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JD2365054.5 宝暦13年1月 (1763/3/14)
宝暦13年(1763)癸未 宣長34歳。母恵勝59歳、勝23歳、春庭1歳。
[Y001387-000-000]

【この年の概要】 [001-000]

2月、長男春庭誕生。5月、賀茂真淵と対面。 [001-001]

JD2365025.5 宝暦13年1月1日 (1763/2/13)
1月1日 御厨神社、八雲神社、山神社に初詣。新年挨拶。読書始に『古今集』序を読む。
[Y001388-000-000]

『日記』(宣長全集:16-193)。 [001-000]

JD2365054.5 宝暦13年1月 (1763/3/14)
春 「百首歌」後半57首を詠む。前半は宝暦9年(1759)春に詠む。完了は12月13日。
[Y001389-000-000]

「同九年己卯春詠百首【夜虫以下同十三年癸未春詠之】」(宣長全集:18-130)。宝暦13年(1763)12月13日条参照。 [001-000]

JD2365026.5 宝暦13年1月2日 (1763/2/14)
1月2日 早朝、町奉行に年始。朝食後、屋敷町の年始。大年寄村田彦左衛門から触があり、町年寄善六に代わり本町荒木九兵衛(九右衛門)がその職を預かる。
[Y001390-000-000]

『日記』(宣長全集:16-193)。宝暦12年(1762)冬条参照。 [001-000]

JD2365029.5 宝暦13年1月5日 (1763/2/17)
1月5日 下男庄介代参宮に行く。
[Y001391-000-000]

『日記』(宣長全集:16-193)。 [001-000]

JD2365032.5 宝暦13年1月8日 (1763/2/20)
1月8日 午刻、村田清兵衛季子伊三郎、痘瘡で没す。享年4歳。
[Y001392-000-000]

『日記』(宣長全集:16-193)。 [001-000]

JD2365033.5 宝暦13年1月9日 (1763/2/21)
1月9日 津から年始の挨拶、酒肴届く。酉刻、村田家葬儀。
[Y001393-000-000]

『日記』(宣長全集:16-193)。 [001-000]

JD2365036.5 宝暦13年1月12日 (1763/2/24)
1月12日 嶺松院会。年始初会。
[Y001394-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-271)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-194)。 [002-000]

JD2365040.5 宝暦13年1月16日 (1763/2/28)
1月16日 年始開講、『源氏物語』講釈、「幻巻」の内より。
[Y001395-000-000]

『日記』(宣長全集:16-194)。 [001-000]

JD2365046.5 宝暦13年1月22日 (1763/3/6)
1月22日 『源氏物語』講釈、「幻巻」終わる。
[Y001396-000-000]

『日記』(宣長全集:16-194)。 [001-000]

JD2365049.5 宝暦13年1月25日 (1763/3/9)
1月25日 嶺松院会。新古歌合。
[Y001397-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。第10冊巻末に「宝暦十三癸未年歌合勝負、正月廿五日」として勝ち数のみ記す。『石上稿』(宣長全集:15-271)。 [001-000]

JD2365057.5 宝暦13年2月3日 (1763/3/17)
2月3日 巳の刻前、勝、津の実家で男児出生。後の春庭。
[Y001398-000-000]

『日記』「晴陰、風烈、或雪散、未刻後晴、猶風○未刻半自津使来、告今巳刻前勝安産、男子出生、母子無恙之由」(宣長全集:16-195)。 [001-000]

『本居氏系図』「春庭 宝暦十三年癸未二月三日巳上刻於津草深氏分部町宅生、童名健蔵、【宣長旧名】安永九年庚子正月二日改称健亭」(宣長全集:20-87)。 [002-000]

JD2365058.5 宝暦13年2月4日 (1763/3/18)
2月4日 津に使いを送り熨し餅を届ける。
[Y001399-000-000]

『日記』(宣長全集:16-195)。 [001-000]

JD2365060.5 宝暦13年2月6日 (1763/3/20)
2月6日 初午。
[Y001400-000-000]

『日記』(宣長全集:16-195)。 [001-000]

JD2365061.5 宝暦13年2月7日 (1763/3/21)
2月7日 村田元固三十三回忌。
[Y001401-000-000]

『日記』(宣長全集:16-195)。 [001-000]

JD2365062.5 宝暦13年2月8日 (1763/3/22)
2月8日 『弘安源氏論議』書写。
[Y001402-000-000]

奥書「宝暦十三年癸未二月八日 舜庵本居宣長(花押)」。墨付27丁。宝暦3年(1753)7月16日条参照。 [001-000]

JD2365063.5 宝暦13年2月9日 (1763/3/23)
2月9日 七夜祝いのため村田親次を同伴し津の草深に行く。酒、鰹節、産着等を持参する。名前を健蔵と付け、酉の刻半帰る。
[Y001403-000-000]

JD2365065.5 宝暦13年2月11日 (1763/3/25)
2月11日 嶺松院会。
[Y001404-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。「会頭春庵」とあり。『石上稿』(宣長全集:15-271)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-195)。 [002-000]

JD2365068.5 宝暦13年2月14日 (1763/3/28)
2月14日 母、参宮。姉おふさ(貞雲公)、妹おとは(於登波)同伴する。山田では御木曳きが行われる。
[Y001405-000-000]

