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JD2362868.5 宝暦7年1月 (1757/3/19)
宝暦7年(1757)丁丑 宣長28歳。勝53歳、はん26歳。    
[Y000843-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

在京5年目。1月、母上京。同月帰郷。5月、『万葉集』に書入する。9月、師堀景山没。10月、松坂に帰り医業を開く。その頃、『冠辞考』を読み、賀茂真淵の学問を知る。 [001-001]

JD2362839.5 宝暦7年1月1日 (1757/2/18)
1月1日 早朝外に出ると一面の雪。雑煮、餅を食べる。年始に廻る。
[Y000844-000-000]

『在京日記』「やつかれも、こゝかしこ礼にまかりありき侍る」(宣長全集:16-94)。 [001-000]

JD2362839.5 宝暦7年1月1日 (1757/2/18)
1月上旬頃 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。俊の結婚相手である宮崎清九郎家の紹介と、宮崎等への新春の挨拶状の依頼、また鏡台の件を伝える。
[Y000845-000-000]

(宣長全集:別3-359・来簡56)。まだ上京のことは書かれていないのと年賀状の依頼の文面から執筆時期は上旬であろう。 [001-000]

JD2362840.5 宝暦7年1月2日 (1757/2/19)
1月2日 長閑な日である。
[Y000846-000-000]

『在京日記』1月2、3日条(宣長全集:16-94)。 [001-000]

JD2362841.5 宝暦7年1月3日 (1757/2/20)
1月3日 年始客がそれぞれ着飾って行き交い、年玉のやり取り、また俳諧を楽しむ者のが「すり物」(歳旦)を配る様子を『在京日記』に記す。
[Y000847-000-000]

『在京日記』1月2、3日条(宣長全集:16-94)。 [001-000]

JD2362842.5 宝暦7年1月4日 (1757/2/21)
1月4日 有賀氏で歌会始め。
[Y000848-000-000]

『在京日記』「四日のよは、有賀氏の題きはめ、尊像の鏡ひらきとて、皆うちより侍る、十二月の題とも、こよひみなみな評してさため侍る也」(宣長全集:16-94)。 [001-000]

JD2362847.5 宝暦7年1月9日 (1757/2/26)
1月9日 祇園、安井の金比羅参詣。
[Y000849-000-000]

『在京日記』「九日、いとさむけし、けふなん祇園へまふて侍る、いとさむき日にて、まふつる人もすくなくさひしきやうなれと、さすかにこの御社は人たへす、能なとも侍る、物まねやうの者も侍りける、九日、十日は安井のこんひらへひとまいらはやとてまふてけるに、さのみにきはしからす、茶見せにやすらひて、女にとひ侍れは、十日はにきはしきよしいふ、抑このこんひらの社は、近年いたく人の信し奉ること、檀王の主夜神のことく也、ことに青楼娼妓のたくひの、とりはき信仰して、うかれめあまた参り侍る也、いつもよき見ものなるに、けふはひとりも見侍らす、さむきゆへにや、明日まいらて口おしと思ふも、神にもたいなきことならし、それより二間茶屋に立よりて、物くひさけのみて、日くれにかへりぬ」(宣長全集:16-94)。 [001-000]

JD2362853.5 宝暦7年1月15日 (1757/3/4)
1月15日 各座で芝居の始まったことを『在京日記』に記す。
[Y000850-000-000]

『在京日記』「十五日より、北南の芝居、二区ともにけふよりはしめける、筑後か芝居も、つゝきてやかてはしまりぬ、いつれも/\にきはしきこと也」(宣長全集:16-95)。 [001-000]

JD2362856.5 宝暦7年1月18日 (1757/3/7)
1月18日 大西周庵と清水参詣。
[Y000851-000-000]

『在京日記』「十八日、けふは大西氏と清水へまふて侍る、またさむきゆへにや、人多くもなし、されと、いつまいり侍りて(以下22日後半部分と推定される箇所まで欠損)」(宣長全集:16-95)。 [001-000]

JD2362858.5 宝暦7年1月20日 (1757/3/9)
1月20日 景山塾会始。この頃、景山先生の七十賀会開催されるか。
[Y000852-000-000]

『在京日記』「堀氏のよみそめは廿日にありし」(宣長全集:16-96)。 [001-000]

高橋俊和氏は景山七十賀会を塾の新年の読み始めがあった20日と推定する(『本居宣長の歌学』P305)。 [002-000]

藩主浅野宗恒が「松契千春」の題で景山に祝いの歌を贈ったのを受けて、門人が歌を詠み詩を作ったのであろう。 [003-000]

『石上稿』に「景山先生七十初度 松契千春【松平安芸守殿詠和歌賜先生之題也】」の詞書で2首載せる(宣長全集:15-235)。「初度」は誕生日のこと。 [004-000]

『詩文稿』に「賦松奉賀 景山先生七十華誕」とあり。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [005-000]

『詩文稿』自筆本(本居文庫)は、この詩までが柱刻に「曠懐堂蔵」とある罫紙で(残余の5行に、「阿売莵知弁」を書き、抹消する。この筆跡はそれまでとは異なり、もう少し後年のものである)、以後は、別の罫紙に書かれたものの合綴である。 [006-000]

JD2362861.5 宝暦7年1月23日 (1757/3/12)
1月23日 母かつ、姉のふさと知恩院御忌参詣のため上京、対面する。
[Y000853-000-000]

『在京日記』「廿三日、いせより母君の、中条氏の母君とはらから、御忌まいりにのほり給ふて、ほんと町のいとや久右衛門かやに宿り給ふとかや、かのいへより人まいりてつけ侍る、いと思ひかけすうれしくて、其夜やかてゆきて、たいめし侍る、さはりなくましますさま見まいらせて、いか計かよろこはし、御忌は雨ふり、あるひはいとさふき日かちにて、またえまいり侍らす」(宣長全集:16-95) [001-000]

糸屋については寛延1年(1748)4月10日条参照。 [002-000]

