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JD2363223.5 宝暦8年1月 (1758/3/9)
宝暦8年(1758)戊寅 宣長29歳。勝54歳、はん27歳。
[Y000949-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

嶺松院会加入。5月、『安波礼弁』起筆。養子の件で上京。6月帰郷。夏、『源氏物語』開講。 [001-001]

JD2363194.5 宝暦8年1月1日 (1758/2/8)
1月1日読書始めに『古今集』を読むか。
[Y000950-000-000]

『日記』宝暦9年(1759)1月1日条により推定。同日条参照。 [001-000]

JD2363213.5 宝暦8年1月20日 (1758/2/27)
1月20日 『古今選』初稿本の編述を始める。村田浄林没、享年75歳。小津貞正没、享年84歳。
[Y000951-000-000]

見返し「戊寅正月廿日始 蕣庵」、54丁(『善本目録』P55)。『古今選』は『万葉集』及び二十一代集から、宣長の佳とした歌を選んだ、いわば秀歌選である。初稿本では各集順に1279首が選ばれる。再稿本は3月22日脱稿。 [001-000]

『日録』(宣長全集:16-143)。浄林は、宣長母かつの弟村田清兵衛の養父で、もと村田伊兵衛の別家。通称権右衛門(『家のむかし物語』)。 [002-000]

貞正については、不明。宝暦5年(1755)4月14日貞正女於源が死去したことが『在京日記』に記される。 [003-000]

JD2363213.5 宝暦8年1月20日 (1758/2/27)
1月下旬 浄林の死去により、村田与三兵衛親次京都より帰郷。
[Y000952-000-000]

『日録』「(二月)四日、与三兵衛発足上京、依村田浄林死去去月下旬下向也」(宣長全集:16-143)。 [001-000]

JD2363215.5 宝暦8年1月22日 (1758/3/1)
1月22日 村田浄林、小津貞正葬儀。
[Y000953-000-000]

『日録』(宣長全集:16-143)。 [001-000]

JD2363224.5 宝暦8年2月1日 (1758/3/10)
2月1日 晴天、初午。
[Y000954-000-000]

『日録』(宣長全集:16-143)。『松坂風俗記』「二月 初午 いせ一ヶ国の賑ひ也。岡寺山継松寺ト云寺ノ観世音へ参詣す。大体、前日よりして、当日之夜にいたる。見せ物、軽業など、わづか両日両夜の事なれ共、小屋をかけて興行す。京、大坂、名古屋、四日市、津辺よりも、商人多くきたりて、種々の物を売。大かた一ヶ年に用ゆる料、此会式にてことたる也。一国の人皆参詣する。殊に厄年之者は猶さら也(中略)当日之昼四ツ時比より八ツ時過までは、寺内に人詰りて、老人子供などは参詣かなはず。一ト切/\に人数を入かへて参詣さする也。」(服部中庸著・『本居宣長稿本全集』より再掲)。 [001-000]

宝暦11年(1761)2月24日条参照。 [002-000]

JD2363227.5 宝暦8年2月4日 (1758/3/13)
2月4日 1月下旬に帰郷した村田与三兵衛(親次)、上京する。小津宗閑没、享年84歳。
[Y000955-000-000]

『日録』(宣長全集:16-143)。 [001-000]

『本居氏系図 歴世手代略記』「小津仁兵衛 号林誉宗閑 此方手代雖非店支配人本家古老者也、茅原田村産也、住西町、男仁兵衛嗣【後為小津市郎兵衛之嗣移魚町】」(宣長全集:20-135)。 [002-000]

JD2363228.5 宝暦8年2月5日 (1758/3/14)
2月5日 小津宗閑葬儀。宮崎清九郎、江戸に下向する。
[Y000956-000-000]

『日録』(宣長全集:16-143)。 [001-000]

清九郎は妹やつの夫。 [002-000]

JD2363234.5 宝暦8年2月11日 (1758/3/20)
2月11日 嶺松院会。宣長初めて出詠か。当日、探題出詠者は清地、春庵、正啓、明達、栄宣、義方、道円。
[Y000957-000-000]