『日記』(宣長全集:16-195)。 [001-000]

JD2365071.5 宝暦13年2月17日 (1763/3/31)
2月17日 『源氏物語』を校合する。
[Y001406-000-000]

『源氏物語湖月抄』手沢本奥書「宝暦十三年癸未二月十七日一本校合終業 本居宣長(花押)」。 [001-000]

JD2365071.5 宝暦13年2月17日 (1763/3/31)
2月17日 母、参宮より帰る。
[Y001407-000-000]

『日記』(宣長全集:16-196)。 [001-000]

JD2365075.5 宝暦13年2月21日 (1763/4/4)
2月21日 朝、栄昌、おきん、津の岡氏女2名と西国巡礼に出る。
[Y001408-000-000]

『日記』「(二十一日)、栄昌公、於金殿、津岡氏女二人同伴西国巡礼、今朝発足」(宣長全集:16-196)。帰着は5月21日。 [001-000]

JD2365078.5 宝暦13年2月24日 (1763/4/7)
2月24日 『万葉集』講釈。巻3終わる。
[Y001409-000-000]

『日記』(宣長全集:16-196)。巻2の終了は宝暦12年(1762)閏4月24日。 [001-000]

JD2365079.5 宝暦13年2月25日 (1763/4/8)
2月25日 嶺松院会。
[Y001410-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-271)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-196)。 [002-000]

JD2365083.5 宝暦13年2月 (1763/4/12)
2月 『井蛙抄』5冊、『七部抄』7冊、『新題林集』16冊を購求する。
[Y001411-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「未ノ二月、一、井蛙抄 五 五匁二分、同 一、七部抄 七 八匁三分、同 一、新題林集 十六 廿五匁」(宣長全集:20-398)。 [001-000]

JD2365083.5 宝暦13年2月 (1763/4/12)
2月 小津次郎右衛門妻であった栄昌が魚町の帳面から本居家の帳面の末に名前を移す。山田で御木曳きが行われた。真乗院第一世門主審誉和尚が隠居した。
[Y001412-000-000]

栄昌はその後本居家で世話をするか。明和6年(1769)1月2日没したときには法樹院で葬儀が行われた。 [001-000]

審誉和尚は宝暦4年(1754)8月24日条参照。 [002-000]

JD2365089.5 宝暦13年3月6日 (1763/4/18)
3月6日 『源氏物語』講釈、「紅梅巻」が終わる。
[Y001413-000-000]

『日記』(宣長全集:16-196)。 [001-000]

JD2365094.5 宝暦13年3月11日 (1763/4/23)
3月11日 嶺松院会。
[Y001414-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-272)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-197)。 [002-000]

JD2365095.5 宝暦13年3月12日 (1763/4/24)
3月12日 村田清兵衛、妻、息子長五郎上京する。
[Y001415-000-000]

『日記』(宣長全集:16-197)。 [001-000]

JD2365096.5 宝暦13年3月13日 (1763/4/25)
3月13日 阿坂山に遊び歌を詠む。
[Y001416-000-000]

『日記』「十三日、晴天、後陰雨少降、○詣小阿坂景徳寺、同伴小津清右衛門、中村伊右衛門也、彼寺頃有入仏供養」(宣長全集:16-197)。同記、3月条参照。『石上稿』(宣長全集:15-272)。 [001-000]

景徳寺は、現在廃寺同然となっているが、もと黄檗宗。遠祖本居武久が武功を顕した阿坂城がある枡形山の東の麓にあった。安永3年3月10日頃にも行き歌を詠む。 [002-000]

JD2365103.5 宝暦13年3月20日 (1763/5/2)
3月20日 音曲停止のお触れが出る。後日、将軍の次男が没したと聞く。
[Y001417-000-000]

『日記』(宣長全集:16-198)。 [001-000]

JD2365108.5 宝暦13年3月25日 (1763/5/7)
3月25日 嶺松院会。樹敬寺法樹院に滞在中の京都の歌人澄月と歌を贈答する。謹慎が解かれる。
[Y001418-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-272)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-198)。 [002-000]

懐紙「三月廿五日嶺松院会席より澄月もとへ申遣しける、舜庵、とひこかし君が言葉の花ならでみる物もなき嶺の松蔭、しめやかにけふ春雨のふる言をかたらん嶺の松かげの庵、返し、澄月、とひよりてたつきをみねの松陰にきよき詞の泉をぞくむ、春雨のいとしめやかにふることの道こそ有けれけふのまとゐは」(詞書、歌共宣長筆)【樹敬寺所蔵】 [003-000]

『石上稿』「澄月法師京より下りて法樹院にしはしとゝまりゐけるか三月廿五日嶺松院会より申つかはしける其日雨ふりくらしける、とひこかし君が詞の花ならでみる物もなき嶺の松かげ、しめやかにけふ春雨のふる言もかたらん嶺の松かげの庵、返し二首、澄月、とひよりてたつきをみねの松陰にきよき言葉の泉をぞくむ、春雨のいとしめやかにふることの道こそ有けれけふのまとゐは」(宣長全集:15-272)。 [004-000]

JD2365109.5 宝暦13年3月26日 (1763/5/8)
3月26日 小津道有、江戸より帰る。
[Y001419-000-000]

『日記』(宣長全集:16-198)。 [001-000]

