midashi_b 佐佐木信綱の「松坂の一夜」 資料

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資料 『【増訂】賀茂真淵と本居宣長』
 昭和10年1月10日発行・著者佐佐木信綱・発行所湯川弘文社。175頁〜177頁。

   松坂の一夜
 時は夏の半、「いやとこせ」と長閑やかに唄ひつれてゆくお伊勢参りの群も、春さきほどには騒がしからぬ 伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舗柏屋兵助の店先に「御免」といつて腰をかけたのは、魚町の小児科医で年の若い本居舜庵であつた。医師を業とはして居るものゝ、名を宣長というて皇国学の書やら漢籍やらを常に買ふこの店の顧主(とくい)であるから、主人は笑ましげに出迎へたが、手をうつて、「ああ残念なことをしなされた。あなたがよく名前を言つてお出になつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供をつれて、先ほどお立ちよりになつたに」といふ。舜庵は「先生がどうしてここへ」といつものゆつくりした調子とはちがつて、あわただしく問ふ。主人は、「何でも田安様の御用で、山城から大和とお廻りになつて、帰途(かへり)に参宮をなさらうといふので、一昨日あの新上屋へお着きになつたところ、少しお足に浮腫(むくみ)が出たとやらで御逗留、今朝はまうおよろしいとのことで御出立の途中を、何か古い本はないかと暫らくお休みになつて、参宮にお出かけになりました」。舜庵、「それは残念なことである。どうかしてお目にかかりたいが」。「跡を追うてお出でなさいませ、追付けるかもしれませぬ」と主人がいふので、舜庵は一行の様子を大急ぎで聞きとつて、その跡を追つた。湊町、平生(ひらお)町、愛宕町を通り過ぎ、松坂の町を離れて次なる垣鼻(かいばな)村のさきまで行つたが、どうもそれらしい人に追ひつき得なかつたので、すごすごと我が家に戻つて来た。
 数日の後、岡部衛士は神宮の参拝をすませ、二見が浦から鳥羽の日和見山に遊んで、夕暮に再び、松坂なる新上屋に宿つた。もし帰りにまた泊まられることがあつたらば、どうかすぐ知らせて貰ひたいと頼んでおいた舜庵は、夜に入つて新上屋からの使いを得た。樹敬寺の塔頭なる嶺松院の歌会にいつて、今しも帰つて来た彼は、取るものも取あへず旅宿を訪うた。同行の弟子の村田春郷は廿五、その弟の春海は十八の若盛で、早くも別室にくつろいでをつた。衛士は、ほの暗い行燈の下に舜庵を引見した。
 賀茂県主真淵通称岡部衛士は、当年六十七歳、その大著なる冠辞考、万葉考なども既に成り、将軍有徳公の第二子田安中納言宗武の国学の師として、その名嘖々(※さくさく)たる一世の老大家である。年老いたれども頬豊かなるこの老学者に相対せる本居舜庵は、眉宇の間にほとばしつて居る才気を、温和な性格が包んでをる三十四歳の壮年。しかも彼は廿三歳にして京都に遊学し、医術を学び、廿八歳にして松坂に帰り医を業として居たが、京都で学んだのは啻(※ただ)に医術のみでなくして、契沖の著書を読破し国学の蘊蓄も深かつたのである。
 舜庵は長い間欽慕して居た身の、ゆくりなき対面を喜んで、かねて志して居る古事記の注釈に就いてその計画を語つた。老学者は若人の言を静かに聞いて、懇ろにその意見を語つた。「自分ももとより神典を解き明らめたいとは思つてゐたが、それにはまづ漢意を清く離れて古へのまことの意を尋ね得ねばならぬ。古への意を得るには、古への言を得た上でなければならぬ。古への言を得るには万葉をよく明らめねばならぬ。それゆゑ自分は専ら万葉を明らめて居た間に、既にかく老いて、残りの齢いくばくも無く、神典を説くまでにいたることを得ない。御身は年も若くゆくさきが長いから、怠らず勤めさへすれば必ず成し遂げられるであらう。しかし世の学問に志す者は、とかく低いところを経ないで、すぐに高い処へ登らうとする弊がある。それで低いところをさへ得る事が出来ぬのである。此のむねを忘れずに心にしめて、まづ低いところをよく固めておいて、さて高いところに登るがよい」と諭した。
 夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門(かど)のみな閉ざされ果てた深夜に、老学者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律義者で、いつも遅くまで夜なべをしてをる。今夜もとんとんと桶の箍 をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
 舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳蔵の仲介で名簿(みやうぶ)をさゝげ、うけひごとをしるして、県居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾来松坂と江戸との間、飛脚の往来に、彼は問ひ此(これ)は答へた。門人とはいへ、その相会うたことは纔(※わず)かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
 今を去る百五十余年前、宝暦十三年五月二十五日の夜、伊勢国飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老学者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が国学史の上に、不滅の光を放つて居るのである。
 附言、余幼くて松阪に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの数節等をあざなひて、この小篇をものしつ。県居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、当夜宣長と同行せし者(尾張屋太右衛門)ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。
 以下、「和泉和麿の宣長評」まで十篇は、大正六年四月以前の執筆にかかる。              (※の後のふりがなは、後補)


>>「県居の九月十三夜」
>>「柏屋」



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