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JD2363961.5 宝暦10年1月 (1760/3/16)
宝暦10年(1760)庚辰 宣長31歳。勝56歳、はん29歳。
[Y001094-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

1月、『土左日記』、5月、『枕草子』、10月、『百人一首改観抄』それぞれ開講。9月、村田みかと結婚。同12月、離婚。 [001-001]

JD2363933.5 宝暦10年1月1日 (1760/2/17)
1月1日 晴天、暖気。
[Y001095-000-000]

『日録』(宣長全集:15-148)。 [001-000]

JD2363934.5 宝暦10年1月2日 (1760/2/18)
1月2日 晴天、暖気。
[Y001096-000-000]

『日録』(宣長全集:15-148)。 [001-000]

JD2363935.5 宝暦10年1月3日 (1760/2/19)
1月3日 晴天、暖気。
[Y001097-000-000]

『日録』(宣長全集:15-148)。 [001-000]

JD2363944.5 宝暦10年1月12日 (1760/2/28)
1月12日 嶺松院会。
[Y001098-000-000]

『詠草会集』第9冊。「会頭春庵」とある。当座出詠、蕣庵、小津正啓、中津光多、須賀直躬、浅原義方(歌無し)、稲懸棟隆、清地、浜田明達。『石上稿』(宣長全集:15-253)。 [001-000]

JD2363957.5 宝暦10年1月25日 (1760/3/12)
1月25日 嶺松院会。
[Y001099-000-000]

『詠草会集』第9冊。「行事舜庵」とある。『石上稿』(宣長全集:15-253)。 [001-000]

JD2363958.5 宝暦10年1月26日 (1760/3/13)
1月26日 『土左日記』開講。村田家との婚儀の話まとまる。
[Y001100-000-000]

『日録』「廿六日、旧冬清兵衛殿以世話、聘村田彦太郎女、今日可許嫁由有返事、今夕土左日記開講」(宣長全集:16-148)。講釈終了は5月14日。 [001-000]

村田家は、魚町住、屋号木地屋。大年寄を勤めた。『松坂権輿雑集』(『松阪市史』9-145)に詳しい。 [002-000]

JD2363964.5 宝暦10年2月3日 (1760/3/19)
2月3日 村田七左衛門を媒酌人として、村田家に遣わす。
[Y001101-000-000]

『日録』「三日、以村田七左衛門為此度結婚之媒、今日使如村田氏」(宣長全集:16-148)。 [001-000]

JD2363967.5 宝暦10年2月6日 (1760/3/22)
2月6日 江戸で大火。
[Y001102-000-000]

この情報は5日目後11日に松坂に伝わっている。同日条参照。 [001-000]

JD2363971.5 宝暦10年2月10日 (1760/3/26)
2月10日 加良洲神社に参詣する。
[Y001103-000-000]

『日録』「詣加良洲」(宣長全集:16-148)。『石上稿』に「からす浦にまかりて」と言う詞書で1首載る(宣長全集:15-256)のはこの時の詠であろう。 [001-000]

JD2363972.5 宝暦10年2月11日 (1760/3/27)
2月11日 嶺松院会。6日の江戸大火の知らせが入る。
[Y001104-000-000]

『詠草会集』第9冊。『石上稿』(宣長全集:15-253)。 [001-000]

『日記』「(二月)十一日、去六日江戸大火事之由、今日相知、六日暮六時、神田旅篭町出火、紺屋町飛移、自夫石町、伝馬町、本町三丁目四町目、室町、堀留舟町、小船町、南北新堀辺不残焼、永代橋深川迄焼通、凡松坂店之分、八九分通此度焼失、其内土蔵等多焼失之由、殊外之大火也、同日七時、芝神明前亦失火、大成候由也、且又三日大火事有之候上也」(宣長全集:16-148)。 [002-000]

JD2363972.5 宝暦10年2月11日 (1760/3/27)
この頃 浅原義方の五十賀、三谷立斎五十賀、服部義中七十賀の歌を詠む。
[Y001105-000-000]

『石上稿』(宣長全集:15-253)。同集のこの年の歌の配列には疑問が残るが一応2月11日前後と推測しておく。 [001-000]

JD2363973.5 宝暦10年2月12日 (1760/3/28)
2月12日 叔父小津源四郎、手代彦兵衛江戸下向。
[Y001106-000-000]

『日録』(宣長全集:16-148)。 [001-000]

源四郎店は大伝馬町一丁目にあり、宣長も一年滞在したことがある。下向は6日の火事と関係があるのではないか。 [002-000]

JD2363974.5 宝暦10年2月13日 (1760/3/29)
2月13日 木造に桃の花見に行く。
[Y001107-000-000]