JD2365113.5 宝暦13年3月 (1763/5/12)
3月 『耳底記』3冊、『難題百首』1冊を購求する。山室妙楽寺、久米村柳福寺で回向がある。小阿坂の景徳寺で入仏供養がある。
[Y001420-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「同(未ノ)二月、一、耳底記 三 二匁五分/一、難題百首 一 一匁三分」(宣長全集:20-398)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-198)。景徳寺には3月13日参詣した。 [002-000]

JD2365114.5 宝暦13年4月1日 (1763/5/13)
4月1日 おとは、古森善右衛門同伴で西国巡礼に出発。前回途中で中止したのでその後を廻る。京都から村田清兵衛も同行する。古森善右衛門は金右衛門男、母ちか。明和6年(1769)9月27日条参照。
[Y001421-000-000]

『日記』(宣長全集:16-199)。おとはは母の妹。帰着は5月12日。 [001-000]

JD2365123.5 宝暦13年4月10日 (1763/5/22)
4月10日 夜丑の刻に地震。
[Y001422-000-000]

『日記』(宣長全集:16-199)。 [001-000]

JD2365124.5 宝暦13年4月11日 (1763/5/23)
4月11日 嶺松院会。
[Y001423-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-273)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-199)。 [002-000]

JD2365133.5 宝暦13年4月20日 (1763/6/1)
4月20日 稲懸十助道孝没。
[Y001424-000-000]

稲懸十助道孝は棟隆の父。『棟隆詠草』第2冊詞書に「四月二十日父うせ玉ひにけるにつけて小津四泉のもとより、限ある日こそかなしけれ廿日草、といふ句を送られける返し」とあり。 [001-000]

四泉は小津善祐か。須賀直見の追慕集『落葉集』には、四仙として句を載せる。善祐は、棟隆(あるいはその妻)の姉か妹の夫で、直見の妻の父である。 [002-000]

JD2365133.5 宝暦13年4月20日 (1763/6/1)
この頃 喪中の棟隆に、宣長も歌を贈る。
[Y001425-000-000]

『棟隆詠草』第2冊詞書「父の思ひにこもりける比、人々歌よみて玉はりける中に蕣庵主より、郭公なく一こゑのね覚にもしての山路や思ひいつらんとよみておくれける返し」。 [001-000]

JD2365136.5 宝暦13年4月23日 (1763/6/4)
4月23日 勝、春庭を連れ帰宅する。
[Y001426-000-000]

『日記』(宣長全集:16-200)。 [001-000]

JD2365138.5 宝暦13年4月25日 (1763/6/6)
4月25日 嶺松院会。
[Y001427-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-274)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-200)。 [002-000]

JD2365142.5 宝暦13年4月 (1763/6/10)
4月 『黄葉集』6冊を購求する。
[Y001428-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「四月 一、黄葉集 六 四匁五分」(宣長全集:20-398)。 [001-000]

JD2365143.5 宝暦13年5月1日 (1763/6/11)
5月1日 春庭祝い。蒸し物を配る。津の草深には奈良晒を添えて遣わす。
[Y001429-000-000]

『日記』(宣長全集:16-200)。 [001-000]

JD2365145.5 宝暦13年5月3日 (1763/6/13)
5月3日 『霊元院御集 秋冬部』を書写する。
[Y001430-000-000]

奥書「右霊元帝御集秋冬部謹書写終業時宝暦十三年癸未五月三日 舜庵本居宣長(花押)」(〔津市中町小田保夫氏所蔵〕『大人百五十年祭記念』森田利吉写) [001-000]

奥書「霊元帝御製集全部者前鈴屋翁自筆之写本ニ而秋冬之此一冊者文政十一年子年十一月七日後鈴屋翁死去之後同年十二月為遺物被贈吾方珍書也 永久可秘蔵 辻岡椎舎信道(花押)」。 [002-000]

JD2365147.5 宝暦13年5月5日 (1763/6/15)
5月5日 春庭、初節句。夜祝い客を招く。客、隠居家小津孫左衛門、村田与兵衛、七左衛門、手代、出入りの者等。
[Y001431-000-000]

『日記』(宣長全集:16-200)。 [001-000]

JD2365150.5 宝暦13年5月8日 (1763/6/18)
5月8日 隠居家小津英昌江戸に下向する。
[Y001432-000-000]

『日記』(宣長全集:16-201)。 [001-000]

JD2365151.5 宝暦13年5月9日 (1763/6/19)
5月9日 堀蘭澤、河原崎周庵、参宮の途中来訪す。
[Y001433-000-000]

『日記』「(九日)京都堀正大夫、河原崎周庵同伴参宮、被立寄」(宣長全集:16-201)。 [001-000]

JD2365153.5 宝暦13年5月11日 (1763/6/21)
5月11日 嶺松院会。
[Y001434-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-274)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-201)。 [002-000]

JD2365154.5 宝暦13年5月12日 (1763/6/22)
5月12日 堀蘭澤、河原崎周庵来訪一宿する。おとは、古森善右衛門西国巡礼より帰る。
[Y001435-000-000]

『日記』(宣長全集:16-199)。出立は4月1日。 [001-000]

JD2365163.5 宝暦13年5月21日 (1763/7/1)
5月21日 栄昌、おきん等、西国巡礼から帰る。
[Y001436-000-000]

