条参照。 [001-000]

JD2362821.5 宝暦6年12月12日 (1757/1/31)
12月12日 妹俊、宮崎清九郎と婚礼。後日、その報告を聞いた宣長は母のこれまでの苦労と喜びを慮りその感慨を『在京日記』に記す。
[Y000835-000-000]

『在京日記』「妹が婚礼も、十二日にさはりなくありしよし、母公よりいと悦はしう仰せこされしも、いとことはり、十七年以前、先考のかくれ給ひしより、こともおほくを引うけて、とかくおほしたて給ひし御心つかひ、けに有かたく、今はみなそれ/\に人となり侍て、かく他家へとつくはかりにも成ぬれは、悦ひおはしますも、言もおろかなりや」(宣長全集:16-92)。 [001-000]

JD2362826.5 宝暦6年12月17日 (1757/2/5)
12月17日 『万葉集』巻11に、景山本によって『代匠記』説等の書入終わる。
[Y000836-000-000]

12月12日開始。宝暦6年(1756)閏11月6日条参照。 [001-000]

JD2362826.5 宝暦6年12月17日 (1757/2/5)
12月17日夜 山田孟明、横関斎と有賀氏にて歳暮の歌を詠む。
[Y000837-000-000]

『在京日記』「十七日の夜は、山田周蔵、横関斎なとと、有賀氏へまかりて、歳暮の歌よみ侍る、いと夜更てかへりぬ」(宣長全集:16-92)。 [001-000]

JD2362827.5 宝暦6年12月18日 (1757/2/6)
12月18日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。俊婚礼のこと。
[Y000838-000-000]

(宣長全集:別3-358・来簡55)。12月12日条参照。 [001-000]

JD2362831.5 宝暦6年12月22日 (1757/2/10)
12月22日 『万葉集』巻12に、景山本によって『代匠記』説等の書入終わる。
[Y000839-000-000]

宝暦6年(1756)閏11月6日参照。 [001-000]

JD2362838.5 宝暦6年12月29日 (1757/2/17)
12月29日 『在京日記』に年の瀬を迎えての述懐あり。同日、深更まで祇園に遊び、おけら参りを見物。
[Y000840-000-000]

『在京日記』「廿六七ころになりぬれは、諸人いとせはしうしてさはき侍る、やつかれなとは、さのみ世のいとなみも、今はまたなかるへき身にしあれと、境界につれて風塵にまよひ、このころは、書籍なんとは手にたにとらぬかちなり、かくてをくりむかふるいとなみのみにあかしくらするほとに、はや晦日になりぬ(下略)」(宣長全集:16-92)。 [001-000]

JD2362838.5 宝暦6年12月 (1757/2/17)
12月 『百人一首改観抄』5巻2冊を購求する。
[Y000841-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「子、十二月 一、改観抄 五【合二】 九匁五分」(宣長全集:20-397)。『玉勝間』巻2「ふみども今はえやすくなれる事」「かの人(契沖-引用者注)の書は、百人一首の改観抄だにえがたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人にかりて見て、かはゞやと思ひて、本屋をたづねたりしに、なかりき、板本なるにいかなればなきぞとゝひしかば、えうずる人なき故に、すり出さずとぞいへりける、さてとかくして、からくしてぞえたりける」(宣長全集:1-84)。本書での講釈は、奥書によれば宝暦10年(1760)10月9日と天明4年(1784)閏1月20日の2度。各条参照。 [001-000]

『百人一首改観抄』(樋口宗武増訂版)が刊行されたのは寛延1年(1748)1月(『契沖全集』「契沖年譜」)。宝暦4年(1754)11月没。 [002-000]

JD2362838.5 宝暦6年 (1757/2/17)
この年 『石上稿』に載せる歌は162首。
[Y000842-000-000]

『石上稿』「以上丙子詠百六十二首」(宣長全集:15-234)。 [001-000]


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