伴信友バン・ノブトモ)

 宣長没後の門人。
 安永2年(1773)2月25日〜弘化3年(1846)10月14日。若狭国(福井県)小浜藩士・山岸惟智の子として生まれる。幼名、惟徳(コレノリ)。通称、州五郎。号、特(コトイ)。天明6年(1786)、江戸詰藩士・伴信当(ノブマサ)の養子となる。同8年江戸下向。文化3年(1806)家督を継ぎ、文政4年(1821)、長男・信近に家督を譲る。

 国学は、享和元年、村田春門を通じて宣長に入門を願ったが師の没した後で叶わず、没後の門人とされた。以後、大平に質し研鑽に励む。
  「述べて作らず信じて古を好む」態度で特に考証面で業績を残す。但し生前刊行された本は僅かで学派の伸展には及ばなかった。平田篤胤とも最初は親しく交わったが後に決別した。
 著書は、その後の宣長研究の基礎資料となる『鈴屋翁略年譜』、『日本書紀』は漢心に毒されているという説などを展開する『日本書紀考』、大友皇子は正式即位していたという『長等の山風』のほか、随筆『比古婆衣』(ヒコバエ)、『史籍年表』、『鎮魂論』など。


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