『詠草会集』第6冊同日の条に春庵名で初出。同集に拠れば、当時の嶺松院会員は宣長を含め、清地・正啓・明達・栄宣・義方・道円・行前等。宣長の『嶺松院会和歌序』に「こゝにわがすむ里ちかきなにがしの院に、月ごとの十一日廿五日には、かならずこれかれあつまりて、月なみの題さだめをきつゝ、例の物する人びとなん有ける」(宣長全集:18-41)とある。 [001-000]

『石上稿』(宣長全集:15-237)。 [002-000]

出詠の歌など有賀長川の添削を受ける。8月上旬頃条参照。 [003-000]

JD2363248.5 宝暦8年2月25日 (1758/4/3)
2月25日 嶺松院会。
[Y000958-000-000]

『詠草会集』第6冊。『石上稿』(宣長全集:15-237)。 [001-000]

この頃『二十一代集』を読み続けるか。 [002-000]

『石上稿』詞書に「二十一代集をつき/\よみて思ひつゝけける」(宣長全集:15-237)。『古今選』編集との関係であろうか。 [003-000]

JD2363252.5 宝暦8年2月 (1758/4/7)
2月 『嶺松院会和歌序』成るか。
[Y000959-000-000]

JD2363263.5 宝暦8年3月11日 (1758/4/18)
3月11日 嶺松院会。
[Y000960-000-000]

『詠草会集』第6冊。『石上稿』(15-237・238)。 [001-000]

JD2363274.5 宝暦8年3月22日 (1758/4/29)
3月22日 『古今選』再稿本成る。
[Y000961-000-000]

「宝暦八年戊寅三月二十二日 清蕣庵 本居宣長書」(宣長全集:14-506)。 [001-000]

JD2363277.5 宝暦8年3月25日 (1758/5/2)
3月25日 嶺松院会。
[Y000962-000-000]

『詠草会集』第6冊。『石上稿』(宣長全集:15-237)。 [001-000]

JD2363281.5 宝暦8年3月 (1758/5/6)
3月 宮崎清九郎、江戸より帰郷する。
[Y000963-000-000]

『日録』「今月、清九郎自江戸帰」(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363292.5 宝暦8年4月11日 (1758/5/17)
4月11日 嶺松院会。
[Y000964-000-000]

『詠草会集』第7冊。同集はこの日の記録で始まる。『石上稿』(15-237・238)。 [001-000]

JD2363301.5 宝暦8年4月20日 (1758/5/26)
4月20日 村田善斎没。享年81。
[Y000965-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363302.5 宝暦8年4月21日 (1758/5/27)
4月21日 樹敬寺で村田善斎葬儀。
[Y000966-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363306.5 宝暦8年4月25日 (1758/5/31)
4月25日 嶺松院会。
[Y000967-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-238)。 [001-000]

JD2363309.5 宝暦8年4月28日 (1758/6/3)
4月28日 『摘腴』(『論語』朱註抄出)起筆する。
[Y000968-000-000]

「論語 朱註 戊寅四月廿八日 清蕣庵識」(宣長全集:18-563)。 [001-000]

JD2363311.5 宝暦8年4月 (1758/6/5)
夏 『源氏物語』講釈を開始する。
[Y000969-000-000]

『日録』宝暦9年1月13日条(宣長全集:16-145)、明和3年(1766)6月30日条(宣長全集:16-269)。記事は同日条参照。 [001-000]

宣長手沢本『源氏物語湖月抄』巻末付箋「右源氏物語予講釈起于宝暦八年夏而至明和三年丙戌六月晦日夜全部終業矣聴受人者、浅原十左衛門義方【発起人也、半而死】、小津清右衛門正啓、中村伊右衛門光多、稲垣什助棟隆、須賀正蔵直躬、浜田八郎兵衛明達【中廃】、覚性院戒言、折戸重兵衛氏麻呂、村坂嘉左衛門道生、明和(虫食)【傍書「三」】年丙戌七月朔日 石上散人」(4-口絵)。 [002-000]

