midashi_g.gif 日前宮・国懸宮

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  かしこさは 伊勢の神垣 へだてなく
           これも天照る 日のくまの宮  宣長

 和歌山市秋月、鬱蒼とした森に囲まれる日前宮・国懸宮(ヒノクマノミヤ・クニカカスノミヤ)は伊勢神宮と並び称せられる神社。
 「古神道を知るには、書物を読むよりもこの森にくるといい」『街道をゆく』司馬遼太郎。

 日前宮・国懸宮は、天の岩戸開きの時に作られた一番最初の鏡(岩戸開きで実際使われたのは二番目の鏡で、こちらは伊勢神宮に祀られる)と、矛の鏡が祀られている。
 『延喜式』では名神大社に列し、のち紀伊国一宮となるが、戦国時代に災厄に遭い、豊臣秀吉に所領を没収されるなど一時は衰亡する。だが、紀州徳川家初代頼宣により社領が寄進され、しだいに旧観に復した。境内の西側に日前宮、東側に国懸宮があり共に南面する。現在の社殿は大正15年(1926)に改修されたものだが、往時の遺制をそのまま伝えたもので入母屋造平入り、縁勾欄のない土間造の特殊な構造となっている。
 神主は、天孫降臨以来、紀国造家が勤めた。宣長が和歌山に行った時、紀国造家は75代俊庸(26歳)。大変熱心な宣長の教え子だったが身分が高かったために『授業門人姓名録』には名前が出ていない。ただ大平が使っていた本にだけ名前が出ているのは、すすんで宣長の門人たらんとした俊庸の意志を汲んで、大平か内遠が、後に補入したと考えられる。俊庸は、飛鳥井家四男で国造家を嗣いだ。名は三冬、通称式部、麻積主。日前宮、国懸宮の宮司を勤め、文政8年(1825)2月11日に没した。享年57歳。

 宣長は、この神社に参詣し、享和元年(1801)には、御前講釈に必要な『古語拾遺』を借りている。日前宮の事を記す『古語拾遺』を、その地を治める藩主に講釈した宣長の思いは格別だったようで、感動を長歌に詠んでいる。
 この神社の壮大な境内地や社殿は写真では伝えにくいので、『紀伊国名所図会』から採録することにする。この図の上には宣長の歌が書かれている。


『紀伊国名所図会』「日前宮・国懸宮」
『紀伊国名所図会』「日前宮・国懸宮」
『紀伊国名所図会』「日前宮・国懸宮」
『紀伊国名所図会』「日前宮・国懸宮」
『紀伊国名所図会』「日前宮・国懸宮」
『紀伊国名所図会』
「日前宮・国懸宮」


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