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宣長学の隆盛の一因は、理解者に恵まれたことであろう。
浜田藩主松平康定の外、和歌山藩主徳川治宝、京都では妙法院宮、また公卿では芝山持豊、富小路貞直、日野資枝などは特に宣長を厚遇してくれた。ここでは京都の妙法院宮と公卿の歌を紹介しよう。
妙法院宮は光格天皇の実兄で、当時の京都芸術文化の中心に居られた方であり、自身も絵に書に、また歌や学問に優れていた。この宮に、宣長は『古事記伝』を献上し、また64歳の時には拝謁している。歌は、
いせの海のなぎさを清みすむつる(鶴)の千とせの声を君にきかせむ
芝山持豊(1742〜1815)は正二位権大納言にまでなった公家。庶民とも親しく交わり、当時の京都文化の庇護者であった。宣長が、晩年京都へ国学の普及活動のために上った時にも、熱心に迎えている。
寛政11年宣長七十の賀の歌。
「宣長老翁七十の賀に のぼりこし齢はいまだ七十の末はるかなり千世の坂みち」
宣長の返歌
「千代は経ん君がめぐみの言の葉をかざしにささば老いもかくれて」
また、宣長より贈られた『草庵集玉箒』への返礼に歌を贈っている。
正三位・富小路貞直卿の長歌は巻末を紹介しよう。
「ふるさとの二見のうらの、ふたゝびもさきくいまして、かにかくにのぼりきませと、すがのねのねんごろにのるけふのわかれぢ」(お前の住む伊勢の二見の名のように再び元気で京都に来る日を祈る今日の別れである) これは、帰郷する宣長に贈った歌である。という高官の貞直に知遇を得たことは、宣長にとって身に余る光栄であった。又、帰郷に際して贈られたこの歌の最後の句を読んだ宣長は感動に打ち震えたであろう。
宣長七十二年の生涯の最後を飾る長歌である。
日野資枝は、従一位の公卿。宣長(72歳)への返歌。
「宣長より「波の下くさ」とよみておくられしかば/わかの浦やちよまつかげのみるふさをだれかはなみの下くさとみむ/従一位(花押)」 宣長が、自分は波の下草のような者ですと卑下したのに対して、和歌の浦の海松房(みるぶさ)のような立派なお前を誰が、名もない下草と見るものか、と詠み返した。
国学の普及を念願していた宣長にとって、最晩年の、京都での公家からの厚遇は、大変嬉しいことであった。
>>「松平康定」
>>「光格天皇」
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