『日録』「十三日、木造の桃花を見にまかる」(宣長全集:16-148)。『宝暦咄し』「木造桃はやし、毎年花見大賑合(一本頭書「明治末期迄賑ふ」)」(『松阪市史』・9-174) [001-000]

JD2363976.5 宝暦10年2月15日 (1760/3/31)
2月15日 『狭衣物語』校合終わる。
[Y001108-000-000]

奥書「宝暦十年庚辰二月望日、一本校合畢、舜庵宣長」。 [001-000]

JD2363981.5 宝暦10年2月20日 (1760/4/5)
2月20日 菅相寺和歌会。この日が初会。定日20日。
[Y001109-000-000]

『菅相寺天満宮法楽和歌月次会兼題当座集 錦葉集 第一』の裏表紙に「宝暦十年庚辰二月二十日」とある。同書によれば、初会の参加者は、宣長、中津光多、浜田明達、須賀直躬、小津正啓。兼題と当座の詠が載る。しかし参加者の活動はあまり活発でなく、宣長が出詠したのは、初会と会頭を勤めた6月だけである。8月には、直躬が会頭を勤めて、兼題は正啓一人の出詠、当座は直躬と正啓が出詠、その末尾に「錦葉集終」と記されて終了している。 [001-000]

『日録』「廿日、於菅相寺和歌会、自今日新興行、月次以廿日為定日」(宣長全集:16-148)。『石上稿』(宣長全集:15-256)。 [002-000]

JD2363983.5 宝暦10年2月22日 (1760/4/7)
2月22日 小津道円女、中万村に嫁ぐ。
[Y001110-000-000]

『日録』「廿二日、小津道円女嫁中間村(一字空)氏」(宣長全集:16-148)。 [001-000]

小津道円長親については宝暦8年(1758)11月23日条参照。女はその末子で、村田清兵衛宗善の妻の妹。中間村は、現在の松阪市中万町か。 [002-000]

JD2363986.5 宝暦10年2月25日 (1760/4/10)
2月25日 嶺松院会。
[Y001111-000-000]

『詠草会集』第9冊。『石上稿』(宣長全集:15-256)。 [001-000]

JD2363991.5 宝暦10年2月30日 (1760/4/15)
2月30日 小津道円没。享年71歳。
[Y001112-000-000]

『日録』「晦日、夜小津道円死、七十一、三月朔日、道円葬、土葬」(宣長全集:16-148)。 [001-000]

JD2363991.5 宝暦10年2月 (1760/4/15)
2月 『袋草紙』4冊を購求する。
[Y001113-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「辰二月 一、袋草紙 四 五匁」(宣長全集:20-397)。 [001-000]

JD2363992.5 宝暦10年3月1日 (1760/4/16)
3月1日 小津道円葬儀。
[Y001114-000-000]

2月3日条参照。 [001-000]

JD2363994.5 宝暦10年3月3日 (1760/4/18)
3月3日 2日の夜7時(午前4時)過ぎ、新町亀屋で火事があり、この日の節句の礼は無し。
[Y001115-000-000]

『日記』「二日、夜七時過、新町亀屋失火、于時雨天無風、卯刻消、只一軒焼失了、土蔵等無子細、三日、雨天、仍此暁之火事歟、無礼者」(宣長全集:16-149)。 [001-000]

JD2364002.5 宝暦10年3月11日 (1760/4/26)
3月11日 嶺松院会。
[Y001116-000-000]

『詠草会集』第9冊。『石上稿』(宣長全集:15-256)。 [001-000]

JD2364010.5 宝暦10年3月19日 (1760/5/4)
3月19日 この日から25日までの間、円光大師五百五十年忌が樹敬寺で行われ多数の参詣客がある。
[Y001117-000-000]

『日記』(宣長全集:16-149)。 [001-000]

JD2364011.5 宝暦10年3月20日 (1760/5/5)
3月20日 菅相寺会。
[Y001118-000-000]

『石上稿』(宣長全集:15-257)。 [001-000]

JD2364016.5 宝暦10年3月25日 (1760/5/10)
3月25日 嶺松院会。
[Y001119-000-000]

『詠草会集』第9冊。当座のみ出詠。 [001-000]

JD2364019.5 宝暦10年3月28日 (1760/5/13)
3月28日 堀蘭沢、参宮の為来訪。一宿。
[Y001120-000-000]

JD2364049.5 宝暦10年4月1日 (1760/6/12)
4月上旬 将軍病気で隠居。但し宣下未だ聴かず。(宣長全集:16-150)
[Y001121-000-000]

