橋本稲彦(ハシモト・イナヒコ)

 天明元年(1781)〜文化6年(1809)6月15日。享年29歳。
 広島に生まれた。姓源、通称保次郎、中台、稲蔵、稲毘古、号琴廼屋。最初、垂加神道を学ぶが飽きたらず、寛政10年(1798)、松坂を訪れ、1月23日に宣長に入門する。当時の宣長書簡に「且又藝州広島橋本稲蔵と申若者、是于致逗留罷在候、殊外出精いたし申候」(寛政10年5月28日付、千家俊信宛)とある。また「山室山奥墓碑面下書」は稲彦宛書簡の紙背に書かれる。

 宣長から目をかけられた反動か、周りの評判はどうもよくなかったようで、某年正月14日付大平宛書簡でも、松坂での自分の評判の悪いことを書き、それでも自信の程を窺わせる(『本居宣長稿本全集』・2-233)。また没後、殿村安守は大平宛書簡で『仏国暦象編』を書いた普門律師を評し、「故稲彦見るやうなげんきな僧」と書いている(文化14年5月付)。著書には村田春海の『時文摘紕』を批判した『非時文摘紕』や、加藤千蔭の『うけらが花』を批判した『非宇気良賀華』などがある。大坂の蛇(クチナワ)坂に葬られたと伝える。

【参考文献】
「宣長門人橋本稲彦の一考察」中澤伸弘『鈴屋学会報』15号。
「文化十四年五月篠斎差出大平宛手翰」吉田悦之『須受能屋』1号。
「山室山奥墓再見」吉田悦之『須受能屋』10号。

> >「殿村安守」
> >「村田春海」
> >「書斎の鏡」
> >「竹村茂雄の訪問」



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