midashi_b 宣長の逸話

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 『中等新国文教授参考書 巻三』(三矢重松著・文学社・大正11年4月22日発行)

 「宣長先生の気根と極りの善いこと
宣長先生の勝れて正しいことは、今に、漢学と洋学ばかりを有り難がる日本人には、知られない。誠に嘆かはしいことだがここにどんな人でも感心することがある。 先生の著書は古事記伝玉の小櫛などを始め、何百巻といふ大造なもので大抵は出版になつて居るが、その板下は多く先生の自筆である。ところが叉、そんな書物の自筆の清書本が松阪と東京の本居家に残つて居る。さうして見ると下稿(シタガキ)と併せて都合三通づゝは書かれたのである。
先生の日記が松阪の本居家にある。これは三十五六歳の頃から書き始めたもので、死なれた享和元年の九月の十日過まで一日も欠が無い。それに文字の大小体裁が一様で、中古の仮字入らずの記録体の文体まで三十七八年の間一処も違がない。 先生は書物を読むに、心に留つた所は必ず書き抜いて、菓子袋やなんぞの古袋に部類別をして入れて置かれた。それが著述の時に直に材料になつたのである。 先生は毎朝食事が済むと、座敷の柱にもたれて、「今日は何時に誰某の所に行き、内では何々のことをする」と、その日その日の事を必ず内の人に話された。これが如何にもきまり正しく、臨時にそれを変へるとか、思ひ立つて他出をするとかいふことは遂ぞ無かつた相である。
書物の置方も極めてきまりが善かつたので云はば、日本紀の十巻目を出して、あとでしまふ時には、必ず元の十番目の処に入れる。かりそめにも無造作に上げて置く様なことはされなかつた。それで夜中に書物を出すにも明(アカリ)が入らぬ。何番目の本箱のどの段の何冊目といへば手探りでも直に出てくるといふ風に。 かやうに先生は気根がよく、きまりが正しく、そして善く時を用ゐられた。これが本道の学者の風といふものであらう。(本居豊穎の談、明治三十四年二月、三矢重松の記)」

                
  本居宣長を曾祖父にもつ豊穎は、皇太子時代の大正天皇の侍講を務め、明治期を代表する国文学者である。だが、宣長の学説にはしばしば触れても、その人となりについてはあまり語ったことは無い。宣長について語ることの少なかった、本居家の人の語った宣長として、この逸話は貴重である。
 もう一つ重要なのは、これが教師用の指導書に書かれている点である。おそらく全国の教師はこの中の話を教壇で繰り返ししたことであろう。

  先にも引いた『理趣情景』の関連箇所も引く。  
「柱に倚りて日課を定む 宣長は朝早く起きて先づ室の柱に倚その日に為すべき事を予じめ規定するを常とせり(前日既にさだめらるゝものありても)即ちその日の訪問、読書、著述其他の為すべき事を定め置き、一旦其課定に従へば身生に関する大事に非る限り如何なる事生ずるも決して偶然に依りて所定を変ぜざりしといふ、その冷静なる思索力、堅実なる判断力に富みたるを思ふべく(近世の国学界に功績多かりし小中村博士は、一週間の日記をその最初の日に於て予期したりとの事なるが博士もまたよく宣長のに髣髴したる資質ありしに似たリ)」
 (『理趣情景』剣南道人著・東亜堂書店・明治38年7月刊・P211)


>>「宣長の一日」



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