『日録』「廿八日、堀正大夫参宮、被訪、今夜一宿拙宅也」(宣長全集:16-149)。 [001-000]

蘭沢、享保7年(1722)10月20日〜寛政1年(1789)11月9日、は景山の次男。通称正大夫、名は正亮。宝暦6年(1756)10月20日、芸州侯浅野宗恆の儒官となり20石6人扶持を賜る。寛政1年(1789)11月9日没、享年68歳。宣長との初対面は、宝暦2年(1752)3月26日、景山宅に挨拶に行った時、また在京中の行楽など同伴多し。 [002-000]

JD2364028.5 宝暦10年4月8日 (1760/5/22)
4月8日 村田氏に納幣。使者井田六郎右衛門。
[Y001122-000-000]

『日録』「四月八日、晴天、納幣村田氏、(以下品名等詳細記述在り、引用略)」(宣長全集:16-149)。 [001-000]

JD2364029.5 宝暦10年4月9日 (1760/5/23)
4月9日 村田氏、木野氏等が納幣の祝賀に来る。また、夜に入り許嫁の村田より使者来訪。
[Y001123-000-000]

『日録』(宣長全集:16-149)。村田氏は母の実家であろうか。木野氏は、正しくは木濃氏、新町住、屋号井土屋。松坂最初よりの薬店。『松坂権輿雑集』に詳しい。 [001-000]

JD2364031.5 宝暦10年4月11日 (1760/5/25)
4月11日 嶺松院会。
[Y001124-000-000]

『詠草会集』第9冊。当座のみ。『石上稿』(宣長全集:15-255)。 [001-000]

JD2364035.5 宝暦10年4月15日 (1760/5/29)
4月15日 村田家に行き、主人彦太郎、同内室に挨拶。
[Y001125-000-000]

『日録』「十五日、予往村田氏対面彦太郎及内室、七左衛門同道、酒吸物出(中略)今日雖精進日、仍彦太郎病気重、急如此也」(宣長全集:16-150)。 [001-000]

JD2364040.5 宝暦10年4月20日 (1760/6/3)
4月20日 村田彦太郎の娘麻、甥の喜兵衛を養子とし、今日婚礼。
[Y001126-000-000]

『日録』「廿日、村田彦太郎、以甥喜兵衛為養子、今日与女麻婚礼、喜兵衛者木野氏宗億末子、喜作弟也、則更名彦右衛門」(宣長全集:16-150)。ふみにはあさという姉妹がいたことになる。 [001-000]

JD2364045.5 宝暦10年4月25日 (1760/6/8)
4月25日 嶺松院会。
[Y001127-000-000]

『詠草会集』第9冊。『石上稿』(宣長全集:15-257)。 [001-000]

JD2364046.5 宝暦10年4月26日 (1760/6/9)
4月26日 栄保大姉三十三回忌で鏡餅を配る(宣長全集:16-150)。
[Y001128-000-000]

JD2364047.5 宝暦10年4月27日 (1760/6/10)
4月27日 小津次郎左衛門女美和、養子善蔵と婚礼。小津次郎左衛門、勘右衛門と改め、善蔵が次郎左衛門と名乗る。
[Y001129-000-000]

JD2364049.5 宝暦10年4月 (1760/6/12)
4月 日照、あちこちで雨乞いが行われる(宣長全集:16-150)。
[Y001130-000-000]

JD2364050.5 宝暦10年5月1日 (1760/6/13)
5月1日 母と伴、参宮する。
[Y001131-000-000]

『日録』「五月朔、母堂及伴参宮、二日下向、源四郎殿儀右衛門自江戸帰著」(宣長全集:16-150)。翌2日帰着。 [001-000]

JD2364051.5 宝暦10年5月2日 (1760/6/14)
5月2日 母等帰宅。叔父小津源四郎、手代彦兵衛江戸より帰着。
[Y001132-000-000]

5月1日条参照。 [001-000]

儀右衛門は、源四郎末男。7月6日条参照。 [002-000]

JD2364052.5 宝暦10年5月3日 (1760/6/15)
5月3日 村田彦太郎没。翌日葬儀。
[Y001133-000-000]

『日録』「三日、夜八時、村田彦太郎卒、四日、八ツ半時村田氏火葬、晴天」(宣長全集:16-150)。 [001-000]

彦太郎は以前から体調が悪かったのであろうか。娘ふみの宣長との婚約、喜兵衛養子の件と相次いで話が進められたことも関係あるか。 [002-000]

JD2364054.5 宝暦10年5月5日 (1760/6/17)
5月5日 村田氏へ遠慮で、節句の礼に行かず。
[Y001134-000-000]

