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景山死去の日、宣長の『在京日記』には、
「さてしも予かいせくたりも、節供過とかねてさためをきしかとも、景山先生、春よりのわつらひはかはかしからて、此程はいとおもくなり給日にたれは、見すて奉りてはいかゝ下らんと思へは、しはしのはし侍る、やうやう大切に成給て、十九日のあさの暁につゐにゆかをかへて身まかり給ひぬ、としはことし七十になん成り給ひぬる、みな人のおしみ奉ることいはんかたなし、門人ひそかに議して、良靖先生と諡したり」
とある。弟子から慕われたのだ。
9月22日、夜明け前より堀景山葬儀が南禅寺帰雲院で執り行われる。儒家の式で丁重な葬儀が終わったのは暮れ近くであった。折しも、景山が愛してやまなかった紅葉が見事で門弟皆が涙にくれた。その後も墓参の時には紅葉を折り手向け、哀悼の詩を捧げた。
また、藩主浅野宗恒の命で堀南雲(南湖の男・北堀家)が「宝暦丁丑七年季秋中旬、安芸守侍従源朝臣宗恒建石以銘」と記した「忠靖先生之碑」碑文を撰した(「弘洲雨屋虫干集」)。
「忠靖先生之碑、継踵百世之師以諭導、研精万巻之書而教誨、◎(ビ)々励怠、逞々興廃、嗚呼哀哉、永訣難再、報之無日、茫々大交◎(石に鬼)、秋霜共消、名伝海内、展如之人、斯文風慨、忠哉靖哉、徳音安在、嗚呼哀哉、歎惜無已、聊以此告正超之霊、宝暦丁丑七年季秋中旬、安芸守侍従源朝臣宗恒建石以銘」。「従姪(原文は人偏)正◎奉藩命」。
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「帰雲院」表札
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「景山の墓」
景山先生の墓は小さい。
表には「景山堀氏正超之墓」とある。
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「忠靖先生の碑」部分
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「忠靖先生の碑」
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「堀景山」
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『在京日記』
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