JD2362863.5 宝暦7年1月25日 (1757/3/14)
1月25日 芝居見物。
[Y000854-000-000]

『在京日記』「廿五日、けふは、筑後が芝居へ見にまかりぬ、五六人るいして行、国性(姓)爺をし侍るふるめかしき狂言なれと、なをおかしき物也、いとはやくはしまりて、八ツ半比にはてぬ、(中略)あまりはやくはてぬれは(以下約15行分欠損)(宣長全集:16-96)。 [001-000]

JD2362864.5 宝暦7年1月26日 (1757/3/15)
1月26日 有賀氏で月次会があるが欠席する。
[Y000855-000-000]

『在京日記』「廿六日に有賀氏の会なりしか、えまからさりし」(宣長全集:16-96)。 [001-000]

JD2362865.5 宝暦7年1月27日 (1757/3/16)
1月27日 母、昼頃京都を発ち帰郷する予定であったが雪のため延期。
[Y000856-000-000]

1月28日条参照。 [001-000]

JD2362866.5 宝暦7年1月28日 (1757/3/17)
1月28日 風強く寒し。母、帰郷。東海道を下る。
[Y000857-000-000]

『在京日記』「廿八日、母君いせへかへり給ふ、きのふのひるたち給ふへかんなれと、雪ふり、日よりあしかりしかは、のはされにき、けふは日よりはよけれと、風あらましく吹て、さむさはきのふにもまさりて覚ゆ、道のほといかゝと思ふ、近江路はわきて風つよく、さむきやうに覚ゆれは、いとゝおほつかなし」(宣長全集:16-96)。 [001-000]

JD2362868.5 宝暦7年1月 (1757/3/19)
1月 堀景山「丁丑新年」七言律詩、「歳朝自述」七言絶句、「詠福寿草自祝」七言絶句、「春寒」七言絶句を作り孟明がそれに次す。
[Y000858-000-000]

自筆(『本居家新規寄贈品目録』・P192)。 [001-000]

JD2362870.5 宝暦7年2月2日 (1757/3/21)
2月2日 午後外出か。
[Y000859-000-000]

『在京日記』「二日、〔ひる〕雨ふりて、いとつれ/\なりしかは、ひる(以下半丁八行分欠損)」(宣長全集:16-96)。 [001-000]

JD2362871.5 宝暦7年2月3日 (1757/3/22)
2月3日 芝居見物。母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は、松坂に無事帰着の報告。鏡台、菓子の事。
[Y000860-000-000]

『在京日記』「三日、なを雨ふる、巳の時はかり、北側の芝居へまかる、いと大入りにて、舞台まてせまれり、傾城月待山とかいふ狂言なり、(中略)暮まへにはてぬ、つれ七人まて有しかは、さしきいとせはかりし、(下略)」※同日後半部約5行分欠損。(宣長全集:16-97)。 [001-000]

(宣長全集:別3-360・来簡57)。 [002-000]

JD2362875.5 宝暦7年2月7日 (1757/3/26)
2月7日 稲荷参詣。
[Y000861-000-000]

2月8日条参照。 [001-000]

JD2362876.5 宝暦7年2月8日 (1757/3/27)
2月8日 初午。前日に続いて、稲荷参詣。
[Y000862-000-000]

『在京日記』「八日、初午なり、まへ日より二日の間、稲荷へまうて侍る、きのふはひよりよかりしか、けふはひよりすくれす、はつ午は、ことの外にきはしきことなれと、まふつる人みないやしくゐなかひて、いとさはかしけれは、まいらまほしくもおもはす、年ころ京にゐれと、またまいり侍らす」(宣長全集:16-98)。 [001-000]

JD2362877.5 宝暦7年2月9日 (1757/3/28)
2月9日 親次、伊勢下向。
[Y000863-000-000]

『在京日記』「九日、与三兵衛いせにくたり侍る」(宣長全集:16-98)。 [001-000]

JD2362883.5 宝暦7年2月15日 (1757/4/3)
2月15日 このところ天候定まらず、有賀氏月次会も欠席する。南の芝居小屋では大坂で評判の「姫小松子日之遊」に変えたがやはり評判である事など噂を『在京日記』に記す。また、長楽寺の彼岸桜が盛り。昨年は見に行き、井筒屋に寄ったことを思い出すが、今年は行かないと書く。
[Y000864-000-000]

『在京日記』「十五日、けふはねはん也、ひよりあしゝ、有賀氏月次会、えいて侍らす、題は橋辺霞也(下略)」(宣長全集:16-98)。昨年長楽寺に行ったというのは宝暦6年(1756)3月7日であろうか。同日条参照。 [001-000]

JD2362890.5 宝暦7年2月22日 (1757/4/10)
2月22日 『万葉集』巻14に、景山本によって『代匠記』説等の書入終わる。
[Y000865-000-000]

宝暦6年(1756)閏11月6日条参照。 [001-000]

JD2362893.5 宝暦7年2月25日 (1757/4/13)
2月25日 東洞院高辻南の秋岡貞蔵を誘い北野天満宮に参詣。豆腐茶屋により帰途につくと雨に降られ、二軒茶屋で雨宿りをする。
[Y000866-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-99)。 [001-000]

この頃吉野の花盛りも晦頃と聞き、行けないことを残念に思う。また昨冬、疇田永元が行くというので約束をしたことを思い出す。尾上紋太郎に恋した豆腐屋の娘の噂など聞く。 [002-000]

『在京日記』(宣長全集:16-100)。 [003-000]

JD2362895.5 宝暦7年2月27日 (1757/4/15)
2月27日 親次、帰京。おあさ婚礼の噂を聞く。
[Y000867-000-000]

『在京日記』「廿七日、与三兵衛、いせよりかへりぬ、本町おあさも、今月十三日に須川池田氏へ婚礼ありしときゝ侍る」(宣長全集:16-100)。 [001-000]

おあさは隠居家小津源四郎躬充の末女。須川村郷士池田七郎兵衛妻。宝暦5年(1755)10月16日付母書簡に婚約成った旨記される。 [002-000]

