midashi_o.gif 堀元厚(ホリ・ゲンコウ)

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 貞享4年(1686)〜宝暦4年(1754)1月24日。享年69歳。『在京日記』宝暦3年7月条に「廿二日、入門干堀元厚氏。而聞医書講説」とある。元厚は後世派の医者。著書に『医案啓蒙』、『医学須知』、『医門丘垤集』がある。『医案啓蒙』はカルテの書き方、『医学須知』は『素問』『霊枢』『八十一難経』からの抜粋抄録である。
 神沢杜口は「又右に記す堀元厚は、予が俳友にて、交り親しかりし、俳名は釣雪(テウセツ)と云り。京都の学医にて、書生たる者之へたよらざるは無し、京師の学校の如し、療用は辞して講説而已なり。」(『翁草』)と言う。

 元厚は後世派の中でも劉張医方派に属した。この派は日本では曲直瀬玄朔門の饗庭東庵によって提唱され味岡三伯、小川朔庵と受け継がれ元厚に至った。派の説としては、五運六気説、陰陽五行説、臓腑経絡説等を説く。
 また「コレラノ人々ハ皆、自ラ刀圭ヲ取テ人ヲ療治セルニ非ズ。但、素難ヨリ宋元明ノ医書ヲ講ズルヲ業トセリ」(『閑散余録』)とあり、実際の治療でなく、医書講釈を仕事としていた。

 同7月26日から堀元厚の講釈開始。「堀元厚先生講釈始、毎朝、霊枢及局方発揮也、二七四九之日夕、素問、運気論、ソカイ(泝カイ)集也」(『在京日記』)。『霊枢』以下いずれも後世派の読む基本書であった。『国書人名辞典』に拠れば、本姓、菅原。名、貞忠。字、元厚。号、北渚、釣雪。法号、青雲院延空貞喜居士。山城山科西山村の人。医は小川朔庵に学び、京で業とした。一雪に学んで俳諧を能し、能も嗜み「能火消」と称された。墓、誓願寺。



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