midashi_b 現地探索

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 寛政元年(1789)、60歳になった宣長は、門人の要請により名古屋に赴く。この時の名古屋行きを期に、それまで松坂を離れることの少なかった宣長は、京都へ、また和歌山へと精力的に学問普及のために旅をするが、その旅寝の無聊を慰めたのが『万葉集』や『古今集』などに出た地名や歌枕の地の探索であった。文献による緻密な考証と共に現地の調査を重視する宣長の方法は、既に43歳の時に『菅笠日記』で実践済みである。それら現地探訪の成果は『玉勝間』に載せられている。中でも圧巻は巻3巻頭の「五十師原 山辺御井」である。これは『万葉集』に出る地名を名古屋の帰途に調査した事で完成した地名考証である。

  寛政元年の現地調査については、同行した大平の日記『藤のとも花』が詳しい。
  「白子にはいといたく夜ふけてそつきぬる、しか夜ふけぬるよしは、石薬師のわたりに名ある所々たつね見るへきよし、翁の一日ちきりおきけれは、しるへせんとて、坂倉茂樹いしやくしに出むかへゐたり、さるはきのふ桑名より人はしらせて、白子人のもとに今日とつけけれは、今朝とくよりいてて、こゝに待居たるなりけり、石やくしの駅をはなれて、七八丁はかり東に、山部といふ所あり、これなん、万えふしふの歌に、山のべの石の原とも、山のへの御井ともよめる所なるへき、そはそのわたりに、すくれたる山のゐもあり、又見わたすよものけしきも、かの歌によめるありさまといとよくかなへりけるを、翁いとはやくよりかつがつ物にもしるしおけりけれと、それ猶書のうへのみのかむかへにて、所のさま目にはいまた見さりけるを、けふなんかく見さためて、いよいよこゝそと思ひさためたりける」(宣長全集・別巻3-20)

  事前に現地の状況に詳しい門人坂倉茂樹に案内を依頼し、入念な準備の下行われた調査は、名所旧跡が多い地であったこともあり、予定の時間を過ぎ、一行は子の刻というから深夜12時過ぎであろうか、やっとその日の宿である白子の市見直樹宅に到着する。宣長60歳、同行大平34歳、春庭27歳の時のことである。また大平は、宣長が「山辺御井、五十師原」のことを早くよりまとめていたことを言い、また田中道麿が松坂を訪問した際に宣長の考証を読み、感銘し歌を残し、また帰路には自らもその地を訪ねている。
 文献や地図、また人の話を総合的にまとめ上げる力が宣長にはあった。そのような想像力をも駆使した考証を尽くした上での現地探索であった。

>>「田中道麿」



(C) 本居宣長記念館


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