この日の記事で『在京日記 二』は終わる。 [003-000]

JD2362897.5 宝暦7年2月 (1757/4/17)
2月 既に書写が終わった『古今余材抄』全10冊を製本し座右に具える。
[Y000868-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「丑二月余材抄 十 写」(宣長全集:20-397)。宝暦6年(1756)7月27日条、宝暦6年(1756)11月条参照。 [001-000]

JD2362897.5 宝暦7年2月 (1757/4/17)
2月 有賀氏会の兼題詠む。
[Y000869-000-000]

『石上稿』に兼題「橋辺霞」2首収める(宣長全集:15-235)。 [001-000]

JD2362900.5 宝暦7年3月3日 (1757/4/20)
3月3日 節句の挨拶廻りをする。武川家の誘いで景山、高台寺春光院の花見に行き、同行する。武川幸順、藤重藤伯、上月氏知源尼、直海元周も同行する。日暮れに帰る。
[Y000870-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-101)。元周は宝暦5年(1755)9月13日条参照。 [001-000]

この日の記事から『在京日記』第3冊は始まる。 [002-000]

JD2362901.5 宝暦7年3月4日 (1757/4/21)
3月4日 蘭沢、藤伯等と東山に花見。丹波屋新宅に遊ぶ。「奉次韻蘭沢屈君看花有感作」はこの日の作か。
[Y000871-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-101)。連日の花見。昨日は先生のお供で気疲れしたので改めて行こうと誘われた。詩は『詩文稿』(宣長全集:18-4)に載る。「附録「詩稿」注釈」高橋俊和(『本居宣長の歌学』)参照。 [001-000]

JD2362903.5 宝暦7年3月6日 (1757/4/23)
3月6日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は、本町に預け金の件などを述べ、帰国は心次第にと言う。
[Y000872-000-000]

(宣長全集:別3-360・来簡58)。 [001-000]

JD2362912.5 宝暦7年3月15日 (1757/5/2)
3月15日 孟明、吉太郎等と永観堂、慈照寺、真如堂の開帳参詣の約束をしていたが日より悪く行かず。昼過ぎる頃、吉太郎から書と詩届く。他行のため返事せず。『在京日記』に吉太郎のことを記す。
[Y000873-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-102)。 [001-000]

JD2362913.5 宝暦7年3月16日 (1757/5/3)
3月16日 孟明、吉太郎等と永観堂、慈照寺、真如堂参詣。
[Y000874-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-103)。 [001-000]

JD2362917.5 宝暦7年3月20日 (1757/5/7)
3月20日 秋岡貞蔵、高村好節と大仏から東福寺に参詣。途中で清水吉太郎、片岡吾一郎と逢い、同道する。安井の藤を見て、二軒茶屋に寄り帰る。
[Y000875-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-106)。記事中、「此寺霊宝おかまするは、伽藍修覆のため也、去ぬる辰の年にもおかませ侍りし、その時ものほりてまいりし」と、寛延1年(1748)にも参詣した事を述べる。 [001-000]

JD2362917.5 宝暦7年3月20日 (1757/5/7)
3月下旬 岩崎栄令宛書簡執筆。
[Y000876-000-000]

(宣長全集:17-15書簡番号6)。所謂漢学生の戯文で、内容は京の遊びの比較。この書簡は「【西郭東涯】優劣論」と言う仮称を付し『洒落本大成』巻4(中央公論社刊)に影印と読み下しを載せる。 [001-000]

JD2362917.5 宝暦7年3月20日 (1757/5/7)
3月下旬 上柳敬基宛書簡執筆。
[Y000877-000-000]

(宣長全集:17-16書簡番号7)。 [001-000]

JD2362918.5 宝暦7年3月21日 (1757/5/8)
3月21日 未刻過ぎた頃から周庵と壬生狂言に行く。
[Y000878-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-107)。※『在京日記』この日の後段より欠損。 [001-000]

JD2362922.5 宝暦7年3月25日 (1757/5/12)
3月25日 藤伯と双林寺の某十七回忌追善の囃に行くが、既に終了して聞けず。酒を飲み帰り、途中二軒茶屋に寄る。
[Y000879-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-107)。※『在京日記』この日の後段より欠損。 [001-000]

JD2362927.5 宝暦7年3月 (1757/5/17)
3月 有賀氏月次会に出席か。
[Y000880-000-000]

『石上稿』に当日詠あり。兼題「花洛春月」、当座「岡五月雨」(宣長全集:15-235)。 [001-000]

JD2362933.5 宝暦7年4月6日 (1757/5/23)
4月6日 東寺に幸俊を訪い、祭見物。
[Y000881-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-108)。 [001-000]

JD2362934.5 宝暦7年4月7日 (1757/5/24)
4月7日 有賀氏臨時褒貶会か。
[Y000882-000-000]

『石上稿』に当日詠有り。詞書に「四月七日有賀氏臨時褒貶会 祈不逢恋」(宣長全集:15-236)とあるが、『在京日記』から5月7日の誤りと推定される。 [001-000]

JD2362935.5 宝暦7年4月8日 (1757/5/25)
4月8日 かねてより比叡山参詣を計画していたが、病気のため断念。
[Y000883-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-108)には「心地悪しく」とある。 [001-000]

JD2362936.5 宝暦7年4月9日 (1757/5/26)
4月9日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は、本町に預け金のことなど。おふさからの海苔を届ける。
[Y000884-000-000]

(宣長全集:別3-361・来簡59)。 [001-000]

JD2362937.5 宝暦7年4月10日 (1757/5/27)
4月10日 周庵と安井の金比羅参詣、木屋町に病気療養中の景山を見舞い、来合せた孟明と物語す。村田清兵衛、本居春庵(宣長)宛書簡執筆し、京都の店より宣長に立て替えた金の明細を見たことで意見を述べる。
[Y000885-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-109)に拠れば、景山は頃日心地悪く、この日より木屋町の貸座敷で養生を始めた。座敷は去年の場所(宝暦6年5月25日条参照)より一町下がったところと言う。 [001-000]