『日録』「五日、晴天、不礼出、村田氏之遠慮也」(宣長全集:16-150)。 [001-000]

JD2364058.5 宝暦10年5月9日 (1760/6/21)
5月9日 雨龍森で雨乞い(宣長全集:16-151)。
[Y001135-000-000]

JD2364060.5 宝暦10年5月11日 (1760/6/23)
5月11日 嶺松院会。
[Y001136-000-000]

『詠草会集』第9冊。11月25日条に「詩句題百首【出艸菴集当座詠之】五月十一日」として歌を収める。「稲掛棟隆年譜考-本居宣長の門人伝-」(中村一基著・『中央大学國文』23号)では、「宣長によって『草庵集玉箒』(明和四年成)が書かれる下地が、嶺松院歌会の『草庵集』を重んずる風潮にあった一例である。ちなみに、十一日の出席者は、宣長以外は、光多、棟隆、直躬、正啓という初期の鈴門の人々であった」と論ず。 [001-000]

『石上稿』(宣長全集:15-257)は、兼題「疎屋夕顔」1首を載せる。 [002-000]

JD2364063.5 宝暦10年5月14日 (1760/6/26)
5月14日 夕、『土左日記』講釈終わる。
[Y001137-000-000]

『日録』「十四日、夕土左日記講釈終業」(宣長全集:16-151)。開始は1月26日。 [001-000]

JD2364070.5 宝暦10年5月21日 (1760/7/3)
5月21日 昨日より雨、今日になり水も充分となり遅れていた田植えが行われていた(宣長全集:16-151)。
[Y001138-000-000]

JD2364074.5 宝暦10年5月25日 (1760/7/7)
5月25日 嶺松院会。
[Y001139-000-000]

『詠草会集』第9冊。11月25日条に、「詩句題百首【出艸菴集当座詠之】五月廿五日」として歌を収める。 [001-000]

『石上稿』(宣長全集:15-257)は、兼題「梅雨」「寄垣恋」の2首を載せる。 [002-000]

JD2364075.5 宝暦10年5月26日 (1760/7/8)
5月26日 夕、『枕草子』の講釈を始める。定日は、4日、14日、24日の夕。
[Y001140-000-000]

『日録』「廿六日、夕枕草子開講、以四日夕十四日夕廿四日夕、為定日、廿四日夕有故、仍是今夕開講也」(宣長全集:16-151)。 [001-000]

JD2364079.5 宝暦10年5月 (1760/7/12)
5月 『新明題』3冊購求する。『百人一首玄旨抄』3冊を入手するか。またこの頃『藤川五百首抄』を入手するか。
[Y001141-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「五月 一、新明題 三 六匁、同、一、百人一首玄旨抄 三 一、藤川五百首抄」(宣長全集:20-397)。『百人一首玄旨抄』、『藤川五百首抄』の入手方法は不明。 [001-000]

『本居宣長随筆』第1冊に、『百人一首玄旨抄』評あり(宣長全集:13-17)。この頃執筆か。また手沢本『百人一首改観抄』には「玄旨抄」説が丹念に写される。 [002-000]

JD2364090.5 宝暦10年6月11日 (1760/7/23)
6月11日 嶺松院会。
[Y001142-000-000]

『詠草会集』第9冊。『石上稿』(宣長全集:15-256)。 [001-000]

JD2364099.5 宝暦10年6月20日 (1760/8/1)
6月20日 菅相寺歌会。宣長行事を勤める。
[Y001143-000-000]

『錦葉集』。同会ではこの月が最も盛会であった。兼題出詠は小津正啓、稲懸棟隆、須賀直躬、山口昭方、宣長。探題は正啓、義方、宣長、明達、光多(名前だけで歌は未載)、昭方、棟隆、直躬。また当座もあった。同会については2月20日条参照。 [001-000]

『石上稿』に収める当日詠と推定される歌四首の詞書は「夏の比菅相寺にて和歌会しける時むかひに見ゆる山里をいつこそととへは駅部田となんいふ此里の名を句の上にすへて蚊遣火の烟の立を見てよめる」「同し時西瓜をふきの葉にもりていたしたるをくひてよめる狂歌」「同時 西瓜」「当座 橋杜若」(宣長全集:15-256)。 [002-000]

JD2364104.5 宝暦10年6月25日 (1760/8/6)
6月25日 嶺松院会。
[Y001144-000-000]

『詠草会集』第9冊。 [001-000]

JD2364109.5 宝暦10年7月1日 (1760/8/11)
7月1日 村田伊兵衛没。享年52。
[Y001145-000-000]