聴講者は、浅原義方(発起人、中途で死去)、小津正啓、中村光多、稲垣棟隆、須賀直躬、浜田明達(中廃)、覚性院戒言、折戸氏麻呂、村坂道生等。 [003-000]

発起人である浅原義方は通称十左衛門。宝暦10年(1760)に五十賀を祝っているので、この年48歳である。宝暦12年(1762)春に亡くなった。 [004-000]

JD2363314.5 宝暦8年5月3日 (1758/6/8)
5月3日 『安波礼弁』起筆、『紫文訳解』も同時か。
[Y000970-000-000]

『安波礼弁・紫文訳解』は天理図書館所蔵。『安波礼弁』表紙裏に「戊寅五月三日発起」(宣長全集:4-584)とある。 [001-000]

この頃『排蘆小船』起稿するか。 [002-000]

宣長の最初の著述として著名であるが、成立年代には諸説有り定まらない。大別すると在京中説と帰郷後説となる。ここでは『本居宣長の生涯』岩田隆(以文社・P71)の説に従う。 [003-000]

JD2363322.5 宝暦8年5月11日 (1758/6/16)
5月11日 嶺松院会。
[Y000971-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-238)。 [001-000]

JD2363327.5 宝暦8年5月16日 (1758/6/21)
5月16日 津戸順達宛書簡執筆する。内容は京都の医家への養子の件である。4月9日での津戸差出書簡を14日に受け取ったことをまず述べ、明日位上京予定と考えていたが、養子先の一候補である伊藤家について、もう少し聞き合わせをとの母の意向により延期、さらに詳しい内情をと依頼する。
[Y000972-000-000]

(宣長全集:17-31書簡番号15)。 [001-000]

母の言として、少分ながら親元の家を打ち捨てることや京住みがこの話の最大の要因であることなどを引き、当時の宣長の覚悟を窺うことが出来る。5月27日からの上京はこの件の面談交渉のためである。 [002-000]

JD2363331.5 宝暦8年5月20日 (1758/6/25)
5月20日 津戸順達、宣長宛書簡執筆。先方の詳しいことは面談でないと伝えがたいし、武川先生も同じ考えであると言い、伊藤氏と麻嶋氏の内情を簡明に伝える。
[Y000973-000-000]

(宣長全集:別3-372・来簡77)。 [001-000]

JD2363336.5 宝暦8年5月25日 (1758/6/30)
5月25日 嶺松院会。
[Y000974-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-238)。 [001-000]

JD2363338.5 宝暦8年5月27日 (1758/7/2)
5月27日 上京。松坂出立、関に泊まる。同行は妙楽寺住職と弟子理道。従者は連れて行かなかった。
[Y000975-000-000]

『日録』「五月、上京、廿七日、発足、大雨天、宿関」(宣長全集:16-144)。 [001-000]

上京の目的は、京都の友人津戸順達を通じ、京都の医家へ、宣長を養子にとの話があり、京都居住は宣長の望むところであったので、その面談交渉のためであった。5月16日条参照。 [002-000]

JD2363339.5 宝暦8年5月28日 (1758/7/3)
5月28日 石部泊。
[Y000976-000-000]

『日録』「五月、上京、廿七日、発足、大雨天、宿関」(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363340.5 宝暦8年5月29日 (1758/7/4)
5月29日 京に着く。五条坊門室町西、津戸順達宅に逗留。
[Y000977-000-000]

『日録』「廿九日、大雨天、大水、酉刻至京師、今度同道人、山室妙楽寺、弟子理道両人而無従者、今月小、而今日晦也、逗留五条坊門室町西津戸順達宅」(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363347.5 宝暦8年6月7日 (1758/7/11)
6月7日 京出立、草津泊。
[Y000978-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