『日記』「(二十一日)、栄昌公、於金殿等自西国巡礼帰着」(宣長全集:16-201)。発足は2月21日。 [001-000]

JD2365167.5 宝暦13年5月25日 (1763/7/5)
5月25日 嶺松院会。松坂の旅宿新上屋にて始めて賀茂真淵に対面。
[Y001437-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-274)。 [001-000]

『日記』「廿五日、曇天 ○嶺松院会也 ○岡部衛士当所一宿【新上屋】、始対面」(宣長全集:16-202)。 [002-000]

賀茂真淵差出12月16日付書簡「六月之芳書到来、如御示此度邂逅之接芝、致大慶候故云々」。 [003-000]

『玉勝間』巻2「おのが物まなびの有しやう」「又一夜やどり給へるを、うかがひまちて、いといとうれしく、いそぎやどりにまうでて、はじめて見え奉りたりき」(宣長全集:1-86)。 [004-000]

同「あがたゐのうしの御さとし言」「宣長三十あまりなりしほど、県居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われもゝとより、神の御典をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古ヘのまことの意をたづねえずはあるべからず、然るにそのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは、万葉をよく明らむるにこそあれ、さる故に、吾はまづもはら万葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ学びなば、其心ざしとぐること有べし、たゞし世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を経ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず、まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり、此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ、わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ、ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよ/\万葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものゝ、神の御ふみ説る趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はえゝぬものになむ有りける」(宣長全集:1-86)。 [005-000]

真淵のこの時の旅には村田春郷、春海等が同伴した。『賀茂翁家集』巻4「富士の嶺を観てしるせる詞」左注に「宝の暦十まり三とせの春、春郷・春海等と大和へまかる時に、此みねを見さけながらにしてしるしぬ」とある。 [006-000]

「松坂の一夜」佐佐木信綱『【増訂】賀茂真淵と本居宣長』(湯川弘文社)。附言として「余幼くて松坂に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの数節等をあざなひて、この小篇をものしつ。県居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、当時宣長と同行せし者(尾張屋太右衛門)ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。」とある。 [007-000]

「「松坂の一夜」私見」岩田隆(『鈴屋学会報』・11号)参照。 [008-000]

JD2365168.5 宝暦13年5月26日 (1763/7/6)
5月26日 春庭(健蔵)百十日祝。浜田瑞雪没、享年87歳。
[Y001438-000-000]

『日記』「廿六日、雨天 ○健蔵神参箸揃、【百十日者廿四日也、因為精進日今日祝】夕飯客、栄昌公、貞雲公、於金殿【不参】、於登波殿也 ○浜田瑞雪死 八十七歳」(宣長全集:16-202)。 [001-000]

当日の客の栄昌は小津定治唱阿の4女おりん、貞雲は母姉おふさ、於金は小津定治唱阿の五女きん、於登波は母妹おとはである。2月14日条参照。 [002-000]

瑞雪、延享3年(1746)7月条参照。 [003-000]

JD2365171.5 宝暦13年5月29日 (1763/7/9)
5月29日 利秀善尼一周忌取越法事。夕、『源氏物語』講釈、「竹川巻」終る。
[Y001439-000-000]

『日記』「(略)今夕竹川巻講釈終」(宣長全集:16-202)。 [001-000]

JD2365171.5 宝暦13年5月29日 (1763/7/9)
この頃 初瀬山奉納月輪院勧進に歌を詠む。
[Y001440-000-000]

『石上稿』(宣長全集:15-274)。 [001-000]

JD2365179.5 宝暦13年6月7日 (1763/7/17)
6月7日 『紫文要領』上下2巻の稿成る。
[Y001441-000-000]

奥書「右紫文要領上下二巻は、としころ丸か、心に思ひよりて、此物語をくりかへしこころをひそめてよみつゝかむかへいたせる所にして、全く師伝のおもむきにあらす、又諸抄の説と雲泥の相違也、見む人あやしむ事なかれ、よく/\心をつけて物語の本意をあちはひ、此草子とひき合せかむかへて、丸かいふ所の是非をさたむへし、必人をもて言をすつる事なかれ、かつ文章かきざまは〔な〕はたみたり也、草稿なる故にかへりみさる故也、かさねて繕写するをまつへし、是又言をもて人をすつる事なからん事をあふく、とき〔に〕宝暦十三年六月七日 舜菴 本居宣長(花押)」(宣長全集:4-113)。 [001-000]

JD2365183.5 宝暦13年6月11日 (1763/7/21)
6月11日 嶺松院会。
[Y001442-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-274)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-203)。 [002-000]

JD2365197.5 宝暦13年6月25日 (1763/8/4)
6月25日 嶺松院会。
[Y001443-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-274)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-203)。 [002-000]

JD2365201.5 宝暦13年6月 (1763/8/8)
6月 『宮川歌合』1冊、『みもすそ川歌合』1冊を購求する。
[Y001444-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「六月、一、宮川歌合 一 八分、一、みもすそ川歌合 一 八分」(宣長全集:20-398)。 [001-000]

JD2365201.5 宝暦13年6月 (1763/8/8)
6月 この頃、初めて「古体」の歌10首(春2・夏1・秋2・冬2・恋3)を詠む。
[Y001445-000-000]

