midashi_v.gif 『元暦校本万葉集』(ゲンリャクコウホンマンヨウシュウ)

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 『元暦校本万葉集』は、『万葉集』次点本の一つで「元暦元年(1184)六月九日以或人校合了/右近権少将(花押)」の奥書を有することから命名された。桂本、藍紙本、金沢本、天治本と共に「五大万葉」の一つとして知られている。『万葉集』全歌数の6割以上を有し、次点本では『類聚古集』に次ぐ。また校訂があり、最も重要な写本である。

 こんなすごい本が松坂にあった。
 現在判明している伝来は、もとは松坂の中川浄宇宅に蔵され、その後、松坂郊外射和村(松阪市射和町)の富山家に秘蔵された。中川浄宇家は後に韓天寿が当主となった名家だ。富山家も「伊勢の射和の富山さまは、四方白壁八ツ棟造り、前は切石切り戸の御門、裏は大川船が着く」と歌われた家で、浮世草子『御入部伽羅女』湯漬翫水・宝永7年(1710)刊、は同家京都店がモデルとなった。
 万葉研究第一人者である賀茂真淵もこの本に注目し、地元学者の調査を慎重に見守った。
 その地元学者の一人が、真淵の門人・久老であった。
 ただ、久老では若すぎると思ったのか、またいち早く報告が欲しかったのか、宣長にも調査への参加を勧めている。


 「彼富山が万葉、此小田など数人罷候而校合いたし候由、当地ニ而も門下之内ニ、万葉本文改判之相談も有之候ニ付、彼校合はやく一覧いたし度候、来四月此人帰国以後、早速うつし見セ候ハんとの事也、されど数巻ニ候ヘハ、貴兄も御手伝候而、何とそはやく下り候様ニ頼入候、但此人来四月ならては不帰候也、其以前ニ何とそ一二の巻ハかりも見度事と申候也」

 小田は荒木田久老のこと。江戸でも『万葉集』改訂の企画があるので早く校合が見たいと真淵は言う。だが改訂の企画より何よりまず真淵自身の『万葉考』の完成が急がれる時期だけに、一番見たかったのは真淵である。「何とそ一二の巻ハかりも見度」というところの本音が現れている。
 真淵の勧めにもかかわらず、この調査に宣長は参加しなかったし、また調査そのものも 完了したのかは不明である。調査報告はともかくも、この時の副産物が久老の「富松の歌」である。

 その後、富山家の縁戚で兵庫の回船問屋俵屋の所蔵となった。30数年後の寛政末年、久老は俵屋の所蔵品として再見している。この時には橋本経亮も同行し『橘窓自語』(『日本随筆大成』1期4-458)に記事を遺す。天保初年、桑名松平家、天保14年水野忠邦、明治44年古河虎之助家と転々とし、現在は同本の分割された一本(やはり中川浄宇家より有栖川家、その後高松宮家に伝来)と共に昭和26年(1951)6月国宝指定、東京国立博物館所蔵(文化財保護委員会より管理換え)となっている。


>>「富松の歌」
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>>「橋本経亮」
>>「韓天寿」



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