『石上稿』に京出立の頃の詠が載る。詞書に「こその秋霧に京をたち別れ春霞にとしもへたゝりて又いつかはと思ひしに夏の比とみのことにて思ひかけすあからさまに又のほりぬる年ころになうむつひかはせし人/\にもなにくれかたりあはせまほしきこと共おほかれと大方何事もあはたゝしきさまにて五日六日のほとにまかりかへりなんとすれは今さらわかれのやるかたなき心になけの一言をたにとゝめをきてしのはれやとは思へともおろかなる口おそさにひねりいてむすへしらすうち思ふまゝに」(宣長全集:15-239)。 [002-000]

JD2363348.5 宝暦8年6月8日 (1758/7/12)
6月8日 坂下泊。
[Y000979-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363349.5 宝暦8年6月9日 (1758/7/13)
6月9日 松坂帰着。同行妙楽寺住職、理道。
[Y000980-000-000]

『日録』「九日、大雨天、申刻過帰松坂、同道人同上」(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363351.5 宝暦8年6月11日 (1758/7/15)
6月11日 嶺松院会。
[Y000981-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-238)。 [001-000]

兼題「松風如秋」で「住吉」を詠み、同月25日兼題「夕風」でもやはり「住吉」を詠むのは京都養子の件が不調に終わり松坂住みを決めたことと関係あるか。 [002-000]

JD2363360.5 宝暦8年6月20日 (1758/7/24)
6月下旬 病気で体調不良か。
[Y000982-000-000]

「送中里栄宣趣東都歌二首並序」(6月30日条参照)に、江戸下向を控え挨拶に訪れた栄宣に「折しもやつがれ心ちあしくてこもりゐ侍りけらばえたいめんも給はらず」と書く。 [001-000]

JD2363361.5 宝暦8年6月21日 (1758/7/25)
6月21日 小津孫右衛門英昌、江戸に下向する。
[Y000983-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

隠居家小津源四郎躬充(道有)の次男英昌(寿仙)。後に孫左衛門と称す。父の跡を継いだが家産衰え、明和1年(1764)6月江戸店閉店、同7年松坂本町宅売却。安永3年(1774)11月桑名で没す。享年48歳(『家のむかし物語』)。 [002-000]

JD2363365.5 宝暦8年6月25日 (1758/7/29)
6月25日 嶺松院会。
[Y000984-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-239)。 [001-000]

JD2363370.5 宝暦8年6月30日 (1758/8/3)
6月30日 江戸に下向する中里栄宣に「送中里栄宣趣東都歌二首並序」を贈る。
[Y000985-000-000]

『石上稿』収載(宣長全集:15-238)、序末に「みなつき晦日」とあり。 [001-000]

中里栄宣については不詳。嶺松院会や回章に「平三郎」「栄宣」として参加する人であろう。 [002-000]

JD2363376.5 宝暦8年7月6日 (1758/8/9)
7月6日 嶺松院会。
[Y000986-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-240)。 [001-000]

嶺松院会の会日は、11日と25日だが、7月は6日と25日である。6日と早いのは、盆の関係か。 [002-000]

JD2363390.5 宝暦8年7月20日 (1758/8/23)
7月下旬 村田元寿尼病気により、村田親次京都より帰郷する。
[Y000987-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363395.5 宝暦8年7月25日 (1758/8/28)
7月25日 嶺松院会。
[Y000988-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(15-239・240)。 [001-000]

JD2363400.5 宝暦8年8月1日 (1758/9/2)
8月1日 村田親次、村田伊兵衛と上京する。
[Y000989-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363400.5 宝暦8年8月1日 (1758/9/2)
8月上旬頃 有賀氏会での正月から8月までの兼題を『石上稿』に記載する。
[Y000990-000-000]

『有賀長川添削詠草』巻2に丑(宝暦7)10月から8月までの添削が載る(宣長全集:18-58)。『石上稿』では嶺松院会7月25日と8月11日分の間に挟まれる(宣長全集:15-241)。有賀氏会については宝暦6年(1756)2月15日条参照。 [001-000]

