midashi_b 壬申の乱(ジンシンノラン)

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 天武元年(672)壬申の年6月、天智天皇の子・大友皇子と、天皇の実弟・大海人皇子の間の皇位継承権を巡る内乱。争いは約一ヶ月に及んだ。吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、天皇崩御の後、伊賀、伊勢を経て美濃に入り、東国を固めて、別働隊は倭古京を攻め、大友皇子軍を近江国瀬田で撃ち破り、大友皇子は自害した。大海人皇子は翌年即位し天武天皇となった。

 この時、東国へ使者を出した大海人皇子に、家臣が「きっと行く手を遮られます」と言ったので、大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)等に、「駅鈴」を貰ってこい、もし貰えなかったら、志摩はすぐに報告に戻れ、恵尺は大津に行き高市皇子、大津皇子を連れて伊勢で我等に合流せよと命じた。報告は「鈴を得ず」、壬申の乱の幕は切って落とされた。

  菅笠の旅で宣長は大海人皇子とは逆のコースをたどる。伊賀から名張にかけて歩く宣長の中には『日本書紀』の記述が思い起こされていた。名張の横川、

「いにしへなばりの横川といひけんは。これなめりかし」 (『菅笠日記』)

は、『日本書紀』に
「横河にいたらむとするに黒雲有り、広さ十余丈にして天に経(ワタ)れり」
という記述を思い出してのことだ。

 大友皇子については、宣長の没後の門人・伴信友が『長等の山風』という著述で考証している。


>>「10 宣長と旅 其の弐」『菅笠日記』



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