『石上稿』(宣長全集:15-275)。 [001-000]

JD2365201.5 宝暦13年6月 (1763/8/8)
6月 賀茂真淵に書簡と『万葉集』の質問、また初めて詠んだ古風歌を送り、添削と入門の許諾を請う。
[Y001446-000-000]

賀茂真淵差出12月16日付書簡「六月之芳書到来、如御示此度邂逅之接芝、致大慶候故云々」。 [001-000]

5月25日条参照。 [002-000]

JD2365201.5 宝暦13年6月 (1763/8/8)
6月 隠居家小津英昌の江戸伝馬町木綿店、不仕合につき店仕舞する。宣長の兄である道喜居士が同家に預けた四百両も、返済されぬままに終わった。
[Y001447-000-000]

『日記』「孫左衛門、江戸伝馬町木綿店不仕合仁付、此度店相仕舞之由」(宣長全集:16-204)。『家のむかし物語』「いくほどもなく、明和元年に、隠居家の店なくなりて、のこれる資もみな、あづかれる手代がわたくしに引きこめてしかば、かのわが家の資も、朝の露とぞ消うせぬる」(宣長全集:20-28)。英昌については、宝暦8年(1758)6月21日条参照。 [001-000]

JD2365207.5 宝暦13年7月6日 (1763/8/14)
7月6日 嶺松院会。
[Y001448-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-275)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-204)。 [002-000]

JD2365209.5 宝暦13年7月8日 (1763/8/16)
7月8日 煤払い。
[Y001449-000-000]

『日記』(宣長全集:16-204)。 [001-000]

JD2365223.5 宝暦13年7月22日 (1763/8/30)
7月22日 勝、春庭、津に行く。
[Y001450-000-000]

『日記』「勝、健蔵行津」(宣長全集:16-205)。帰宅は9月1日。 [001-000]

JD2365225.5 宝暦13年7月24日 (1763/9/1)
7月24日 宮崎俊、来る。
[Y001451-000-000]

『日記』「俊来」(宣長全集:16-205)。 [001-000]

JD2365226.5 宝暦13年7月25日 (1763/9/2)
7月25日 嶺松院会。
[Y001452-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-275)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-205)。 [002-000]

JD2365231.5 宝暦13年7月30日 (1763/9/7)
7月30日 知遊、瓦町にあった浜田瑞雪の庵に移り、10月28日まで住む。
[Y001453-000-000]

『日記』「知遊遷居瓦町浜田瑞雪跡庵【浜田八郎兵衛所持】」(宣長全集:16-205)。延享3年(1746)7月条参照。 [001-000]

JD2365241.5 宝暦13年8月10日 (1763/9/17)
8月10日 『源氏物語年だての図』起筆か。
[Y001454-000-000]

JD2365242.5 宝暦13年8月11日 (1763/9/18)
8月11日 嶺松院会。新古歌合。
[Y001455-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。兼題のみ出詠。第10冊巻末に「八月十一日」として勝ち数のみ記す。『石上稿』(宣長全集:15-276)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-205)。 [002-000]

JD2365246.5 宝暦13年8月15日 (1763/9/22)
8月15日 来迎寺覚性院にて月見和歌会興行。
[Y001456-000-000]

『日記』「十五日、薄陰、風、夜同、月雖見不朗○於来迎寺覚性院、月見和歌会興行」(宣長全集:16-206)。 [001-000]

JD2365253.5 宝暦13年8月22日 (1763/9/29)
8月22日 夕、『源氏物語』講釈、「橋姫巻」終わる。
[Y001457-000-000]

『日録』「今夕橋姫巻講終」(宣長全集:16-207)。 [001-000]

JD2365256.5 宝暦13年8月25日 (1763/10/2)
8月25日 嶺松院会。新古歌合。
[Y001458-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。第10冊巻末に「八月廿五日」として勝ち数のみ記す。『石上稿』(宣長全集:15-276)。 [001-000]

JD2365261.5 宝暦13年9月1日 (1763/10/7)
9月1日 「百首歌」詠始める。勝、春庭津から帰る。
[Y001459-000-000]

『鈴屋百首歌』第2冊所収。巻首「自宝暦十三年癸未九月朔日詠之」(宣長全集:18-135)、詠み終わったのは12月9日。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-207)。勝等の出立は7月22日。 [002-000]

JD2365271.5 宝暦13年9月11日 (1763/10/17)
9月11日 嶺松院会。新古歌合。
[Y001460-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。兼題のみ出詠。第10冊巻末に「九月十一日」として勝ち数のみ記す。『石上稿』(宣長全集:15-276)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-208)。 [002-000]

JD2365278.5 宝暦13年9月18日 (1763/10/24)
9月18日 村田清兵衛剃髪、法名宗善。
[Y001461-000-000]

『日記』「村田清兵衛殿剃髪、法名宗善」(宣長全集:16-209)。宝暦2年(1752)3月13日条参照。 [001-000]

JD2365284.5 宝暦13年9月24日 (1763/10/30)
9月24日 清九郎、江戸より帰る。
[Y001462-000-000]

『日記』「清九郎自江戸帰」(宣長全集:16-209)。宝暦12年(1762)9月10下向か。 [001-000]