(宣長全集:別3-369・来簡73)。 [002-000]

JD2362938.5 宝暦7年4月11日 (1757/5/28)
4月11日 悪天、雷。上柳敬基、清水吉太郎と3人で『文選』の会読始める。式日は1、6の日。
[Y000886-000-000]

『在京日記』(宣長全集:15-110)。 [001-000]

JD2362942.5 宝暦7年4月15日 (1757/6/1)
4月15日 有賀氏月次会。
[Y000887-000-000]

『在京日記』「十五日、有賀氏月次の会也、今月は贈答の会にて、兼題は思ひ/\に、四季恋雑のうちをよみて、人にかけ歌也、皆人の恋歌多し、季は当季をよむ事也、予も、おそ桜を人にをくる歌よめる、さて当座に、みな人の歌を一ツにしてかきませ、さくりとりて、さくりあたりたる歌のかへしを当座にし侍る也」(宣長全集:16-111)。 [001-000]

『石上稿』に当日詠有り。詞書に「有賀氏四月月次会贈答かけ歌、卯月のはしめつかた久しう音せぬ人のもとに庭の桜を折てつかはしける」、また「郭公まちわひて人のもとへいひやれりける」とあり。また同当座返歌あり(宣長全集:15-236)。 [002-000]

JD2362950.5 宝暦7年4月23日 (1757/6/9)
4月23日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。
[Y000888-000-000]

(宣長全集:別3-362・来簡60)。  [001-000]

JD2362958.5 宝暦7年5月1日 (1757/6/17)
5月1日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は衣類の件など。
[Y000889-000-000]

(宣長全集:別3-362・来簡61)。  [001-000]

JD2362964.5 宝暦7年5月7日 (1757/6/23)
5月7日 有賀氏臨時褒貶会。
[Y000890-000-000]

『在京日記』「有賀氏にて臨時の褒貶会あり、題は祈不逢恋、ほうへんいとおもしろきもの也」(宣長全集:16-112)。 [001-000]

褒貶会。『和歌の浦』第5冊に「褒貶ノ会と云事挙白集ニアリナホ古キ物ニモ見ヘタル事アルカ」とある。この項目の直前が『南嶺遺稿』(宝暦7年9月刊記)であり、『挙白集』購求が帰郷後宝暦8年12月であることから記述は遅れるか。 [002-000]

『石上稿』では4月7日と書くが、歌題が同じ「祈不逢恋」のため5月の誤りと推定した(宣長全集:15-236)。 [003-000]

JD2362966.5 宝暦7年5月9日 (1757/6/25)
5月9日 所蔵する『万葉集』20巻20冊に、堀景山手沢本に記された契沖の説を全部書き写す。
[Y000891-000-000]

奥書「右万葉集二十巻、以景山屈先生家蔵本校正之、至如冠註旁註亦皆拠其本已、此本也先生所自校正、蓋以契冲先師代匠記為拠、如其称師云則今井似閑翁之説也翁亦契冲之門人也、先生与似閑之門人樋口老人宗武友善、是故先生以其本校正、訓点冠註旁註之則実契冲伝説之義、不待代匠記而明焉者也、予深崇信之以余力写之蔵巾笥為秘珍矣、後之閲者勿忽諸爾 宝暦七年丁丑五月九日卒業于平安室坊寓居 神風伊勢意須比飯高蕣庵本居宣長謹」。 [001-000]

『契沖全集』「契沖年譜」では、「本居宣長、堀景山蔵『万葉集』契沖説を寛永版本に書写す」とある。 [002-000]

JD2362970.5 宝暦7年5月13日 (1757/6/29)
5月13日夕 四条河原に納涼。鴨川の橋について述べ、石垣の茶屋や青楼の盛衰を思う。
[Y000892-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-112)。※後半削除あり。 [001-000]

東石垣町(東山区宮川筋一町目)と、対岸の鴨川と高瀬川に挟まれた西石垣(下京区斎藤町)は歓楽街。西石垣での食事の記事が宝暦6年(1756)11月1日条、宝暦7年(1757)8月17日に見える。 [002-000]

JD2362971.5 宝暦7年5月14日 (1757/6/30)
5月14日 『荀子』会読、抜粋終わる。
[Y000893-000-000]

開始は、宝暦6年(1756)3月22日。 [001-000]

JD2362972.5 宝暦7年5月15日 (1757/7/1)
5月15日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。江戸からの金の届かないことを述べる。
[Y000894-000-000]

(宣長全集:別3-362・来簡62)。 [001-000]

JD2362977.5 宝暦7年5月20日 (1757/7/6)
5月20日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。文面は、金子工面の件、幸哲病気の件など。
[Y000895-000-000]

(宣長全集:別3-362・来簡63)。 [001-000]

JD2362978.5 宝暦7年5月21日 (1757/7/7)
5月21日 武川幸哲没、享年69歳。
[Y000896-000-000]

『在京日記』「廿一日、朝武川法眼幸哲先生身まかり給ふ、ことし六十九歳也」(宣長全集:16-119)。 [001-000]

JD2362980.5 宝暦7年5月23日 (1757/7/9)
5月23日 酉の刻(今の午後7時過ぎか)、綾小路南の勝円寺で武川幸哲葬儀。法号有誠院法眼聖岳素賢元順居士。
[Y000897-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-113)。 [001-000]

JD2362983.5 宝暦7年5月26日 (1757/7/12)
5月26日 鉾町で大囃子が始まる。
[Y000898-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-113)。 [001-000]

JD2362986.5 宝暦7年5月29日 (1757/7/15)
5月29日 祇園神輿洗いだが喪中のため行かず。
[Y000899-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-113)。 [001-000]

JD2362994.5 宝暦7年6月8日 (1757/7/23)
6月8日 『灌頂唯授一子之大事』を書写する。
[Y000900-000-000]

外題「唯授一子 古今伝授」、奥書「宝暦七年丁丑六月八日写干平安室坊寓居、神風伊勢意須比飯高清蕣庵識」。 [001-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「(丑八月)一、古今伝授 一 写」(20ー397)。 [002-000]