『日録』「七月朔、四ツ時村田伊兵衛死、五十二、三日、村田氏土葬」(宣長全集:16-151)。伊兵衛は宝暦2年3月7日条参照。 [001-000]

JD2364111.5 宝暦10年7月3日 (1760/8/13)
7月3日 村田伊兵衛葬儀。
[Y001146-000-000]

7月1日条参照。 [001-000]

JD2364114.5 宝暦10年7月6日 (1760/8/16)
7月6日 嶺松院会。小津源四郎末男儀右衛門、津の岡藤左衛門の養子となり、結納。
[Y001147-000-000]

『詠草会集』第9冊。当座のみ出詠。『石上稿』(宣長全集:15-257)。 [001-000]

『日録』(宣長全集:16-151)。 [002-000]

岡藤左衛門、津の魚町に住し魚問屋を営む富商の5代目。諱は度堅、字は子順、眉山と号す。幼名は亀次郎、後、藤助と改め、隠居して亀蔵と言う。俳号は牛甫、薫馬。谷川士清、宣長の伊勢時代の和歌の師法幢、儒者奥田三角、新井白蛾、龍草廬、南宮大湫、僧雪巌等と交わった。天明1年(1781)2月30日没。 [003-000]

儀右衛門は元文3年(1738)生、度堅の女むくと結婚、6代岡藤左衛門となるが、明和7年(1770)12月に離縁、小津義兵衛と名乗る。安永7年(1778)9月20日没、享年41歳。離縁の理由は、紀州藩へ多額の金員を調達し、一家の疲弊を招いたことであると『本居宣長稿本全集』(宣長全集:1-602)は伝える。 [004-000]

JD2364117.5 宝暦10年7月9日 (1760/8/19)
7月9日 煤払い。愛宕町天神裏で相撲の興行始まる。
[Y001148-000-000]

『日録』(宣長全集:16-151)。この日以後、記載のない年もあるが、享和1年(1801)7月6日まで、毎年7月、12月の2度、煤払いの記事が見える。 [001-000]

JD2364133.5 宝暦10年7月25日 (1760/9/4)
7月25日 嶺松院会。
[Y001149-000-000]

『詠草会集』第9冊。『石上集』(宣長全集:15-257)。 [001-000]

JD2364138.5 宝暦10年8月1日 (1760/9/9)
8月上旬 極楽町裏川端で曲馬が行われる。
[Y001150-000-000]

『日録』(宣長全集:16-151)。 [001-000]

JD2364148.5 宝暦10年8月11日 (1760/9/19)
8月11日 嶺松院会。新古歌合を行う。
[Y001151-000-000]

『詠草会集』第9冊。同巻末「新古歌合 勝」に「辰八月十一日」として、勝ち数のみを記す。以下同じ。 [001-000]

JD2364152.5 宝暦10年8月15日 (1760/9/23)
8月15日 29日まで関の地蔵開帳。
[Y001152-000-000]

『日録』(宣長全集:16-151)。 [001-000]

JD2364157.5 宝暦10年8月20日 (1760/9/28)
8月20日 菅相寺法楽和歌会興行。但し、宣長は出席せず。同会はこの日をもって終了する。
[Y001153-000-000]

2月20日条参照。 [001-000]

JD2364162.5 宝暦10年8月25日 (1760/10/3)
8月25日 嶺松院会。新古歌合を行う。
[Y001154-000-000]

『詠草会集』第9冊。同巻末「新古歌合」に「八月廿五日」として、勝ち数のみを記す。『石上稿』(宣長全集:15-256)。 [001-000]

JD2364167.5 宝暦10年8月 (1760/10/8)
8月 『草庵集』4冊、『続草庵集』2冊、『玄々集』1冊、『類字名所和歌集』8冊、『和歌組題集』1冊、『長明無名抄』1冊、『藤川百首抄』3冊、『枕艸子装束抄』1冊を購求する。
[Y001155-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「八月 一、草庵集 四冊 三匁、同、一、続草庵集 二冊 一匁、同、一、玄々集 一冊 一匁、同、一、類字名所和歌集 八冊 八匁、同、一、和歌組題集 一 一匁、同、一、長明無名抄 一冊 一匁、同、一、藤川百首抄 三冊 二匁、辰八月 一、枕艸子装束抄 一 一匁」(宣長全集:20-398)。 [001-000]

JD2364168.5 宝暦10年9月1日 (1760/10/9)
9月上旬 川井町裏で人形芝居始まる。
[Y001156-000-000]

『日録』(宣長全集:16-153)。宝暦13年(1763)10月上旬条参照。 [001-000]

JD2364169.5 宝暦10年9月2日 (1760/10/10)
9月2日 徳川家治を10代将軍に宣下される。
[Y001157-000-000]