JD2365285.5 宝暦13年9月25日 (1763/10/31)
9月25日 嶺松院会。新古歌合。
[Y001463-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。兼題のみ出詠。第10冊巻末に「九月廿五日」として勝ち数のみ記す。『石上稿』(宣長全集:15-277)。 [001-000]

『日記』「嶺松院会也」(宣長全集:16-209)。 [002-000]

JD2365289.5 宝暦13年9月 (1763/11/4)
9月 『夫木鈔』36冊を購求する。
[Y001464-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「九月 一、夫木鈔 卅六冊 七拾二匁」(宣長全集:20-398)。 [001-000]

JD2365290.5 宝暦13年10月1日 (1763/11/5)
10月上旬 新川井町で芝居が始まる。歌舞伎で、今月から来月にかけて行われる。今回から、常小屋での上演となる。小屋主は同町の大久保屋。常小屋は松坂では先例がないことである。
[Y001465-000-000]

興行は11月13日まで行われた。新川井町での芝居興行は、宝暦10年(1760)9月(川井町裏、人形芝居)、同12年2月6日(新河合町東側、人形芝居)、同年10月18日(新河合町、人形芝居)が行われている。地名表記は異なるが同じ場所か。『宝暦咄し』の地図に場所が載る。また「人形芝居は毎年三之丞と言ふ座来る」(『松阪市史』・9-106)とある。年代は分からないが参考のため引いておく。 [001-000]

JD2365293.5 宝暦13年10月4日 (1763/11/8)
10月4日 山田の祠官橋村正身、荒木田久老等6名が、松坂郊外の射和村富山家に所蔵される『元暦校本万葉集』を調査に行う。
[Y001466-000-000]

参加者は、山田の祠官橋村主計正身(久老父)、榎倉雅楽末雅、堤織部盛箕、橋村監物正令(久老実兄)、小田主殿正董(久老)、沢田將蔵永世。 [001-000]

その時、同家の主人定豪(さだかつ)より請われ、庭園の富松を詠んだ万葉調の長歌が残る。懐紙は久老弱冠18歳の作のため、歌そのものは稚拙であるが、筆跡は見事である。 [002-000]

懐紙には「従五位下度会正董」の署名がある。正董(まさただ)は若い頃の名乗り。るまたこの調査の直後の11月27日、従五位上に叙せられていて(『荒木田久老歌文集並伝記』)、製作年と照応する。久老には、35年後に俵屋で本書を再見した時の歌が残り『槻落葉歌集』巻6、また『文苑玉露』に収載される。 [002-001]

この『元暦校本万葉集』調査の際の富山家の接待については『射和文化史』に詳しい。まず書院飾りに「違ヒ棚 上棚ニ短冊箱、百枝松木地内梨地松模様/万葉集記並に清水谷殿御文、霊元院叡覧其他書付/亭主右ノ万葉集被持出/万葉集 行成卿、公任卿、俊朝(頼か)卿、寂蓮法師、光俊卿、宗尊親王筆也/右以上十四冊、六巻不足、伝来目録別ニ有之、代金千両」とあり、その中ほどに「親類喜左衛門殿猪左衛門殿永井助左衛門殿出合、案内ニテ路地庭見物/大松二株 富松と云ふ 二百年前先祖手植のもの」の一条がある。 [003-000]

当時の『万葉集』研究の第一人者であった賀茂真淵も弟子となった久老からこの古写本のことを聞き、明和2年(1765)12月21日付宣長宛書簡で「彼富山か万葉、此小田なと数人罷候而校合いたし候由、当地ニ而も門下之内ニ万葉本文改判之相談も有之候ニ付、彼校合をはやく一覧いたし度候、来四月此人帰国以後、早速うつし見セ候ハんとの事也、されと数巻ニ候ヘハ、貴兄も御手伝候て、何とそはやく下り候様ニ頼入候、但此人来四月ならてハ不帰候也、其以前ニ何とそ一二の巻ハかりも見度事と申候也」と、本居宣長に調査に協力するよう慫慂するが、実現しなかった。 [004-000]

『元暦校本万葉集』は、『万葉集』次点本の一つで「元暦元年(1184)六月九日以或人校合了、右近権少将(花押)」の奥書を有することから命名された。全歌数の6割以上を有し、次点本では『類聚古集』に次ぐ。また校訂があり、『万葉集』の中でも最も重要な写本である。現在判明している伝来は、松坂の豪商中川浄宇家より富山家に入った物で、その後、富山家の縁戚で兵庫の回船問屋俵屋を経、天保初年桑名松平家、{天保14年}水野忠邦、明治44年(1911)古河虎之助家と転々とし、現在は同本の分割された一本(やはり中川浄宇家から有栖川家を経て高松宮家に伝来)と共に昭和26年(1951)6月国宝指定、東京国立博物館所蔵(文化財保護委員会より管理換え)となっている。 [005-000]

JD2365296.5 宝暦13年10月7日 (1763/11/11)
10月7日 年忌墓参。
[Y001467-000-000]

『日記』「年忌墓参如常」(宣長全集:16-210)。 [001-000]

JD2365300.5 宝暦13年10月11日 (1763/11/15)
10月11日 嶺松院会。
[Y001468-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。兼題のみ出詠。『石上稿』(宣長全集:15-276)。 [001-000]

『日記』「嶺松院会也」(宣長全集:16-210)。 [002-000]