「宣長は宝暦七年六月に「唯授一子 古今伝授」を手に入れ書写している。切紙をまとめて一冊にしたものと思われるが、(中略)内容は主として三木三鳥の秘事を記したものである」(「宣長と古今伝授」高橋俊和『秋桜』第9号)。 [003-000]

JD2362996.5 宝暦7年6月10日 (1757/7/25)
6月中旬 母勝、持病で10日ほど寝込む。
[Y000901-000-000]

6月20日付母勝差出宣長宛書簡による。 [001-000]

JD2363001.5 宝暦7年6月15日 (1757/7/30)
6月15日 村田清兵衛宛書簡執筆か。
[Y000902-000-000]

6月29日村田清兵衛(光阿)差出宣長宛書簡による。 [001-000]

JD2363004.5 宝暦7年6月18日 (1757/8/2)
6月18日 八つ時過ぎ(今の午後2時頃)より神輿洗いの練物見物。
[Y000903-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-114)。 [001-000]

JD2363006.5 宝暦7年6月20日 (1757/8/4)
6月20日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。自らの病気と快癒、また金子の件を述べる。また親次病気についても心配をする。
[Y000904-000-000]

(宣長全集:別3-364・来簡64)。 [001-000]

JD2363010.5 宝暦7年6月24日 (1757/8/8)
6月24日 『天爾波大概抄之抄』を書写する。
[Y000905-000-000]

奥書「宝暦七年丁丑六月廿四日、清蕣庵宣長写」。宗祇著。墨付18丁。 [001-000]

JD2363015.5 宝暦7年6月29日 (1757/8/13)
6月29日 村田清兵衛(光阿)、宣長宛書簡執筆。秋の帰国の件を了解したこと、倹約、借金に対する注意など伝える。
[Y000906-000-000]

(宣長全集:別3-370・来簡74)。 [001-000]

JD2363016.5 宝暦7年6月 (1757/8/14)
6月末 京極押し小路の南で夜毎つぶての怪事のあること、また霊山の化け物の噂を聞く。田中允斎没。
[Y000907-000-000]

『在京日記』(16-116・119)。 [001-000]

JD2363016.5 宝暦7年6月 (1757/8/14)
6月 『冠辞考』成る。
[Y000908-000-000]

JD2363023.5 宝暦7年7月7日 (1757/8/21)
7月7日 待望の雨。しめやかに降る。6月には各所で雨乞いも行われただけに干天の慈雨。だが京童の言草を借りて七夕の逢瀬を気遣う。
[Y000909-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-118)。 [001-000]

JD2363025.5 宝暦7年7月9日 (1757/8/23)
7月9日夜 六道参りに行く。
[Y000910-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-118)。 [001-000]

JD2363026.5 宝暦7年7月10日 (1757/8/24)
7月10日 田中允斎死去の報に接し、堀景山父子、山田孟明、清水吉太郎ら哀傷の詩を作る。宣長も、能筆だった故人の詩の反古を取り出し見ては涙にくれる。悼詩七絶「哭田中允斎」を作り歌を詠む。
[Y000911-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-119)。 [001-000]

『石上稿』に和歌2首収載。詞書「難波の田中允斎身まかりぬるに読みてやれる」(宣長全集:15-236)。 [002-000]

詩は『在京日記』の他、『詩文稿』に載る(宣長全集:18-6)。 [003-000]

この時の宣長の歌と詩については、高橋俊和「和歌と『源氏物語』」、「附録「詩稿」注釈」(『本居宣長の歌学』・和泉書院刊)参照。 [004-000]

JD2363027.5 宝暦7年7月11日 (1757/8/25)
7月11日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。
[Y000912-000-000]

(宣長全集:別3-364・来簡65)。 [001-000]

JD2363029.5 宝暦7年7月13日 (1757/8/27)
7月13日 母宛書簡執筆か。
[Y000913-000-000]

7月23日付母勝差出宣長宛書簡による。 [001-000]

JD2363033.5 宝暦7年7月17日 (1757/8/31)
7月17日 早くより大文字を見に出るが、所用あり、結局着いたのは火の落ちた後となり、十六夜の月を見て帰る。
[Y000914-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-119)。 [001-000]

JD2363034.5 宝暦7年7月18日 (1757/9/1)
7月18日 山田孟明、清水吉太郎と清水寺に参詣。舞台の上より眺望を楽しむ。その後奥の院を経て、塔の前の茶屋で休み、八坂下川原から四条に出て夕暮れひもじい思いで帰る。峯入りの噂で町は持ちきりである。
[Y000915-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-120)。 [001-000]

JD2363037.5 宝暦7年7月21日 (1757/9/4)
7月21日 聖護院の院参で女院御所に参るというので見物多し。
[Y000916-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-121)。 [001-000]

JD2363039.5 宝暦7年7月23日 (1757/9/6)
7月23日 聖護院の御参内で見物人多し。母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。
[Y000917-000-000]


13日付書簡21日到着と報じ、帰国の土産と白粉の依頼など記す。 [001-001]

『在京日記』(宣長全集:16-121)。 [001-000]

(宣長全集:別3-365・来簡66)。 [002-000]

JD2363041.5 宝暦7年7月25日 (1757/9/8)
7月25日 津戸順達と寺町錦下町象牙屋喜兵衛にて御峯入拝観。
[Y000918-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-122)。 [001-000]

JD2363044.5 宝暦7年7月28日 (1757/9/11)
7月28日 藤伯、周蔵、理兵衛と北で「国両累文談」や踊りを見物した。
[Y000919-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-126)。 [001-000]

JD2363045.5 宝暦7年7月29日 (1757/9/12)
7月29日 夜、四条河原で納涼。
[Y000920-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-127)。 [001-000]

JD2363045.5 宝暦7年7月 (1757/9/12)
7月 残暑厳し。今月25日に行われる聖護院の宮の峯入りに山伏が続々入洛。また見物のための場所代高騰の噂を聞く。
[Y000921-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-117)。 [001-000]

