midashi_b 仏壇

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 仏壇について『別本家の昔物語』(55歳)に次のように書いてある。

 私が今住んでいる家は、祖父唱阿(ショウア)大徳の隠居所で、仏壇もその時のである。本尊は阿弥陀三尊像で、まん中の阿弥陀仏は座像でみだれ後光が付く。脇侍仏2体立像であった。三尊共に金色に輝き立派な仏像であったが。私が子どもの頃に、岩内(ヨウチ)村(松阪市岩内町)にある岩観音の寺の僧建入さんが、その寺の内仏に欲しいと母に願い出たので、それは有り難いことと、すぐに承諾したので、建入は自分で背負って、そのお寺に移し、庵の本尊としたが、この前、その寺が焼けてしまった。だが、幸いにも中尊だけは残ったが、あとは後光も台座も脇侍の観音、勢至像もみな焼失してしまった。その後、寺は立派に再建された。今の本尊はその焼け残った中尊である。参拝することがあったら心を込めて参拝しないといけない。

 神道への尊重が固まった50代においても、家の仏像への思いは格別である。やはり宣長において、家の宗教と仏教批判を同列に扱うことは出来ない。
 岩観音は、瑞巌寺。この中尊は、最近まで安置されていた。
 「大晦日鏡供覚」では、仏壇への供え方を指示する。

【原文】
「当家の今の家は、唱阿大徳の御隠居にて、仏壇もその時の也、本尊は阿弥陀の三尊にて、中尊は座像、みだれ後光也、脇侍の二尊は立像也き、此三尊いときらきらしく、結構なる仏像なりしが、宣長が童なりし比、岩内村の岩観音の寺の住僧建入といひしが、その寺の内仏にせまほしきよし、恵勝法尼へこひければ、そはよき事とて、すなはちゆるし給ひしかば、建入みづから負て、かの寺へうつして、庵の本尊として有しを、さいつころ寺焼ける時、からうして中尊ばかりを出し奉りて、後光も台座も観音勢至も、みな焼給ひぬとぞ、かの寺は、其後よき庵建たり、今の本尊、かの中尊なるべし、まうでなば心をつけて拝むべし」とある。

「知恩院三門」

「仏壇」


>>「家の宗教」



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