JD2365314.5 宝暦13年10月25日 (1763/11/29)
10月25日 嶺松院会。新古歌合。
[Y001469-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。兼題のみ出詠。第10冊巻末に「十月廿五日」として勝ち数のみ記す。『石上稿』(宣長全集:15-277)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-210)。 [002-000]

JD2365317.5 宝暦13年10月28日 (1763/12/2)
10月28日 知遊、岸江村に移居。
[Y001470-000-000]

『日記』「知遊移干岸江村」(宣長全集:16-211)。 [001-000]

JD2365318.5 宝暦13年10月29日 (1763/12/3)
10月29日 『源氏物語』講釈、「椎本巻」終わる。
[Y001471-000-000]

『日録』「今夕椎本巻講釈終」(宣長全集:16-211)。 [001-000]

JD2365319.5 宝暦13年10月30日 (1763/12/4)
10月30日 嶺松院会にて先住亮雄七回忌追善臨時和歌会。
[Y001472-000-000]

『錦葉集』「十月三十日の夜嶺松院会にて亮雄和尚七回忌に見仏聞法楽といふことをよめる」として、宣長、小津正啓、中津光多、稲懸棟隆、円義、邦教の歌を載せる。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-211)。 [002-000]

『石上稿』(宣長全集:15-277)。 [003-000]

JD2365321.5 宝暦13年11月2日 (1763/12/6)
11月2日 山薬師境内で相撲興行。
[Y001473-000-000]

『日記』(宣長全集:16-211)。 [001-000]

JD2365330.5 宝暦13年11月11日 (1763/12/15)
11月11日 嶺松院会。『時代不同歌合』書写する。
[Y001474-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-277)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-212)。 [002-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「同(十一月)一、時代不同歌合 一 写」(宣長全集:20-398)。『時代不同歌合』奥書「宝暦十三年癸未十一月十一日 本居宣長(花押)」。尚、本書がこの花押の初見である。 [003-000]

JD2365332.5 宝暦13年11月13日 (1763/12/17)
11月13日 新川井町の芝居が終わる。
[Y001475-000-000]

10月上旬条参照。 [001-000]

JD2365333.5 宝暦13年11月14日 (1763/12/18)
11月14日 草深東仙、入来一宿。
[Y001476-000-000]

『日記』(宣長全集:16-212)。草深東仙は、宝暦12年(1762)閏4月5日条参照。 [001-000]

JD2365336.5 宝暦13年11月17日 (1763/12/21)
11月17日 冬至。
[Y001477-000-000]

『日記』(宣長全集:16-212)。 [001-000]

JD2365344.5 宝暦13年11月25日 (1763/12/29)
11月25日 嶺松院会。
[Y001478-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。『石上稿』(宣長全集:15-277)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-212)。 [002-000]

JD2365345.5 宝暦13年11月26日 (1763/12/30)
11月26日 『師兼千首』書写する。
[Y001479-000-000]

奥書「右師兼卿千首本多有題而無歌者焉憾恨無量宜求全本再書写之巳 宝暦十三年十一月廿六日 舜庵本居宣長(花押)」。 [001-000]

JD2365346.5 宝暦13年11月27日 (1763/12/31)
11月27日 京都で天皇御即位が行われる。江戸から酒井雅楽頭上洛すると後日聞く。
[Y001480-000-000]

『日記』(宣長全集:16-213)。 [001-000]

JD2365347.5 宝暦13年11月28日 (1764/1/1)
11月28日 津、岡氏老母死去。
[Y001481-000-000]

『日記』(宣長全集:16-213)。岡藤左衛門眉山の母か。宝暦10年(1760)7月6日条参照。 [001-000]

JD2365348.5 宝暦13年11月29日 (1764/1/2)
11月29日 岡氏葬儀で母勝、津に行く。
[Y001482-000-000]

『日記』(宣長全集:16-213)。 [001-000]

JD2365348.5 宝暦13年11月 (1764/1/2)
11月 『順徳院御百首』1冊を購求する。
[Y001483-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「順徳院御百首 一」(宣長全集:20-398)。同書では、11月11日書写の『時代不同歌合』の前に記されている。 [001-000]

JD2365351.5 宝暦13年12月3日 (1764/1/5)
12月3日 草深玄周、納采。
[Y001484-000-000]

『日記』12月12日条。婚礼は明和1年(1764)2月20日。玄周は宝暦3年(1753)2月14日条参照。 [001-000]

JD2365353.5 宝暦13年12月5日 (1764/1/7)
12月5日 煤払い。
[Y001485-000-000]

『日記』(宣長全集:16-213)。 [001-000]

JD2365357.5 宝暦13年12月9日 (1764/1/11)
12月9日 夕、『源氏物語』講釈、年内終業。「百首歌」詠み終わる。
[Y001486-000-000]

『日記』(宣長全集:16-213)。『鈴屋百首歌』第2冊所収。巻末「十二月九日百首詠畢」(宣長全集:18-139)。詠み始めたのは9月1日。 [001-000]

JD2365359.5 宝暦13年12月11日 (1764/1/13)
12月11日 嶺松院会。新古歌合。
[Y001487-000-000]

『嶺松和歌集』第11冊。第10冊巻末に「十二月十一日」として勝ち数のみ記す。『石上稿』(宣長全集:15-278)。 [001-000]

