midashi_g.gif 宣長さんの家に入る

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 魚町の通りを坂内川を背にして進むと、宣長さんが
「町すぢゆがみ正しからず、家なみわろく、一つごとに一尺二尺づゝ出入てひとしからず、いといとしどけなし」(「伊勢国」)
と言うように、たしかに町筋がゆがんでいるね、一軒一軒みな斜めに道と向かい合っている。家並みが一直線じゃないね。長谷川邸の少し前、左手に松の木が見える。ここが宣長さんの家だ。

 玄関。年中、注連縄(シメナワ)がかかるのは伊勢神宮に近いこの地域の習わし。200年後の今も変わらない。注連縄に何か木の札がぶら下がっている。「蘇民将来子孫之家」だ。宣長さんの先祖は「蘇民将来(ソミンショウライ)」か? 実はこれは、疫病除けのお札だ。宣長宅は毎年、注連縄とともに新調する。現在は「笑門」と書いた木札を注連縄につける家もある。「笑う門には福来たる」かな。

 玄関を入ると左手が店の間だ。
 宣長さん時代は、医者は原則として往診だが、イラストのようにここで見ることもあったのかも知れない。本居家の伝えでは「診療室」に使われたとある。ここで薬の調合もし、時には外来患者も診たのだろう。

 さらに入っていくと、通り庭はいったん本当の庭、「坪庭」に出る。広さは約5坪。石の井桁の掘り井戸があり、脇には石の手水鉢。榊、黒松、棕櫚竹、矢竹が植えられる。足立巻一さんの描写を借りると「春はシダの若葉が明るく小じんまりとして閑静な5坪の庭」だ。見上げると窓が見える。そこが宣長さんの書斎「鈴屋」である。左手が中の間、その奥が奥中の間。客人はこの「坪庭」から家に上がったという。講釈などでやってきた人も、「では失礼」とここから講義の場所である奥座敷に入っていったのかな。

 また潜り戸がある。ここを入ると、台所だ。
 宣長さん一家は、揃って食事したのかな。当時のことだ、宣長と春庭、春村と男がまず食べたのかな。夜になると魚町の人通りも絶えて静かな夕食・・。だが、宣長には5人の子どもがいる。一番下・能登は47歳の時の子だ。外は静かでも中は賑やかだったかもしれない。
 
 左手には階段がある。
 階段の奥が大きな仏壇だ。その右奥が奥座敷。宣長さんが講釈や歌会で使用していた部屋だ。宣長が亡くなったあともここの床の間に「本居宣長六十一歳自画自賛像」が掛けられ追慕の会が開かれた。

 台所の右手は畳敷きの小さな部屋、ここにも階段?
 実は、これは今、仮に置いてあるだけで、宣長さん時代はここには何もなかった。お手伝いさんが使っていた場所だ。 台所は「おくどさん」と呼ばれる竈がある。焚き物置きもある。窓は天窓。明かり取りで今はガラスだが、宣長さんの頃はこんな便利な物はない。煙出しの隙間と言ったくらいだろう。雨の日は中は真っ暗だったはずだ。
 
 台所の一番奥が、小さな箱。これが宣長さんの風呂だよ。
 松平康定侯が宣長と対面した記録に「たけたちはすまひなどいふばかり」(身長は力士位ある)と証言しているので、長身だった。170cm位あったと思う。この風呂ではいかにも小さいね。リラックスする場所ではなかったのかな。
 
 台所を出ると裏口だ。右手には厠(トイレ)が並ぶ。その奥には土蔵だ。

宣長旧宅 一階図面

宣長旧宅 一階図面
宣長旧宅 二階図面

宣長旧宅 二階図面


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(C) 本居宣長記念館


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