JD2364173.5 宝暦10年9月6日 (1760/10/14)
9月6日 『勢陽雑記略』写。
[Y001158-000-000]

奥書「宝暦十年庚辰九月六日 本居宣長謹写」。 [001-000]

JD2364174.5 宝暦10年9月7日 (1760/10/15)
9月7日 許嫁ふみ、みかと改名。
[Y001159-000-000]

『日録』「七日、村田氏女改名美加、旧名不弥也」(宣長全集:16-152)。 [001-000]

JD2364176.5 宝暦10年9月9日 (1760/10/17)
9月9日 行事春庵の名で、9月11日嶺松院会開催と、9月25日会の兼題の通知状を中村伊右衛門、浜田八郎兵衛、三谷立斎、稲垣重兵衛、須賀正蔵、小津清右衛門、浅原十左衛門宛に送る。
[Y001160-000-000]

(宣長全集:17-33書簡番号17)。 [001-000]

JD2364178.5 宝暦10年9月11日 (1760/10/19)
9月11日 嶺松院会。夕方、荷物納め。夜、婚礼に先立ち宰領人手代佐助等10名を振舞う。
[Y001161-000-000]

『詠草会集』第9冊。当座のみ出詠。 [001-000]

『日録』「十一日、夕雨天、自村田氏贈美可荷物来、使者手代佐助、下人九人也、長持二棹、箪笥二棹、葛篭一荷」(宣長全集:16-152)。 [002-000]

『宝暦庚辰九月 婚姻書紀』(宣長全集:16-665)。 [003-000]

JD2364179.5 宝暦10年9月12日 (1760/10/20)
9月12日 婚礼に先立ち、祝儀を両年寄、五人組、近所に配る。
[Y001162-000-000]

『宝暦庚辰九月 婚姻書紀』(宣長全集:16-665)。 [001-000]

JD2364181.5 宝暦10年9月14日 (1760/10/22)
9月14日 晴天、村田みかと婚礼。
[Y001163-000-000]

『日録』「十四日、乙卯、晴天、卯時美可入家、木濃喜作同伴、此方母人、源四郎殿、予、並媒七左衛門、以上六人同座婚礼矣、(下略)」(宣長全集:16-152)。 [001-000]

『宝暦庚辰九月 婚姻書紀』(宣長全集:16-665)。盃事など婚礼の詳細を記す。 [002-000]

『日録』『宝暦庚辰九月婚礼書紀』により一日を追ってみる。当初、婚礼は昼の予定であったがこの日が精進日にあたり予定は変更を余儀なくされた。早朝卯の刻、新婦が到着した。同伴は木濃喜作。常の着物で来て到着後白小袖に改めた。先ず熨斗鮑、次に雑煮、蛤吸い物を出し、次にいよいよ盃事となる。盃事は、新婦、喜作、母、小津源四郎、宣長、媒人村田七左衛門(2月3日条参照)の6人。酌人はおつねと「くわ人」おみわ。「くわ人」は加人、手助けか。銚子は錫の御神酒徳利。終わった後に喜作と供2人が退出した。供の者には祝儀5人分渡す。予定では彦右衛門夫婦も出席の筈であったが早朝のため欠席した。その供の分である。夕飯の客は、小津源四郎躬充、子息孫左衛門英昌、英昌弟儀右衛門(実は岡氏養子、婚礼は同月26日)。村田清兵衛、村田七左衛門、おりん、おきん、おたか、おとは、おしな他32名に及んだ。献立は飯、香物、坪、汁、鱠、平。焼物、酒、取り肴。新婦の土産は小津源四郎に扇箱他であった。 [003-000]

『家のむかし物語』「同十年、魚町村田彦太郎某の女を娶れりしが、離別して」(宣長全集:20-29)。 [004-000]

当日の客の、おりんは小津定治唱阿4女栄昌。おきんは小津定治唱阿5女。おとはは村田豊商5女で母妹。 [005-000]

JD2364182.5 宝暦10年9月15日 (1760/10/23)
9月15日夜 母、俊、英昌と村田氏に招かれる。亥の刻帰る。
[Y001164-000-000]

『日録』(宣長全集:16-152)。英昌は、隠居家小津孫左衛門。 [001-000]

『宝暦庚辰九月 婚姻書紀』(宣長全集:16-668)。 [002-000]

JD2364183.5 宝暦10年9月16日 (1760/10/24)
9月16日 晴天、婚礼三日の祝い。近所に餅を配る。
[Y001165-000-000]

