明和3年(1766)2月20日〜天保6年(1836)12月17日
福岡藩士。初め種麿、通称、勝次。号は柳園。天明年間江戸に出仕し井戸南山に儒学を学ぶ。寛政元年(1791・24歳)4月、江戸下向の途中松坂に寄り、宣長に入門する。
『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』に
「筑前家中、青柳勝次【来ル亥ノ年マテ江戸ツメ、古学者、田尻友、実名種信】」
とある。
宣長は松平定信へ種信を推挙したことがある。話は不調に終わったが、その時の宣長の推薦文には、
「筑前に青柳種信と申門人可然人材と心附候」
とあったという。また、長瀬真幸にも再三に渡って、厚志の人だから会うようにと書き送っている。もちろん千家俊信に送った「出精厚志」の中にも名前は挙がる。ただ、藩士としての身分は低く、後年のことであろうが、幕府の監察使が筑前を来訪した時、郡役人が知らずに恥をかいた話が伝わっている。
「貴藩の青柳種信先生ありと聞く、今何れの職にあるやと、郡宰、青柳先生を知らず、汗顔答ふる所を知ざりし」
(「筑前の国学と青柳種信」上、武谷水城、『筑紫史談』16集・大正7年)。
文化11年(1814)には、その功を認められ「国学家業城代組」となり、次いで「御右筆記録方」に進み切米13石4人扶持を給せられた。その業績は、明治33年に紹介された三雲・井原遺跡の発掘、調査の中で、その先駆者として種信の『筑前国怡土郡三雲村古器図説』などの著作が再評価され、復刻や写真掲載の形で紹介された。また、宣長の所にも「筑前国那珂郡井尻村大塚ヨリ出土セルモノ」の図などを送ってきて今も本居記念館に現存する。著述は、『筑前国続風土記拾遺』、『防人日記』など。
>>「福岡藩士の金印論」
(C) 本居宣長記念館
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