【国特別史蹟・1953年3月31日指定】
魚町1654番地。
旧宅跡(436.36m2)は、1741年から1900年頃まで本居家が代々住んだ場所である。宣長も12歳から72歳まで(もちろんその間には江戸での商売修行や京都遊学もあったが)生涯の大半をここで過ごした。用地を取得は本町宅地と同じ承応3年(1654)で、道休亡き後は妻が住み、その後は手代の未亡人が住んだりしていた。その建物を取り壊し、享保11年(1726)に職人町の隠居家(元禄4年1691・3月棟上)を移築した。これが現在「本居宣長旧宅」と呼ばれている建物である。築300年が経過している。
1階には店の間(六畳)、中の間(六畳)、奥中の間(四畳・但し二畳の床が付く)、仏間(三畳)、奥座敷(八畳)、台所、階段の間、湯殿等があり、2階は四畳半の書斎である。昼間の医療活動は店の間で行われ、夜の古典講釈は奥座敷が使用された。また大きな仏壇には阿弥陀三尊像が祀られていた。階段は下三段が取り外しがきき部屋の有効利用が図られた。この急な階段を上がると書斎である。ここは53歳の増築で本来は物置であった。窓を広く取り、床の間の脇には36個の小鈴を赤い紐で結んで掛けた。柱掛鈴と呼ばれるこの鈴により、書斎の号を「鈴屋」と呼ぶ。床の間には師賀茂真淵の命日には「県居大人之霊位」(アガタイノウシノレイイ)が自書して掛けられた。また本箱には「朝宵に取りいづるふみ」の各一文字宛が記され整理をされた。
魚町にあったこの家は、「鈴屋」の名前で広く知られ、明治42年(1909)、保存と公開のため旧宅は松阪公園の現在地に移された。魚町の宅跡には宣長遺愛の松、礎石、春庭の旧宅、土蔵(五三桐家紋瓦)が残されている。
【資料】
『日記』「同五月十四日。家内皆。越移魚町隠居也」。
『本居氏系図』「本家譜」
「同年五月十四日挙家自本町宅移居魚町隠居今宅」。
『家のむかし物語』「同年五月十四日、本町の宅より、魚町一町目の今の宅に、恵勝大姉、こども四人をぐして、移り給う、〔此魚町の宅は、道休君の世、承応三年に、本町の宅地と合せて、買得給へる地にして、【妙延法尼晩年、此地に居住】其後享保十一年、唱阿君、職人町の隠居を、此地に移し建て、栄保大姉とともに住給ひし家也、職人町は、はなれて便りあしかりし故に、此地にはうつされし也、さて栄保大姉かくれ給ひて後は、人にかしおきたりしを、此度当家の住宅とはなせる也、此地は、本町の宅地と、うら合せにつづきて、即ち今用ふるぬりごめも、本町ノ宅の蔵にて、かの町の地に属る也」(宣長全集・20-27)。「さて魚町の今の宅地、承応三年に、本町の地と共に、道休大徳の買得給へるところにして、後に妙延法尼、老後此地に住れたり、其後元禄の末より、手代十右衛門といひし者の後家、おつまといひし人すめり、此人は道休大徳の姪なり、其時の家、二軒にしきりて、一軒は此おつま住、一軒は人に借し有し也、其後享保十一年、唱阿大徳、職人町の隠居を引て、此地に建て、御老後、栄保大姉と共に住給ひし也、今の家すなはちこれなり、享保十一年丙午より、ことし、天明四年甲辰まて、五十九年になるなり、さて、唱阿大徳かくれ給て後は、栄保大姉のこりて住給ひ、栄保大姉もかくれ給ひて後は、人に借し有しを、寛保元年辛酉五月十四日より、当家の住居となれり」(宣長全集・20-48)。
「尚々、此方庭之松も持直し、此節みどり出申候、御安心可賜候」(寛政8年3月20日付小西春村宛書簡)
魚町旧宅跡
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宣長旧宅 全景
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