『日録』(宣長全集:16-152)。同記に拠ると、客は義母村田延寿、彦右衛門夫婦、長谷川市左衛門夫婦、木濃喜作、木濃与三右衛門の7人。宣長側は村田清兵衛、小津孫左衛門英昌、村田七左衛門、おりん、おたか等で、その他客や手代、子供、また出入りの者に振る舞った。 [001-000]

『宝暦庚辰九月 婚姻書紀』(宣長全集:16-667)。同記に、盃事の際の返盃順など詳細を記す。 [002-000]

JD2364185.5 宝暦10年9月18日 (1760/10/26)
9月18日 雨天、早朝、みか里帰り。
[Y001166-000-000]

『日録』(宣長全集:16-152)。 [001-000]

『宝暦庚辰九月 婚姻書紀』(宣長全集:16-668)。 [002-000]

JD2364186.5 宝暦10年9月19日 (1760/10/27)
9月19日 清光寺で元祖大師遠忌法事が行われ、昼夜法事説法がある。
[Y001167-000-000]

『日録』(宣長全集:16-153)。円光大師のことであろう。知恩院での法要は宝暦11年1月18日条参照。 [001-000]

JD2364192.5 宝暦10年9月25日 (1760/11/2)
9月25日 嶺松院会。
[Y001168-000-000]

『詠草会集』巻9。当座のみ出詠。 [001-000]

JD2364193.5 宝暦10年9月26日 (1760/11/3)
9月26日 蒸し物を配る。夕、小津躬充の末男儀右衛門と岡氏の婚礼が行われる。
[Y001169-000-000]

『日録』「蒸物所々江遣留」(宣長全集:16-152)。岡氏婚礼には宣長出席せず。翌日条参照。結納は7月6日。 [001-000]

『宝暦庚辰九月 婚姻書紀』(宣長全集:16-672)に記される婚礼行事の最後である。 [002-000]

JD2364194.5 宝暦10年9月27日 (1760/11/4)
9月27日 夕、母とみか初歩き。岡氏に祝いの品として祝い酒1樽、綿帽子1つを届ける。使いは喜八。
[Y001170-000-000]

『日録』「廿七日、夕、母人美可同伴仁天初行(ハツアルキ)」、同26日条「津江悦仁使【喜八】遣須、進物酒一樽、綿帽子一也」(宣長全集:16-153)。 [001-000]

JD2364199.5 宝暦10年10月2日 (1760/11/9)
10月2日 津、岡氏に行く。おかね、おたか、小津英昌も同道する。
[Y001171-000-000]

『日録』(宣長全集:16-153)。婚礼祝いのためであろう。 [001-000]

JD2364206.5 宝暦10年10月9日 (1760/11/16)
10月9日 夕、『百人一首改観抄』の講義開始。定日は4、9の日。『源氏物語』『枕草子』の講釈を中断する。理由は、小津正啓が江戸に下向のため。
[Y001172-000-000]

手沢本、宝暦6年(1756)12月条参照、奥書に「宝暦十年庚辰十月九日夜開席、予講談此抄、同年十二月十二日夜終業、右頭書傍之内称師云者、先師賀茂県主作、此百首古説之義也、(清)舜庵宣長云々」とある。(清)は張り紙抹消。「右頭書」は後年の筆である。本書の講釈は天明4年(1784)閏1月20日にも開講している。同日条参照。 [001-000]

『日録』「十月、九日、夕百人一首改観抄開講、源氏、枕艸子雖未終業、而聴者之内、正啓今月五日江戸下向、因之留守中、源氏、枕艸子休講、右改観抄講之、以四九為定日」(宣長全集:16-153)。 [002-000]

JD2364208.5 宝暦10年10月11日 (1760/11/18)
10月11日 嶺松院会。新古歌合を行う。
[Y001173-000-000]

『詠草会集』第9冊(当座の歌は自筆)。同巻末「新古歌合」に「十月十一日」として、勝ち数のみを記す。 [001-000]

『石上稿』(宣長全集:15-257)には、兼題「閑居時雨」、当座「愛牡丹」各2首を載せる。「愛牡丹」に草深たみへの思慕の情が秘められるという説(「和歌と『源氏物語』」高橋俊和『本居宣長の歌学』・和泉書院刊)がある。関連の歌2首を引く。「同日当座、愛牡丹、くらへ見んいつれか色のふかみ草花にそめぬる人の心と、あかす見る心の色はくさの名の廿日すくとも花にあせめや」。『詠草会集』には「あかす見る」1首を載せる。 [002-000]

JD2364222.5 宝暦10年10月25日 (1760/12/2)
10月25日 嶺松院会。
[Y001174-000-000]

