midashi_b 44歳の宣長・なぜ自画像を描いたの?

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安永2年(1773)癸巳。
妻勝、33歳。春庭、11歳。春村、7歳。飛騨、4歳。美濃、1歳。
1月2日、 次女美濃が誕生。
2月5日、 脱稿した『天祖都城弁弁』を谷川士清に見せる。この本は、士清の友人で津の儒学者河北景サダ(木偏に貞)の「高天原」論への反論書。
閏3月7日、 『古事記伝』巻7(版本巻8)清書が終わる。『古事記』上巻、須佐之男の暴虐から天の岩戸開きの所である。その後引き続いて巻8の執筆に着手した(翌年4月7日清書終わる)。
6月19日、 松坂、大洪水。本居家の被害記録は残らないが床下浸水くらいはあったかもしれない。
9月、 宇治(現、伊勢市)の蓬莱尚賢が訪問する。『古事記伝』稿本巻1借覧し、以後順次借り写す。尚賢(1739〜88)は伊勢神宮内宮の神官。谷川士清の娘婿で、その交友は賀茂真淵から儒学者、好事家など広範囲に及んだ。宣長にもしばしば諸国の情報や珍しい書物をもたらした。
10月、 『おちくほ物語』(全4冊)写本が出来たので奥書を書く。巻1、2は自分で写し、巻3、4は人に頼んで写してもらった。
11月18日、 『職原抄』の講釈が終わる(開始は明和8年10月28日)。
12月12日、 『和名類聚抄』を校合する。この本は平安時代に源順によって書かれた百科事典。
12月14日 第1回目の『万葉集』講釈が終わる(開始は宝暦11年5月24日)。 『源氏物語』の講釈は2回目も終わりに近づき、この年は、「総角巻」から「宿木巻」の途中までを読んだ。 同年、もしくは翌安政3年、『授業門人姓名録』を作成し、安永2年以前の入門者43名を挙げる。


なぜ自画像を描いたの?
 年譜を見てもこの年に画像を描く決定的な理由は見あたらない。
 強いて理由を求めるならば、前年の吉野水分神社参拝、つまり『菅笠日記』の旅、自分の命の源ともいうべき吉野に行った、その気持ちの高揚がまだ続いていたのだろうか。また、『授業門人姓名録』が、安永2年44歳以前と以後で別れて、45歳以降は整備された門人録として入門年次順に記されていく。門人と師と言う関係の自覚である。重大な心境の変化がこの前後にあったことは窺えよう。

心境の変化はなぜ生じたの?
 仮説だが、『直霊』と『ひも鏡』の成立によってではないかと思われる。42歳の10月に稿が成った『直霊』は宣長の古道論、つまり日本という国の本来の姿をどう考えるのかという、立場、見方を表明した本である。また同じ月に刊行された『ひも鏡』は発見した「係り結びの法則」を図解したもので、「てにをは」研究の骨子である。「古道論」と「てにをは研究」という宣長学を支える、いわば理念と方法が出来たことの持つ意味は大きい。これにより学問的、思想的に宣長の学問の方向が一応の定まった。自分の進むべき道を自覚したと言ってもよい。

「本居宣長四十四歳自画自賛像」(顔部分)

「本居宣長四十四歳自画自賛像」(顔部分)

 

>>『和名類聚抄』
>>「門人」

(C) 本居宣長記念館


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