midashi_g.gif 神武天皇陵

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 宣長が「今、かしばらと言う地名は残らないか」と問うたが、「さいふ村は、これより一里余り西南にはあるが、この辺りでは聞かない」と言う返事であった。
 この会話が、
「白檮原(カシハラ)宮・・此地名は、今世に遺らざれども、大宮所は、畝傍山の東南の麓に近き地なりしこと、書紀に著名し」(『古事記伝』巻19)
となる。

 また宣長の見た神武天皇陵は、畝傍山から500から600m離れた北東、田圃の中の1m位の山であった。上には松と桜が植わっている。おかしいよ、と宣長は思った。
 「うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに。綏靖安寧などの御陵は。さばかり高く大きなるに。これのみかくかりそめなるべきにもあらず。かたかた心得がたし。」
 この後も宣長の神武天皇陵探索は、『玉勝間』巻3「神武天皇の御陵」に詳しい。

 そして最終的には、『古事記伝』巻20の次の記述となる。
 まず、『前皇廟陵記』や『大和志』の説を引き、
「これらに云るは、四条村の一町許リ東にて、畝傍山よりは五六町も東北ノ方にあたりて、田間(タノナカ)に僅かに三四尺許リの高さなる小丘(チヒサキツカ)にて、松一木桜一木生(オヒ)てあり、誰も是レを此ノ御陵の趾と思ふめれど、決シテ是レには非ず、まづ地形(トコロノサマ)、白檮(カシノ)尾ノ上など云べき処に非ず、久しき世々を経れば、山も変て平になるなど、常のならひなれども、其もなほ其とは見ゆる物なるに、此地のさまは然らず、山とは清く離れて、其間にいさゝかも、尾の壊れたらむ蹤(アト)など思はるゝ、小高処も残らず、凡て此わたりは、元より平原(タヒラ)なりける地(トコロ)とこそ見えたれ、且(ソノウヘ)上ツ代の御陵どもを今見奉るに、有リつるまゝに全きもあり、又発(アハ゛)き壊(ソコナ)はれて、内のさまの顕露(アラハ)になれるなども多けれども、何れも何れもいと高く大キに、山の如くにて、内の石構(イハガマヘ)など、すべてすべておほろけならず、当初(ソノカミ)大キに厳しかりしほど、推計(オシハカ)られて著明(イチジル)きを、是レはさらに上ツ代の御陵のなごりとは見えず、同ジ山の辺(アタリ)にて、安寧懿徳の御陵などは、さばかり高ク大キなるに、此御陵しもかりそめなるべき理リなきをや、是レはやゝ近き代に、をこの者の、畝傍山の東北にあたりて、此ノ丘(ツカ)のたまたまあるを見付ケて、ゆくりなく是レぞと定めたるなるべし、されど白檮ノ尾ノ上とあるをも考ヘず、上代の御陵どものさまをも知ラずて、いと妄(ミダリ)なることなり」
と書いている。
 いずれも『菅笠日記』での見聞が活用されている例である。
 それにしても、小山の上に松と桜一本ずつとはまるで宣長さんの奥墓だ。

 ところで、この神武天皇陵、幕末になりまた問題となった。最終的には、奈良町奉行から幕閣の要職についた川路聖謨(カワジ・トシアキラ)の『神武御陵考』により、宣長も見た字「神武田」である事が決定され、15,062両を投じて「築造」された。



>>「天皇陵・古墳への関心」
>>「奥墓の桜」
>>「宣長の見た天皇陵と古墳(飛鳥篇)」



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