midashi_b 眼病治療の旅

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 京都で御遷幸を拝見した宣長・春庭一行が松坂に帰着したのは寛政2年(1790)11月28日であった。春庭(29歳)の目に異常が現れたのは、年が改まった寛政3年春(1月〜3月)ごろであったらしい。自宅での治療の効果が見られないので、春庭は尾張国馬嶋の明眼院に入院する。

 父宣長の『日記』8月条には、「十日、健亭因眼病為療治行尾張馬嶋本日発足」とある。 自分の後継者として期待していた長男の眼病だけに、宣長の心労は甚だしかった。
「扨々心労仕候」(寛政5年5月23日付書簡)、「扨々心労仕候、御憐察可被下候」(同10月10日付書簡)僅かな言葉には、計り知れない悲しみが込められている。『古事記伝』出版もいよいよ忙しくなる時期だけに、宣長は悲しんでいるわけにも行かず、どうか馬嶋で辛抱強く治療を続けて欲しいと春庭に手紙を送っている。
「随分心長ニ養生被致可然存候」(寛政3年10月11日、春庭宛宣長書簡)  
 だが、11月9日、弟春村に付き添われて帰宅する。

 翌、寛政4年(1792)3月5日、名古屋に講釈に行く宣長は、春庭(30歳)を同伴しもう一度明眼院で治療をさせる。だが、4月23日に帰宅。

 寛政5年3月10日、京都での講義のため宣長は上京する。この時も春庭(31歳)を同伴させ、講釈の合間を縫って、3月19日から大坂に向かい、滞在中の播磨の眼科医に見せるが効果は無く、21日京都に帰る。

 寛政7年2月20日付千家俊信宛宣長書簡に「眼病終に治シ不申、盲申候而、心痛仕候、御憐察可被下候」とある。薬石効なく失明である。春庭33歳。報告はこの年だが、その前年には既に目は光を失っていたのだろう。

 失明が千家俊信に報告された2ヶ月後、4月23日、春庭は弟春村と妹飛騨に付き添われ針医の修行のため上京する。途中、大和国切畑村に眼科に優れた者がいると聞き、雨の七見峠を越え、3人は山を分け入るが、その治療も効果はなかった。京都での生活が始まった後も、宣長の再三の勧めで9月末から再び切畑村に行き治療するが、やはり効果はなかった。
 眼病の治療の旅はこれが最後となる。春庭33歳の時である。


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