JD2363047.5 宝暦7年8月2日 (1757/9/14)
8月2日 壬生で乗馬。その後、夕立に遭い濡れて帰る。
[Y000922-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-128)に依ると、宣長は壬生の沢三左衛門という乗馬指南で馬借の馬場で乗馬を楽しんだが、その後の夕立でひどい目にあったようである。 [001-000]

JD2363051.5 宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。
[Y000923-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-128)。 [001-000]

本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の蘆庵の詞に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。宣長が京都に遊学した年には既に30歳であるから「わがはたち余り」はあるいは記憶違いか。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。 [002-000]

JD2363053.5 宝暦7年8月8日 (1757/9/20)
8月8日 浄瑠璃見物。
[Y000924-000-000]

『在京日記』「けふなん蘭沢公、藤重氏、高木氏なと、ちくこのしはい見にゆかれぬるよし聞つれは、おとり見はやと思ひ、八ツ半比よりひとり行、芝居茶屋にてたつね、あなひさせて入る、みな思ひかけさりしかは、おとろけるさま也、人形のおとりいとおもしろし、いとよくつかひ侍る、中にも才治といへる人形つかひ、いと上手なり(以下削除)」(宣長全集:16-130)。 [001-000]

JD2363057.5 宝暦7年8月12日 (1757/9/24)
8月12日 孟明と嶋原の灯篭見物。
[Y000925-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-130)。 [001-000]

JD2363060.5 宝暦7年8月15日 (1757/9/27)
8月15日 有賀氏月次会。帰宅後、月見に出る。
[Y000926-000-000]

『在京日記』「十五日の夜も、くもりて月見えす、けふは有賀氏の月次会にまかりぬ、兼題は夜深聞鹿といふこと也、当座はみな月の題にて、予も山の月を取てよみぬ、夜に入てはてぬ/かへりて又月見にいつ(下略)」(宣長全集:16-130)。 [001-000]

JD2363062.5 宝暦7年8月17日 (1757/9/29)
8月17日 かねてからの約束通り孟明、蘭沢と月見に行く。祇園参詣の後、西石垣の料理屋で観月。松坂に帰る日が近づき慌ただしくなって書き漏らすことも出て来たことを託つ。
[Y000927-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-131)。 [001-000]

西石垣(斎藤町)は5月13日条参照。 [002-000]

JD2363075.5 宝暦7年8月30日 (1757/10/12)
8月晦日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。宣長帰郷の件。帰国は節句過ぎの10、11日頃、伊兵衛上京予定なので、その供と帰郷してはと勧める。また、行燈の件。
[Y000928-000-000]

(宣長全集:別3-366・来簡67)。 [001-000]

JD2363075.5 宝暦7年8月 (1757/10/12)
8月 『伊勢物語拾穂抄』2冊、『百人一首拾穂抄』2冊を購求する。『会式』、『玉祐伝』、『古今伝授』を書写する。『湖月抄』24冊を購求する。
[Y000929-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「八月 一、伊勢物語拾穂抄 二 三匁四分、丑八月 一、百一人一首拾穂抄 二 四匁五分 同 一、会式 一 写、同 一、玉祐伝 一 写、同 一、古今伝授 一 写、同 一、湖月抄 廿四冊 金一両三分二百匁」(宣長全集:20-397)。『古今伝授』は、6月8日書写『灌頂唯授一子之大事』(外題「唯授一子 古今伝授」)と同じか。 [001-000]

JD2363083.5 宝暦7年9月8日 (1757/10/20)
9月8日 母、本居春庵(宣長)宛書簡執筆。6日に飛脚で1両2分入り書状発送したことを報じ、宣長帰郷の件について、伊兵衛は14日出立予定なので、その供の者と17日に帰郷してはどうかと勧める。また、行燈の件等。
[Y000930-000-000]

(宣長全集:別3-366・来簡68)。 [001-000]

JD2363085.5 宝暦7年9月10日 (1757/10/22)
9月中旬 若狭に帰る松尾邦孝に歌を贈る。
[Y000931-000-000]

『石上稿』左注「是は九月中旬にて予も又故郷へ帰らんとする比也ける」(宣長全集:15-236)。 [001-000]

JD2363086.5 宝暦7年9月11日 (1757/10/23)
9月11日頃 幸俊に招かれ、六孫王祭礼見物。祭礼後、食事をして、好節、孟明等と東寺五重塔に上り京の町を眺望、また塔の構造に感心する。
[Y000932-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-132)では、9月13日の記事の後に記し、また前後が切断されて日付もないが、六孫王祭礼の日から推定した。この祭礼は、宝永祭とも言い、毎年9月13日神事放生供養が行われた(『都林泉名所図会』巻1)。 [001-000]

JD2363088.5 宝暦7年9月13日 (1757/10/25)
9月13日 秋岡貞蔵と祇園参詣、月見。
[Y000933-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-131)。※後半切断あり。 [001-000]

JD2363094.5 宝暦7年9月19日 (1757/10/31)
9月19日暁 堀景山没、享年70歳。門人たちは亡き師に良靖先生と諡した。
[Y000934-000-000]

『在京日記』「さてしも予かいせくたりも、節供過とかねてさためをきしかとも、景山先生、春よりのわつらひはかはかしからて、此程はいとおもくなり給日にたれは、見すて奉りてはいかゝ下らんと思へは、しはしのはし侍る、やう/\大切に成給て、十九日のあさの暁につゐにゆかをかへて身まかり給ひぬ、としはことし七十になん成り給ひぬる、みな人のおしみ奉ることいはんかたなし、門人ひそかに議して、良靖先生と諡したり、」(宣長全集:16-133)※前半切断あり。 [001-000]

