藤原定家(フジワラノ・サダイエ)

 応保2年(1162)〜仁治2年(1241)8月20日。後鳥羽院に認められ和歌所寄人、『新古今集』選者となる。承久の乱直前には後鳥羽院から退けられるが『新勅撰和歌集』を編纂し中世を代表する歌人であり、古典を校訂し後世に伝えた人でもある。宣長が歌人の中でも最も尊んだ。次に引くのは24歳の時の文章だが心酔の様子がよく分かる。

 『鈴屋百首歌 一』の奥書の一節に

「扨も名所の歌は、よみかたき物にて有ける、一首ことに案しわつらふに付ても、かのより所とせる京極黄門の御百首をつらつら見侍るに、よにめてたき物にてそ有りける、他人のをよはぬ所いよいよ見え侍る、まことに此道の聖人にておはしける、あふくへしあふくへし、やつかれ年ころことに、彼卿の御歌を、又なき物とたうとひ侍るうへ、いよいよあふき奉る心まし侍る、宝暦五年乙亥八月十六日、清蕣庵艸。おはりの御津浜松の歌も、かの黄門の、まちこひしむかしを忍ひ給ひし歌の、あまりに哀におかしく侍りし上、かつは百首いつれも、かのあとをしたひならひ侍るといふこゝろにて、つゝけ侍りし也」(本居全集・20-124)
「おはり(終わり)の御津浜松の歌云々」は、『鈴屋百首歌 一』最後の「御津浜松、いにしへの形見久しく見し跡も又しのはるゝ御津の浜松」が、直接には『新拾遺和歌集』「名所百首歌をたてまつりけるに、前中納言定家、待恋ひしむかしは今も忍はれてかたみ久しきみつの浜松」をもとに、また間接的にはこの百首歌の手本が定家であったことを示唆している。

 『排蘆小船』でも
「(定家は)コトニ歌モ父ヨリモナヲスグレテ、他人ノ及バヌ処ヲヨミイデ玉フユヘニ、天下コゾツテアフグ事ナラビナシ、マコトニ古今独歩ノ人ニテ、末代マデ此道ノ師範トアフグモコトハリ也、予又此卿ヲ以テ、詠歌ノ規範トシ、遠ク歌道ノ師トアフグ処也」
(宣長全集・2-65)
 父俊成よりも歌が優れ、古今独歩の人だ。私も歌を詠む時の手本とし、和歌を考える時の師として尊重している、と言う。

 また「俊成卿定家卿などの歌をあしくいひなす事」(『玉勝間』巻12)で、最近『万葉集』を尊敬する者たちが俊成や定家など軽視することがあるが、とんでもない思い上がりで、その者たちがいくらがんばっても足元にも及ばぬ と言う。


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> >『排蘆小船』
> >『新古今集美濃の家づと』



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