『詠草会集』第9冊。但し、宣長出詠無し。『石上稿』(宣長全集:15-257)に兼題「冬灯」1首を載せる。 [001-000]

JD2364226.5 宝暦10年10月 (1760/12/6)
10月 『十六夜日記』入手か。
[Y001175-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十月、一、十六夜日記」(宣長全集:20-398)。 [001-000]

JD2364237.5 宝暦10年11月11日 (1760/12/17)
11月11日 嶺松院会。新古歌合を行う。
[Y001176-000-000]

『詠草会集』第9冊。同巻末「新古歌合」に「十一月十一日」として、勝ち数のみを記す。『石上稿』(宣長全集:15-257)に兼題「雪中遊興」、同(宣長全集:15-258)に当座「杣五月雨」各1首を載せる。 [001-000]

JD2364241.5 宝暦10年11月15日 (1760/12/21)
11月15日 冬至。この間、五百五十年忌により円光大師に追号との話を聞く。
[Y001177-000-000]

『日録』「此間聞、円光東漸大師加号、慧成大師賜諡、蓋因来年五百五十回也」(宣長全集:16-153)。同記には明年にかけ五百五十年忌の記事が散見する。また『和歌の浦』第5冊に有栖川職仁親王の歌あり。 [001-000]

JD2364251.5 宝暦10年11月25日 (1760/12/31)
11月25日 嶺松院会。新古歌合を行う。
[Y001178-000-000]

『詠草会集』第9冊。同巻末「新古歌合」に「十一月廿五日」として、勝ち数のみを記す。『石上稿』(宣長全集:15-257)に兼題「原雪」「寄馬恋」各1首、同(宣長全集:15-258)に当座「湖五月雨」2首を載せる。 [001-000]

JD2364261.5 宝暦10年12月5日 (1761/1/10)
12月5日 煤払い。
[Y001179-000-000]

『日録』「十二月五日、煤払、晴天」(宣長全集:16-153)。 [001-000]

JD2364266.5 宝暦10年12月10日 (1761/1/15)
12月10日 真台寺本堂上棟式。
[Y001180-000-000]

『日録』(宣長全集:16-153)。 [001-000]

JD2364267.5 宝暦10年12月11日 (1761/1/16)
12月11日 嶺松院会。新古歌合を行う。
[Y001181-000-000]

『詠草会集』第9冊。同巻末「新古歌合」に「十二月十一日」として、勝ち数のみを記す。なお、同集はこの日の記録で終わり『嶺松院会集』巻10に継続される。但し、「新古歌合」は宝暦11年(1761)4月25日まで引き続いて記録される。『石上稿』(宣長全集:15-257)に兼題「春色卜隣」「早梅」「寄魚恋」各1首、同(宣長全集:15-258)に当座「山陰鵜河」2首を載せる。 [001-000]

JD2364268.5 宝暦10年12月12日 (1761/1/17)
12月12日 夕、『百人一首改観抄』の講釈終了する。
[Y001182-000-000]

『日録』(宣長全集:16-153)。開始は10月9日。 [001-000]

10月9日条参照。 [002-000]

JD2364274.5 宝暦10年12月18日 (1761/1/23)
12月18日 妻みかと離縁。
[Y001183-000-000]

『日録』「十八日、美可帰里、離縁」(宣長全集:16-153)。 [001-000]

JD2364280.5 宝暦10年12月24日 (1761/1/29)
12月24日 夜、みかの荷物を返す。
[Y001184-000-000]

『日録』「廿四日、夜返美可荷物」(宣長全集:16-153)。 [001-000]

この頃の歌に、離婚についての心境が投影されているという説がある。『石上稿』(宣長全集:15-258)より関連の歌4首を引く。「同(十二月十二日嶺松院会兼題)、寄魚恋、小車のわたちの水の魚ならてかるゝをなけくわか契かな、別恋、かきくれて契る詞もなみたのみたもとにあまる衣/\の空、同、わかれても猶わか玉やとまるらん今一言としたふ袂に、旅宿逢恋、かはしても別つゆけきくさまくら又のたのみも涙おちつゝ」。 [002-000]

JD2364286.5 宝暦10年 (1761/2/4)
年末 歌の整理をし31歳の感慨を詠む。
[Y001185-000-000]

『石上稿』「日比よみたる歌共物にかきつくとてとしの暮に、三十一歳之時、かきつめてけふに暮ぬる我年もやまとことはのもしの数々」(宣長全集:15-258)。 [001-000]

JD2364286.5 宝暦10年 (1761/2/4)
宝暦10年 同年詠として『石上稿』に144首載せる。
[Y001186-000-000]

『石上稿』「総計百四十四首」(宣長全集:15-258)。 [001-000]


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