『有賀長川添削詠草』巻1には、同年2月11日嶺松院会での詠などの添削が載る。兼題と共に提出したか。 [002-000]

JD2363410.5 宝暦8年8月11日 (1758/9/12)
8月11日 嶺松院会。
[Y000991-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-240)。 [001-000]

JD2363424.5 宝暦8年8月25日 (1758/9/26)
8月25日 嶺松院会。
[Y000992-000-000]

『詠草会集』第7冊、当座のみ出詠。『石上稿』(宣長全集:15-240)。 [001-000]

JD2363427.5 宝暦8年8月28日 (1758/9/29)
8月28日 大口村の宮崎家に嫁いでいた妹俊が男子出生する。
[Y000993-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。9月5日、清之充と命名されたが11月20日没。 [001-000]

JD2363434.5 宝暦8年9月5日 (1758/10/6)
9月5日 宮崎俊の子、清之充と命名。
[Y000994-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363440.5 宝暦8年9月11日 (1758/10/12)
9月11日 嶺松院会。
[Y000995-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-240)。 [001-000]

JD2363447.5 宝暦8年9月18日 (1758/10/19)
9月18日 中町の常念寺で本堂造営の上棟式。
[Y000996-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

JD2363454.5 宝暦8年9月25日 (1758/10/26)
9月25日 嶺松院会。
[Y000997-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-240)。 [001-000]

JD2363459.5 宝暦8年9月 (1758/10/31)
9月 『古今六帖』9冊を購求する。
[Y000998-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「寅九月 一、古今六帖 九 十匁」(宣長全集:20-397) [001-000]

寛文9年(1669)版。蔵書印「鈴屋之印」。小口書「六」(宣長筆か)。 [002-000]

JD2363470.5 宝暦8年10月11日 (1758/11/11)
10月11日 嶺松院会。
[Y000999-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-241)では兼題「枕上時雨」と当座「千鳥」の間に、物名歌「ささむくは」、「人の家のかへに菊の花させりけるを題にてすなはち此五文字を句ことのかしらにすへて十月比、折句、きくのはな」、無題の3首を挟む。 [001-000]

JD2363484.5 宝暦8年10月25日 (1758/11/25)
10月25日 嶺松院会。
[Y001000-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-241)。 [001-000]

JD2363489.5 宝暦8年10月 (1758/11/30)
10月 『新葉集』3冊、『新古今集』3冊を購求する。
[Y001001-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十月 一 新葉集 三 三匁 同 一 新古今集 三 四匁」(宣長全集:20-397)。 [001-000]

JD2363518.5 宝暦8年11月 (1758/12/29)
11月 来春の藩主訪問を控え、松坂の道の各所で改修工事が行われる。
[Y001002-000-000]

『日録』「町々道作、因来春殿様御出也」(宣長全集:16-145)。江戸下向の途中立ち寄る予定であったか。12月条参照。 [001-000]

JD2363500.5 宝暦8年11月11日 (1758/12/11)
11月11日 嶺松院会。
[Y001003-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-241)。 [001-000]

JD2363509.5 宝暦8年11月20日 (1758/12/20)
11月20日 宮崎俊の子、清之充没。
[Y001004-000-000]

『日録』(宣長全集:16-144)。 [001-000]

『石上稿』に追悼歌を載せる。詞書に「いもうとなる人子うみたりける始てのおのこゝにさへ有けれは皆人いたうよろこひて千歳をかけて行末のよはひをことふきあへるにまだもゝかにもたらぬほとにはかなくうせぬあへなくあはれなるまゝに思ひつゝけける二首」(宣長全集:15-242)。 [002-000]

JD2363512.5 宝暦8年11月23日 (1758/12/23)
11月23日 行事本居春庵の名で、11月25日嶺松院会開催と12月11日会の兼題の通知状を、小津道円、小津清右衛門、浅原十左衛門、中里平三郎、竹内庄兵衛、三谷立斎、浜田八次郎(以上連名)宛に送る。
[Y001005-000-000]