『日記』(宣長全集:16-213)。 [002-000]

JD2365360.5 宝暦13年12月12日 (1764/1/14)
12月12日 草深玄周納采の祝いと寒中見舞いを兼ねて使いを出す。
[Y001488-000-000]

『日記』(宣長全集:16-213)。 [001-000]

JD2365361.5 宝暦13年12月13日 (1764/1/15)
12月13日 『実隆公百首、道堅尭空名所百首、後柏原院実隆公御百首、実隆公四文字題百首』を書写する。宝暦9年(1759)春始め「百首歌」後半57首詠終わる。
[Y001489-000-000]

『隆公四文字題百首』奥書「宝暦十三年癸未十二月十三日夜写于燈下」。墨付49丁。 [001-000]

『鈴屋百首歌』第2冊「右百首未十二月十三日夜詠畢」(宣長全集:18-134)。 [002-000]

JD2365364.5 宝暦13年12月16日 (1764/1/18)
12月16日 賀茂真淵、宣長宛書簡を執筆。入門の許諾を伝える。書簡は加筆した『万葉集問目』第1冊と村田伝蔵の書簡を添えて送られる。真淵より入門手続きを任された村田伝蔵も、真淵書簡に添える宣長宛書簡執筆。
[Y001490-000-000]

(宣長全集:別3-373・来簡79)。6月の宣長書簡への返事。『万葉集』についての質問に加筆したこと、また自詠歌を見せ指導する。主たる用件は、1,村田から恕庵まで入門の手続きについて洩説したところ、許諾のようだが、村田が多忙のため手続きはまだ完了していない。入門を希望されるなら再度村田に依頼されたい。2,質問(『万葉集問目』)には、「秋来(秋になる)」頃には加筆していたが、家事都合で遅延してしまったことへの詫び。 [001-000]

(宣長全集:別3-373・来簡78)。この日の2通の書簡は、6月宣長差出、村田伝蔵宛、真淵宛書簡への返書で、加筆された『万葉集問目』第1冊と共に送られたものと思われる。文面は、入門の許諾と手続き、『万葉集』の質問への返答について。 [002-000]

5月25日条参照。 [003-000]

JD2365376.5 宝暦13年12月28日 (1764/1/30)
12月28日 同月16日付賀茂真淵の入門許諾書簡到着する。
[Y001491-000-000]

『日記』「(廿八日)去五月、江戸岡部衛士賀茂県居真淵当所一宿之節、始対面、其後状通入門、今日有許諾之返事」(宣長全集:16-214)。 [001-000]

JD2365378.5 宝暦13年12月 (1764/2/1)
12月 『長明道之記』1冊、『頼政家集』1冊、『常徳院義尚集』1冊を購求する。
[Y001492-000-000]

『宝暦二年以後購求謄写書籍』「十二月 一、長明道之記 一 一匁、同 一、頼政家集 一 一匁、一、常徳院義尚集 一 一匁」(宣長全集:20-398) 。 [001-000]

JD2365378.5 宝暦13年 (1764/2/1)
宝暦13年 『源氏物語年紀考』、『手枕』、『石上私淑言』巻1、2、3の稿(未定稿)成るか。
[Y001493-000-000]

『源氏物語年紀考』は、光源氏と薫の年齢を整理したもので、それまでの旧説の全面改定となった。その後さらに改訂され『源氏物語玉の小櫛』「改め正したる年立の図」として載せる。物語展開上で「字体・形式等推して、『紫文要領』と同時の成立と思われる。(中略)自筆本の本文の仮名遣は定家仮名遣であるが、後に契沖仮名遣に訂してある(ただし訂正洩れも少なくない。下略)」(宣長全集:4-解題28)。内題「源氏物語年紀考、清蕣庵宣長撰」。現在明らかな「清原」姓使用の下限は宝暦13年(1763)12月12日書写の『実隆公百首、道堅尭空名所百首、後柏原院実隆公御百首、実隆公四文字題百首』で、成立年推測の一傍証となるか。 [001-000]

『手枕』の成立は北岡四良「宣長の「手枕」」(『近世国学者の研究』・皇學館大學出版部刊)、また源氏物語研究者の立場からその説を検証した中川.ァ梵「宣長の源氏学-『手枕』について-」(『源氏物語の研究と鑑賞』・翰林書房刊)に詳しい。今その説に従う。 [002-000]

JD2365378.5 宝暦13年 (1764/2/1)
宝暦13年 同年詠として『石上稿』に191首載せる。他に百首歌を一度、百首歌の末57首、源氏巻名21首、総計369首を詠む。
[Y001494-000-000]

『石上稿』(宣長全集:15-279)。同集に載る「源氏物語巻名かくし題」の末に「以上廿二帖歌数廿一首此次来年可詠之」とあるが果たさず終わったようである。 [001-000]

JD2365378.5 宝暦13年 (1764/2/1)
宝暦13年 稲懸常松(8歳、後の大平)、徳力明通を師とし手習いを始める。
[Y001495-000-000]

『藤垣内翁略年譜』。 [001-000]

JD2365378.5 宝暦13年 (1764/2/1)
宝暦13年 この年の米価は25,6俵。銭4貫文余。
[Y001496-000-000]

『日記』(宣長全集:16-213)。 [001-000]


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