JD2363097.5 宝暦7年9月22日 (1757/11/3)
9月22日 夜明け前より堀景山葬儀が南禅寺帰雲院で執り行われる。儒家の式で丁重な葬儀が終わったのは暮れ近くであった。折しも、景山が愛してやまなかった紅葉が見事で門弟皆が涙にくれた。その後も墓参の時には紅葉を折り手向け、哀悼の詩を捧げた。
[Y000935-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-133)。藩主浅野宗恒の命で堀南雲(南湖の男・北堀家)が「宝暦丁丑七年季秋中旬、安芸守侍従源朝臣宗恒建石以銘」と記した「忠靖先生之碑」碑文を撰した(「弘洲雨屋虫干集」)。 [001-000]

この頃村田伊兵衛上京。清兵衛も晦日頃上京の予定。同道して帰国することを約す。『在京日記』(宣長全集:16-134)。 [002-000]

JD2363105.5 宝暦7年9月 (1757/11/11)
9月 『南嶺遺稿』刊行される。
[Y000936-000-000]

刊記による(『日本随筆大成』第1期20巻)。 [001-000]

本書の書名が『経籍』に見え、書目も引かれる(宣長全集:20-625)。『本居宣長随筆』第5巻(『群書摘抄』)、『和歌の浦』第5冊に、それぞれ『南嶺遺稿』からの引用がある。また前後して井沢蟠龍の『広益俗説弁』もまた各書に引かれる。刊行後それほど時を経ずに閲読したか。 [002-000]

JD2363106.5 宝暦7年10月1日 (1757/11/12)
10月1日 村田清兵衛と筑後の芝居見物。
[Y000937-000-000]

10月2日条参照。 [001-000]

『在京日記』「(二日条)きのふは清兵衛君とるいして、筑後が芝居見に行たり、初日にていとにきはし、狂言は津国女夫之池といふふるきを、室町千畳敷と名を改めてする也、大坂より大和かのほりて、けふよりかたるなれは、いとにきはゝし、道具立いと興あるさまにしなしたり、切りの段千畳敷にて、書院庭のたゝすまひ、いとひろううるはしうしかけたり、此段は人形出つかひにて、大和と長門大夫と出かたり、いと面白きこと也、此大和といふは、今あめのしたにならひなき浄瑠璃の上手也けり、くれまへにはてぬれは、それよりかへりて、夜にいり、そやまへよりかの井筒へはゆきたるなり」(宣長全集:16-134)。 [002-000]

JD2363107.5 宝暦7年10月2日 (1757/11/13)
10月2日 諸方に暇乞いをし、幸順塾を出て四条にある村田伊兵衛の座敷に移る。
[Y000938-000-000]

『在京日記』「二日、けふは、かた/\へまかり申しにありき、其外何くれといと心あわたゝし」「二日の夜に入りて、人/\いとまこひして、こよひより四条高倉の西なる伊兵衛座敷へうつり、明日たつ也、清兵衛君も此の座敷に逗留しておはしけり、初夜過る程に、武川氏をしまひて四条へうつる、年比心やすくせし人/\、むつましうつかひならしししも人まて、今はと立わかるゝ折のいとまこひいふほと、なみたおちて物もいひやらす、いと名残多し、さてこよひは、荷物何くれとまかなひ、旅よそひして、四条の家にねぬ」(宣長全集:16-134)。 [001-000]

JD2363108.5 宝暦7年10月3日 (1757/11/14)
10月3日 京都遊学を終え帰国のため清兵衛と供二人を伴い京を出立する。木津川を渡り、般若坂を越え、東大寺、春日社、興福寺等参詣、奈良泊。
[Y000939-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-134)。 [001-000]

帰郷に際し友人より送られた詩文が『宣長帰郷餞別詩文』2巻として遺る(表装は本居清造)。内容は「送本居蕣菴還勢序」山田孟明、「楽府十章送本君還郷」清水吉太郎、「送本君蕣菴帰勢序」同(以上1巻)、「(涼風凛々)」上柳藤五郎敬基、「奉送本居君還郷」安仁卿、「送蕣菴医兄帰勢州」他岡本幸俊作3篇、泉龍作1篇、「送華亭秀才帰勢州」草光章、福嘉身1篇、、春桑1篇(和歌)。また山田孟明餞別詩1篇が別に表装されて遺る。 [002-000]

JD2363109.5 宝暦7年10月4日 (1757/11/15)
10月4日 三輪明神、長谷寺参詣、初瀬泊。
[Y000940-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-137)。長谷寺の件には「そもそも村田氏、としことにこの御寺の開帳し奉らるゝ、いとたふときこと也、此寺の開帳と申すは、一七日間也、初一日は、脇に立給ふ天照太神、春日明神の像をもおかませ侍る、料は金七両弐歩也ける、・・むかしおさなかりし程にまふてたりしことは有しかと、はか/\しくも覚えす、はしめてにことならす、いとめつらし、・・さて御とちやうのさがる程、いとたう(ママ)とし、よのつねの帳は上へあくるを、これは下へおろす也」とあり、母方の村田家もまた熱心な信者であったことが窺われる。 [001-000]

長谷寺は、村田家に限らず他の松坂の豪商からも崇拝された。江戸でも有数の紙商であった本町の小津清左衛門家の『小津商店由来』に、「(五代目小津清左衛門道冲は)信仰心頗ぶる篤く自から一石一字の法華経を写し堀坂山の頂上に埋め、碑を建てゝ堀坂山より吹き来る大乗の真風を以て郷土の五欲の熱を醒こと祈り、(略)又大和長谷寺観世音に永代開帳料を寄進し」とあり、「(六代目小津清左衛門道慧は)宝暦四甲戌年〈一七五四〉三月大和長谷寺観音堂へ大香炉を寄進」(『松阪市史』・12-272)したことが記される。 [002-000]

この日の記述には「いとたふとき」という言葉が2回出る。この15年後、43歳の『菅笠日記』の旅の途次、同寺に参詣したときにもやはり「いともたふとくて」と宣長は感慨を記す。この『菅笠日記』の記述について、「『菅笠日記』菅見」杉戸清彬(『新日本古典文学大系月報』79)に次の指摘がある。 [003-000]