(宣長全集:17-32書簡番号17)。 [001-000]

小津道円長親は、元禄3年(1690)〜宝暦10年(1760)2月30日 享年71歳、小津孫右衛門道智(宣長実祖父)の実兄小津清兵衛長正の次男で本町にあった門の小津清兵衛家当主。 [002-000]

小津清右衛門正啓(マサヒロ)、宝永1年(1704)〜安永8年(1779)12月2日 享年76歳。講釈に参加、正啓が宝暦10年(1760)10月5日に江戸下向のため一時『源氏物語』『枕草子』講釈を中断したこともある。宣長門人となり『授業門人録』筆頭に名が載る。 [003-000]

浅原十左衛門義方(ヨシマサ)、宣長の『源氏物語』講釈の発起人。宝暦8年(1758)夏条参照。 [004-000]

中里平三郎栄宣(ヨシノブ)、6月30日条参照。竹内庄兵衛・三谷立斎、宝暦10年(1760)春五十賀を祝う。浜田八次郎明達(アキユキ)、『源氏物語』講釈中廃 24歳か、宝暦9年(1759)2月頃条参照。何れも伝不詳。浅原、中里、浜田の名の読み方は『詠草会集』第6冊宝暦8年(1758)3月11日条参照。 [005-000]

JD2363514.5 宝暦8年11月25日 (1758/12/25)
11月25日 嶺松院会。この日、稲懸棟隆初めて出席する。
[Y001006-000-000]

『詠草会集』第7冊。『石上稿』(宣長全集:15-241)。 [001-000]

棟隆については、「稲掛棟隆年譜考-本居宣長の門人伝-」中村一基(『中央大学國文』23号)参照。同論に依れば、棟隆は翌年2月11日から連続して嶺松院会に出席する。最初は稲掛為昭の名で、4月25日からは棟隆となる。但し、この日は既に棟隆名で記される。 [002-000]

JD2363529.5 宝暦8年12月11日 (1759/1/9)
12月11日 嶺松院会。
[Y001007-000-000]

『詠草会集』第7冊。同集はこの日の記録で終わる。『石上稿』(宣長全集:15-242)。 [001-000]

JD2363548.5 宝暦8年12月 (1759/1/28)
12月 『挙白集』8冊を購求する。
[Y001008-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十二月 一、挙白集 八 三匁五分」(宣長全集:20-397) [001-000]

『本居宣長随筆』巻1に、同集に関する記事が有る(宣長全集:13-3)。この頃執筆か。また、その直後に『冠辞考』説の引用有り。「まくらことば」は近き代の名目という一番基本的な説であることから、あるいはこの頃『冠辞考』に接するか。 [002-000]

『古言指南』に『挙白集』を「其文イヅレモ悪シ、見ルニタラズ、タヾシ悪キハナヲユルスベケレト、ツヤ/\文章ノ体制、詞ノツカヒヤウヲ知ラズ、古語ヲ用ヒタル、ミナ心得タガヒノミ多シ」(宣長全集:14-652)と批判する。『古言指南』の成立年は不明で、全集では宝暦8年(1758)6月以後、宝暦13年(1763)までの間と推測する(宣長全集:12-解題36)が、或いは本書購求後であろうか。 [003-000]

『和歌の浦』巻5に同書からの引用がある。直前は『南嶺遺稿』、直後には『史記』6行引用後に「宝暦九年己卯正月廿四日御会始」が写される。この時期の筆写か。 [004-000]

JD2363548.5 宝暦8年12月 (1759/1/28)
12月 来年1月13日の紀州藩主の江戸下向は、松坂を通らず美濃路となるというお触れがある。
[Y001009-000-000]

『日録』(宣長全集:16-145)。 [001-000]

JD2363548.5 宝暦8年 (1759/1/28)
宝暦8年 同年詠として『石上稿』に157首載せる。
[Y001010-000-000]

『石上稿』「宝暦八年戊寅詠総百五十七【二千七十四】」(宣長全集:15-243)。 [001-000]


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