midashi_o.gif 代表的な門人 松坂近郊編

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 宣長の門人組織は、大雑把な言い方をすると、嶺松院歌会のメンバーたちへの、宝暦8年(1758)に開始された『源氏物語』講釈から成長していった。どちらかいうと自然発生的だ。講釈は、生涯にわたり都合3回行われ、4回目が途中で終わった。松坂周辺の門人は、この聴講者が核になったとも言える。この人たちが代表門人だと言うこともできる。そこで、『源氏物語湖月抄』巻末、宣長の覚えから出席者を見てみよう。

第1回(1758〜66)の出席者は、
浅原十左衛門義方【発起人也、半而死】
小津清右衛門正啓(1773以前)
中村伊右衛門光多(1773以前)
稲垣什助棟隆(1773以前)「鈴屋円居の図」「菅笠の旅」「恩頼」
須賀正蔵直躬(1773以前)「鈴屋円居の図」「恩頼」
浜田八郎兵衛明達【中廃】(1773以前)
覚性院戒言(1773以前)「鈴屋円居の図」「菅笠の旅」「恩頼」
折戸重兵衛氏麻呂(1773以前)
村坂嘉左衛門道生(1773以前)「鈴屋円居の図」  

第2回(1766〜74)の出席者は、
小津清右衛門正啓入道審斎(2度目)
竹内彦一元之(1773以前)「鈴屋円居の図」
山路喜兵衛孝正(1773以前)
稲垣十蔵茂穂(1773以前)「鈴屋円居の図」「菅笠の旅」「出精」「恩頼」
中里重五郎常朝(1773以前)
長谷川武右衛門常雄(1773以前)「鈴屋円居の図」「菅笠の旅」「出精」「恩頼」
中里大三郎常道(常岳)(1773以前)「出精」「恩頼」
村田中書光庸(1773以前)
谷恵左衛門高峯(1773以前)
長谷川彦之助高古(1773以前)  

第3回(1775〜88)の出席者は
稲掛十介大平(2度目)
中里伴蔵常秋(1775)
三井総十郎高蔭(1779)「出精」「恩頼」
岡山八郎次正興(1779)「出精」
竹内彦一直道(1784)
森義平光保(1784)、
村上吉太郎有行(円方・潔夫)(1785)
服部義内中庸(1785) 「出精」「恩頼」
青木半右衛門親持(1785)
笠因鈴之丞直丸(1787)



 寛政年間という宣長60代、門人が急増した時期が欠けているので、寛政年間の回章2通の宛人を載せる。

◆回章1・寛政6年(1794)5月12日付回章宛人
三井総十郎(高蔭)【既出】
竹内彦市(直道)【既出】
稲掛十介(大平)【既出】
中里新三郎(常岳)【既出】
中里平兵衛(常秋)【既出】
伊豆田瀬三郎(清三郎・金甫)(1793)
殿村助吉(安守)(1797)
三谷景助(景介・比曽牟)(1791)
小津次郎左衛門(信業)(1776)
谷文蔵(高当)(1790)
服部義内(中庸)【既出】

◆回章2・寛政8年(1796)正月18日付回章宛人
馬嶋掃部(1796・河芸郡神戸の人・松坂滞在中か)
長谷川武右衛門(常雄)【既出】
竹内彦一(直道)【既出】
稲掛十介(大平)【既出】
中里新三郎(常岳)【既出】
中里平兵衛(常秋)【既出】
殿村五兵衛(安守)【既出】
小篠大記(敏)(1780・石見浜田の人・松坂滞在中)
林伊右衛門(利長)(1791)
岡山八郎次(正興)【既出】
深田佐兵衛(年雄)(1795)
村上三介(円方・潔夫)【既出】
三谷景助(景介・比曽牟)【既出】
森伊右衛門(光保)【既出】
谷文蔵(高当)【既出】
笠因鈴之丞(直丸)【既出】
服部義内(中庸)【既出】



 ほぼ松坂主要門人の名前が出ている。脇に(1773以前)等と記したのは入門年。「円居の図」は明和年間の様子を描いたと推定される「鈴屋円居の図」、「菅笠の旅」は明和9年(1772)の吉野、飛鳥旅行参加者、「出精」は寛政5年に宣長の選んだ「格別出精厚志」の人、「恩頼」は「恩頼図」に出る人である。「回章」の【既出】は既に名前が出ていることを示す。
 これは、一つの目安にすぎないと言うことである。早く亡くなった人、入門の遅かった人、宣長より年長だったので名前が出ないと言うこともあるかもしれない。
 面白いのは、第3回になると講釈聴講が終わる位に入門する人がいることである。つまり宣長の講釈は門人にならなくても聞くことが出来たのだ。



>>「講釈」

>>「嶺松院歌会」
>>「鈴屋円居の図」
>>「村田光庸」
>>「恩頼図」



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