「吉野への途次、宣長一行は長谷寺に立ち寄った。そしてその本尊に詣でた時の様子を、宣長は「人もをがめば。われもふしをがむ。」と版本に書いている。いかにも他人様次第という印象があり、些か気にかかる言い方と感じていた。ところが、その後自筆稿本を見たところ、この部分、もとは「いともたふとくてふしをがみ奉る」とあったものを縦の二重線で消し、その右傍に版本の本文となった改訂を施していることがわかった。このもとの本文であれば何の不自然さも感じなかったと思う。(略)右のような例を見ると、仏像への崇敬の念を示す類の文言を、宣長は意識的に消し去っていると言ってもよいと思う。」 [004-000]

JD2363110.5 宝暦7年10月5日 (1757/11/16)
10月5日 伊賀名張を越え、阿保泊。
[Y000941-000-000]

『在京日記』(宣長全集:16-139)。 [001-000]

JD2363111.5 宝暦7年10月6日 (1757/11/17)
10月6日 阿保を早朝出立。日暮れ頃松坂帰着。
[Y000942-000-000]

『在京日記』「六日、まふ〔「た」か〕よふかくやとりをいつ、かこにのりたり、雨つよくふる、かこの内にてねふりぬるほとに山坂をこゆ、さて夜明て、かちよりゆく、日高くあかりて、雨やみ空はれぬ、いせ海道の六軒茶屋にいつ、かねて七日につくへきよしいひやりたれは、けふはむかひの人もこす、ひくれかたに松坂につきぬ」(宣長全集:16-139)。『在京日記』はこの記事を以て終わる。奥書は「宝暦七年丁丑、本居蕣庵」(宣長全集:16-139)。 [001-000]

『日録』「宝暦七年丁丑十月六日、自京師帰松坂、称本居春庵、行医事」(宣長全集:16-143)。『日録』はこの記事で始まる。表題と署名は「日録 清蕣庵」(宣長全集:16-143)。 [002-000]

JD2363134.5 宝暦7年10月 (1757/12/10)
10月 景山遺物の『藻塩草』5冊を拝領する。
[Y000943-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍書目』「十月 一、藻塩草 五 屈先生遺物」(宣長全集:20-397)。『藻塩草』は同名書が多く、宣長旧蔵書中にも該当書が見当たらないので内容を特定出来ないが、冊数から垂加神道書『神代巻藻塩草』(玉木正英著、5冊、元文4年1月谷川士清が識語を書き刊行)であるという説もある。 [001-000]

JD2363134.5 宝暦7年10月 (1757/12/10)
10月 医事を以て生涯の業とす。
[Y000944-000-000]

10月6日条参照。 [001-000]

『本居氏系図』「同七年丁丑十月自京帰以医為業」(宣長全集:20-86)。 [002-000]

『家のむかし物語』「同七年十月に、京より松坂にかへり、これよりくすしのわざをもて、家の産とはして、【医のわざをもて産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよ/\道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業をまめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうをはかるべきものぞ、これのりなががこゝろ也】もはら皇朝のまなびに心をいれて、よるひるといはずいそしみつとめぬ」(宣長全集:20-29)。 [003-000]

医療活動の基本が往診であったことが、『松坂権輿雑集』「医師於病家薬調合之事」では「町中ニ病者あれは医者病家に行て脈を診し、帰宅して薬を調合し、病家より以使薬を令請、宝永元申年県官大須賀九郎右衛門某、青木養安ニ命し於病家直ニ薬を投事を町中諸医ニ令内通、無僕の病者蒙其沢」(『松阪市史』・9-156)から推測される。その他、医療活動の実際については『本居宣長全集』第19巻解題に詳しい。また、市中の医者数は明和6年『松坂町役所支配分限帳』に代々御目見医者鹿嶋元泰以下35名が挙げられている(『松阪市史』・11-305)。 [004-000]

JD2363135.5 宝暦7年11月1日 (1757/12/11)
11月1日 参宮、山田浦口古森氏宅に泊まる。
[Y000945-000-000]

『日録』「十一月朔、参宮、其夜宿山田浦口古森氏」(宣長全集:16-143)。古森金右衛門家は、母の姉ちかの嫁ぎ先。 [001-000]

JD2363136.5 宝暦7年11月2日 (1757/12/12)
11月2日 帰宅。
[Y000946-000-000]

『日録』「二日、還」(宣長全集:16-143)。 [001-000]

JD2363144.5 宝暦7年11月10日 (1757/12/20)
11月10日 長井元恂宛書簡執筆し、来訪の時の不在を詫び、帰郷の挨拶をする。
[Y000947-000-000]

(宣長全集:17-29書簡番号14)。長井元恂は松坂の人。父は元慎、その5男。医を業とし書画をよくしたと伝える。通称環、号は逸堂、槐斎。宣長と同年。天明6年(1786)1月27日没。享年57。来迎寺に葬る。子は元申。『宝暦咄し』にいささか芳しからぬ噂が載る。 [001-000]

この頃『冠辞考』を読むか。 [002-000]

『玉勝間』「おのが物まなびの有しやう」「さて後、国にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辞考といふ物を見せたるにぞ、県居大人の御名をも、始めてしりける、かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりことゝほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしもいできければ、又立ちかへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに信ずる心の出来つゝ、つひにいにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ、かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける」(宣長全集:1-85)。 [003-000]

『冠辞考』は宝暦7年(1757)の刊行。跋は8月、本文末尾に「宝暦七のとしみな月にかうかへ畢ぬ、高梯秀倉、村田春道」とある。 [004-000]

宣長が本書を最初に見たのが嶺松院会の席上だとすると、本書との出会いは宝暦8年(1758)2月以降の可能性が出てくる。 [005-000]

JD2363193.5 宝暦7年 (1758/2/7)
この年 『石上稿』に載せる歌は46首。
[Y000948-000-000]

『石上稿』「宝暦七年丁丑詠総四十六首【千四百卅四首、四百八十三、〆千九百十七】」(宣長全集:15-236)。 [001-000]


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