midashi_g.gif 樹敬寺(ジュキョウジ)

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 【宣長墓・国史跡指定・1936年9月3日】
 松阪市新町884番地。浄土宗。
 小津家(本居家)の菩提寺。村田家の菩提寺でもある。魚町宣長宅から約12分。
 宣長の家は代々熱心な浄土宗信者。菩提寺は知恩院末寺の名刹法幢山樹敬寺。境内には8つの塔頭(タッチュウ)があった。山門近くの嶺松院は宣長歌会の会場。また法樹院は、宣長の家と寺の取り次ぎを行った。

 宣長の曾祖父、祖父は熱心な浄土宗信者で、帰依した様子は『家の昔物語』に詳しい。父も「父念仏者ノマメ心」(『恩頼図』)と言われ、母の実家村田家も樹敬寺の檀家で、また実兄の察然は江戸の増上寺真乗院主を勤めた高僧である。また後年のことではあるが、母も信濃善光寺で剃髪、妹はんも30歳で出家し、末妹俊も夫死没後に剃髪する。このような環境下で育った宣長は、元文4年(1739)、10歳の時に小石川伝通院27世主走誉上人を戒師として血脈を受け法名英笑を与えられた。その後も『円光大師伝』等の書写、19歳の時には本山知恩院を参詣し、樹敬寺縁の通誉上人の墓に参詣。御座敷を拝見し大僧正より十念を授かる。同年7月には父の命日に南無阿弥陀仏を沓冠に歌を詠み、閏10月には樹敬寺で五重相伝を受け伝誉英笑道与を賜る。伊勢に養子に行く直前である。また、15歳の時には樹敬寺の秋彼岸に説教で語られた『赤穂義士伝』を覚え周囲の人を驚かした。修学の中で浄土宗や樹敬寺は大きな位置を占める。

 境内の一族の墓の中に、宣長夫婦、また春庭夫婦の墓もある。

宣長一族墓

宣長一族墓


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(C) 本居宣長記念館


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