midashi_b 地図と系図

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 宣長は地図と系図が好きだ。空間の広がりと時間の流れ、これは「国学者・宣長」の背骨である。宣長はその背骨に、歴史書や和歌、また物語、説話などで肉付けをしていった。反対に言えば、歴史書はもちろん、物語や和歌、また言葉にでも宣長は時間の流れとか空間の広がりを見ていた。

 少年の頃から、地図や系図が好きだった。 15歳の時に『神器伝授図』と『職原抄支流』を書写する。いずれも長さが10mもある紙に細字でびっしり書かれている。『神器伝授図』は三皇五帝から清に至る中国の王朝、皇帝の推移を細密に図示したもの。写しであるが原本については不明。『職原抄支流』は北畠親房が書いた故実書『職原抄』の注釈書。今のませた中学生や高校生が図書館や祖父の書架でちらりと覗くことはあっても、全巻精写するような本ではない。ここで宣長を理解する一つの鍵がある。「連続」、「断絶」である。中国の歴史で皇帝の家系が交代したときには赤の線が引かれる。長い中国の歴史は常に権力抗争の歴史でもあった。一方、『職原抄支流』は、日本の宮廷の制度を書くが、こちらは時間は短いとはいえ連綿と続いている。
 やがて京都の町への関心(『都考抜書』)、また和歌への関心も芽生える(『和歌の浦』)が、そこにも連続するものへの尊重の念があることは言うまでもないことである。

 また、17歳の時、『大日本天下四海画図』を作成した。縦122.0糎、横195.0糎。畳一畳よりも少し広い。売っている地図では満足できずに工夫をしながら描いたというのだが、ここからは「日本」と言うレベルで把握する「国学者・宣長」の萌芽を見ることが出来る。

 また、18歳頃から、不思議な系図を作成し始めた。『端原氏物語系図』である。出てくる端原氏もまた元号もすべて架空。その翌年延享5年(1748)3月27日には、端原氏の町も作った。『端原氏城下絵図』である。
 宣長は物語を創作しようとしていたのではないか、という岡本勝氏の説もあるが、日野龍夫氏は、「宣長には「端原氏物語」を小説として書く意図は、はじめからなかったのではあるまいか」(「本居宣長と地図」『新潮』・1983-11)と言う。氏も指摘するように、少年期の地図や系図に対する関心、とりわけ細部へ細部へと向かうその指向性を見る時、宣長は「物語」ではなく「世界」を想像しようとしていたのかなも思えてくる。

【参考文献】
 端原氏の系図と絵図は『松阪市史』巻7で見ることができる。

>>『都考抜書』
>>『和歌の浦』
>>『大日本天下四海画図』
>>「千家俊信からもらった図」
>>「個と連続」
>>「注釈とは創造でもある」



(C) 本居宣長記念館


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